きれいなことだけ教えて
庭の奥のほうに、豆粒くらいの大きさの人影が見える。おそらく、父の再婚相手がやってきたのだろうか。もっとよく見えないものかと、アイビスは窓から身を乗り出して目を細める。どうやら自分はあまり視力がよくないらしいが、それがここで不利になるとは。
「お嬢様、ここは3階ですよ、気を付けてください」
昼食の食器を下げに来ていた使用人が見かねて声をかけると、アイビスはおとなしく部屋に体をひっこめた。
「ねえ、おばさん・・・・・・お父様は治ると思う?」
おばさん、と呼ばれたことに眉をひくつかせながらも、使用人はアイビスの問いかけの意味を考える。
「治る?旦那様はお病気を患ってなどいないはずですが」
「嘘つかないでよ。ほら、諸悪の根源はわたしであるって思いこんでるでしょ、お父様は」
「お嬢様」
使用人が目で制するのも気にせずにアイビスは言葉を続ける。
「パラノイアかな。あるいはこの屋敷全体が、集団パラノイアに陥っているか―――――」
「お嬢様!!!」
使用人が叫んだと同時に、勢いよく部屋のドアが開いた。
「お嬢様!ホールより、旦那様がお呼びです」
やってきた使用人に対し頷くと、アイビスは突然の出来事に対しても表情を動かすことなく、すたすたと部屋を出て行った。しかし直後、ドアの外から顔だけを見せ、
「おばさん、あんまり怒らないでよね。血管に負担がかかるよ」
とだけ呟いて去っていった。
取り残された二人の使用人は顔を見合わせる。
「その、ソーニャさん、大丈夫ですか・・・・・・」
おばさん――――ソーニャは眉間にしわを寄せながらドアのほうを睨みつけた。
「ブレンダ、あんたも私の血管を気にしているっていうのなら心配無用よ。ええ、あんな小娘に対して感情を抱くってことがどれだけ無駄なことか、ちゃんと理解しているからね。けれども、旦那様のお嬢様への憎悪は、決してパラノイアによるものではないと確信できるわ!」
「あれでも主人の娘なんですから言いすぎるのはよくないですよ・・・・・・」
しかし、とブレンダと呼ばれた若い使用人は考える。アイビスは些か変わった人だ。13歳の少女であるとは考え難い言動を度々する。部屋に閉じ込められて勉強と読書に明け暮れることしかしてこなかったからだろうか。まあ、人との関りが極端に少ない割には嫌味が上手いのは、毎日退屈しのぎとして使用人たちをからかって遊んでいるからだろうが。おかげでだいたいの使用人はあのやけに整った仏頂面を憎たらしく思っている。
「さ、こんなところでだらだらしているわけにはいきませんね。我々も仕事に戻りましょうか」
ソーニャに声をかけ、ブレンダは部屋を出た。
☆
階段を下りてエントランスホールに行くと、複数人の使用人と父親、そして知らない女性がいた。
アイビスの姿を見るなり、その女性はパッと顔を輝かせ、アイビスににこにこと話しかけた。
「こんにちは、あなたがアイビスちゃん?はじめまして。私はあなたのお父様と結婚することになったマリアンよ。私の話は聞いているでしょう?」
「・・・・・・聞いてないけど」
にこにこと話しかけてくるマリアンの言葉に、アイビスは無表情で答えた。
あら?と父親のほうを見るマリアンに、父親は咳払いで返す。
「挨拶は、手短にしてくれ」
「ああ、そうだったわね!」
マリアンと話しつつも、アイビスはじっと父親のほうを見ていた。その視線を避けるように、父親は手元の新聞を凝視している。
「アイビスちゃん、ごめんなさいね。あなたが病気がちで、あまり部屋から出られないことは伺っていたわ。でもどうしても、挨拶だけと思って、無理を言ってしまったのよ」
なるほど、そういう設定になっていたのか・・・・・・と、アイビスはマリアンに向き直った。アイビスが病気がち、というのは、アイビスを部屋に閉じ込める口実として父親が適当に作った嘘だろう。
「よろしくね、アイビスちゃん。ぜひあなたと仲良くしたいと思っているわ」
「・・・それは、無理だと思うよ」
アイビスがマリアンと父親を見る目は覚めたものだった。
「アイビス!」
父親が、座っていたソファに新聞を叩きつけて立ち上がる姿を見て、アイビスはそっと微笑む。
「面と向かって名前を呼んでくれたの、これが初めてかな」
父親はしばらくアイビスのことを睨みつけていたが、はあ、と軽くため息をつくと、マリアンを見た。
「マリアン、あまりアイビスと関わらないでくれ。彼女に無理をさせたくないんだ」
そういって、マリアンを連れて行こうとする。
アイビスはふむ、と顎に手を当てた。想定外なことに、継母であるマリアンは自分に好意的。使用人たちのうわさによると、由緒正しい家系で愛されて育ったらしい。当然、自分と違って外出したことだってたくさんあるはずだ。そんな人物がこの屋敷にやってきたということは、自分の知的好奇心を満たす機会が到来したといっても過言ではない。
アイビスは顔をあげると、そそくさと去っていこうとする父親の背中に「お父様」と声をかける。父親は無言であちらを向いたままだが、一応足を止めた。それを見て、アイビスは言葉を続ける。
「私に合う眼鏡を買ってほしいのだけれど」