物事の基準なんて知らない。知識がないから。
冬の優しい日の光と、鳥のさえずりで目を覚ます。アイビスはのそのそと起き上がると、昨日誰かが置いていった着替えに手を伸ばす。ひんやりとした空気がからだを包み込んだ。今日もいつもと変わらない、冴えない一日がはじまるのか。
首元のリボンを止めながら、鏡に映った自分の姿をながめた。やせた体に、一切の感情が抜け落ちた顔。この部屋で過ごすこと13年。物は多いが、整頓された部屋だ。様々な形状の置物やら人形やらが、所狭しと置かれているが、決して乱れた配置ではない。どこかすっきりとまとまっているかんじがする。アイビスは、自分が割と神経質であることを自覚していない。
これまでに、関わったのは使用人だけ。しかしそれは、アイビスにとっては当たり前のことだった。
部屋をノックする音が聞こえたので、ドアのほうを振り返る。
「お嬢様、失礼いたします」
若い使用人の声がしたので、アイビスは返事をすることなくまた鏡に向き直った。
数年前、小説の登場人物に憧れて取り寄せた黒いリボンを、髪につける。一応、髪を櫛でとかすそぶりだけしておく。アイビスの髪は、櫛でとかす必要などないくらいにはさらりとしていたが、彼女は小説の登場人物に倣う。小説の中の世界は、彼女の『常識』の形成に大きくかかわっているからだ。
「あの、お嬢様?」
そこではたと、アイビスは異変に気付く。使用人がいつまでたっても入ってこないからだ。いつもなら、使用人は何も言わなくてもずかずかと入ってくるのに。
「お、お嬢様ー?入りますよ・・・?」
おそるおそる、といった感じでドアが開いた。ばちり、入ってきた使用人と目が合う。見たことのない顔だった。とても若い。新しくこの屋敷に入ってきたのだろうか。彼女はドアを開けた状態で固まっていた。
「どうして、ドアの前でそんなにもたもたしてるの?」
「えっ?」
アイビスの問いかけに、使用人は困惑したような表情になる。
「いえ、その・・・お返事がありませんでしたので・・・」
「返事?返事が必要なの?」
「えっ、いらないんですか・・・?」
おどおどとする若い使用人に、アイビスは少しだけ口角を上げてみせた。なんだかこの使用人は落ち着かないようだから、こうやって、安心させてあげよう。
「君、なんだか変わってるね」
「はあ・・・・・・」
部屋に入るときに、ノックをして返事を求めるのは常識ではないのか、と考えたところで、使用人は彼女の父、クラーク侯爵の言葉を思い出した。たしか彼は言っていた。長い時間部屋で過ごしてきたアイビスは相当頭がおかしくなっているだろう、と。なるほど話がかみ合わないのはそういうことか。気にしないでいこう。使用人は無事に気持ちを切り替えることに成功した。
「その、朝食をお持ちしました」
そういいながら、朝食の置き場をさがす。この使用人は、アイビスの予想通り、つい最近クラーク侯爵に雇われたものであり、アイビスと接触するのが初めてであったため、食事をどこに置くべきかすらわかっていなかった。まあ、アイビスとかいうクラーク家の一人娘は、だいぶ屋敷の者たちからずさんな扱いを受けていると聞くし、自分もそれほど気を使う必要はないだろうと思い、目に入った机の上にとりあえず置いた。
「30分後、食器を取りにまいりますね・・・」
こんな得体のしれない娘と二人きりでいる時間なんて、短いにこしたことはないと思い、使用人はとっとと退散しようと身をひるがえす。そのときだった。肘が何かにあたった。数秒後、盛大に何かが割れる音がした。足元でバラバラに割れた花瓶を見て、使用人の顔はみるみる青くなった。やってしまった。
「も、申し訳ありません・・・!!」
おそるおそるアイビスのほうを向くと、彼女はすでに椅子に座ってむしゃむしゃとパンを食べ始めていた。アイビスは特に怒ったり悲しんだりする様子もなく、淡々と
「それ、早く片付けて。お父様に、新しいのを買ってって言っておいて」
と告げた。
「かしこまりました・・・」
後日、このことを侯爵に話すとともに謝罪した。侯爵はメイド長に新しい適当な花瓶を取り寄せるように指示すると、この使用人にも早く仕事に戻るように言った。どんな制裁が与えられるだろうとかなり緊張していた使用人は思わず拍子抜けした。メイド長曰く、侯爵は娘に関する話はあまりしたくないらしい。娘ができるだけ存在感を消していてくれることが侯爵の望みであるため、なにかを買い与えて黙るのであればそれでいい、と。
けれどまあ、給料は引かれるだろうなと考え、若い使用人はため息をついた。
☆
侯爵が新しい奥様をお迎えするらしい、という噂が立ったのはそれから数日後のことだった。アイビスは部屋の内側からドアに耳を押し当て、廊下の使用人たちの会話を聞いていた。どうやら妻を亡くしたお父様の傷は少しずつ癒えていて、跡継ぎも必要なため再婚を考えているらしい。自分にはあまり関係ないか、と思いアイビスはベッドに寝転ぶ。お母様は、私を生んだせいで死んだから、お父様は、私のことが嫌い。アイビスは知っていた。
それ以降、このことをアイビスに話した使用人がアイビスの部屋に来ることは、二度となかったが。
アイビスは枕元に置いたあった、母と子の愛情を描く小説の表紙をぼうっと見つめた
新しいお母様ができるなら、この本の意味も理解できるだろうか。いや・・・お父様はたぶん、新しいお母様と私を、会わせてくれないだろうな。
昼下がりの日差しをあびると、うとうとと眠くなってきた。アイビスはそのまま睡魔に身を任せた。