私を愛してくれない婚約者の日記を読んでしまいました〜実は溺愛されていたようです〜
社交界デビューをしてすぐ、伯爵令嬢である私、セレナ・フォルティスは、公爵家の三男で騎士団に勤めるカイン・ゼンフィス様と、政略的な婚約を結ぶことになった。
その後初めて行われた我が家での顔合わせで彼に言われた言葉は衝撃的すぎて、三年経った今でも忘れられない。
二人で庭園を見てくるといい、と両親たちに促され、そうして二人きりになった途端、彼はこう言い放った。
『こんなふうに君と婚約することになって、とても残念に思っている。私たちが結婚することはもう仕方ないが、お互いが嫌な思いをすることがないよう、なるべく君には近寄らないようにするから、君も気をつけてくれ』
……えっ。それって、私が近くにいるだけで不快だってことですか?
驚きすぎて思わずそんな言葉が口から飛び出しそうになったが、すんでのところでとどまった。
彼の短い赤茶の髪が風に揺れる。
感情を映さないグレーの目をどれだけ見つめても、なぜ彼がそんなことを言うのか、答えはわからなかった。
初めて会った時も思ったことだが、彼はあまり表情豊かな方ではない。それもあって、私はいっそう彼に冷たく突き放されたような感じがした。
彼の言動はとても失礼だし、腹立たしく思うけれど、かといって怒りのまま失礼な言葉を返してしまえば、関係が破綻するのはわかりきっている。
少なくとも私は彼のようにこの婚約を残念だとは思っていなかったし、二人きりになって初めてかけられたのがそんな言葉だったとしても、まだ彼との良好な関係を諦めたくはなかったのだ。
『……カイン様を不快な気持ちにさせないよう、重々気をつけたいと存じます』
私がなんとか返せたのは、そんな言葉だけだった。
私の反応が不満だったのか、彼は戸惑ったように顔をしかめると、ふいっと私から目を逸らした。
その後、彼が私と目を合わせることはなかった。
そして、その後は二人とも無言で庭園をぐるっとまわり、その日の顔合わせは終了した。
こんなことがあっても私がカイン様との婚約を続けたいと思うのは、彼と初めて会った時のこともまた、私の中で強烈な印象として残っているからだった。
それは私が社交界デビューとなる王城のパーティーで、幼い容姿をからかわれ、落ち込んで会場を抜け出し、一人で庭園のベンチに腰掛けていた時のことだった。
◆
「君、どうしたんだ?」
泣くまいと必死で気を張っていた私は、突然声をかけられてビクッと体を強張らせた。また誰かが私をからかいに来たのかもしれないと思ったのだ。
思わずキッと睨むように声の主を見上げると、そこには驚いたような顔でこちらを見る大柄な男性がいた。
彼は有名人だったので、私はすぐに、彼が誰なのかわかった。
ゼンフィス公爵家の三男、カイン・ゼンフィス様。
近衛騎士団に所属しており、その強さから異例の若さで王太子の側近に抜擢されたという剣技の申し子、らしい。鍛え抜かれたたくましい体つきは、服の上からでもよくわかった。
私と違ってすごく背が高い彼はそれだけで目を引くが、同時に高貴なオーラというか、少し近寄りがたい雰囲気もあるので、遠巻きに騒がれていたのを覚えている。
「申し訳ございません。また誰かがわたくしに余計なお節介を焼きに来たのかと思って、失礼な態度を取ってしまいました。お許しくださいませ」
私が謝罪すると、呆気にとられていたらしい彼が、慌てたように手を振った。
「いや、いいんだ。こちらこそ、急に声をかけてすまない。今日がデビュタントだろう令嬢がこんなところに一人でいるものだから、何かあったのかと思って」
そう言って彼は、私の白いドレスに視線をやった。
今日のパーティで白を基調としたドレスを着ているのは、デビュタントを迎えた令嬢だけだ。ドレスを見れば、私がそうだとすぐにわかるだろう。
私は、ここに来るまでは似合っていると感じていた自分の衣装を、情けない気持ちで見つめた。
この白いドレスは、社交界の仲間入りを果たしたという証明でもある。けれど、同じく白いドレスを着た同い年の令嬢たちに比べて、私は一回りほど体が小さく、幼く見える。先ほど、同い年の令嬢たちからそれをからかわれてしまったのである。
「まぁ、フォルティス嬢はお小さくて、大変可愛らしいですわね。けれどデビュタントは、一年か二年、遅らせた方がよかったのではありませんか?」
「わたくしたちと同じ十四歳には、とても見えませんものね」
「まぁ、そんな言い方をしては気の毒ですわ。フォルティス嬢の成長期は、きっとまだこれからなのですから」
くすくすと笑いながら蔑みの視線を向けられて、私は初めて、自分がこの場所でどれだけ浮いていたのかを自覚した。
確かに周囲の令嬢たちはみんな私よりも背が高く、体型もかなり女性らしくなっている。私は自分のささやかな胸元に手をやると、恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じた。
私は世間知らずだったのだ。
他の人より小さく生まれ、病弱だった私は、体の成長も遅かった。けれど、だからこそ過保護になった家族に囲まれて、愛情をもって育ててもらったので、こんな悪意にさらされることなど今までなかった。
いつも、可愛い可愛いと言ってくれる両親や使用人たちの言葉を真に受けて、親しくない人たちから、本当は自分がどのように思われる外見であるかなんて気にもせず、のんきにデビュタントを迎えてしまった。
そんな自分の愚かさにようやく気がついて、余計に恥ずかしくなってしまい、私は思わずその場から逃げ出した。
「お気遣い、ありがとうございます。おっしゃる通り、今日はわたくしのデビュタントだったのですけれど……わたくしには、社交界はまだ早かったのかもしれません。わたくしは外見だけでなく、考えまで幼かったのだということに、先ほどようやく気づいたのですから」
そう言って苦笑すると、カイン様は少し驚いたように目を見張った。
「もしかして、誰かにそう言われたのか? 確かに君は小さいから少し幼く見えるかもしれないが、これから成長期を迎えるのは他の令嬢たちも同じだろう。それに、そんなふうに自分を客観的に見て問題点を見つめ直せるのは、立派なことだと思う」
「……っ!?」
真顔でそんなことを言われて、私は思わず言葉に詰まりながら、目を見開いて彼を見つめた。彼の雰囲気は真剣そのもので、ただ慰めるためだとか、その場限りの嘘などではなく、真実そう思っていることが伝わってくる。
家族以外の人に立派だと言ってもらえたことで、張り詰めていた気持ちが緩んでいくのを感じた。涙腺まで緩みそうになったが、グッと堪えて微笑んだ。
「ありがとうございます。あなたのおかげで、元気が出てきました」
「……それはよかった。よければ、君のパートナーがいるところまでエスコートしよう」
困っている人を放っておけない質なのか、そう言って彼は私に手を差しのべた。その手の大きさに、思わず目を奪われる。
……なんて大きな手。お父様やお兄様よりもずっと大きいわ。
少し緊張しながら、そっと彼の手を取って立ち上がる。少しゴツゴツした大きな手は、文官である父や兄と違ってとても固くて、なんだかドキドキしてしまった。
けれど、座っていた時にはあまりわからなかった彼との身長差が、並んで歩くとはっきりとわかってしまい、私は少し落ち込んだ。
……私の身長、彼のお腹くらいまでしかないわ。早く、もっと大きくなりたいな。
その後、私の姿が見えなくなって心配していた兄と合流できるまで、彼は私に付き添ってくれたのだった。
……落ち込んでいた時に優しい言葉をかけてくれて、なおかつこんなにも紳士な対応をされたら、しばらく彼のことで頭がいっぱいになってしまうのも、無理はないと思うの。
でも、彼は私より十歳も年上で、公爵家と家柄も良く、近衛騎士団のエリートで、背も私よりずっと高くて大人な、社交界で引く手あまたの花婿候補だ。
今はまだ婚約者はいないらしいけれど、それは時間の問題だろう。
そしてその相手は、きっと大人っぽくて綺麗な、見た目も中身も釣り合う素晴らしい令嬢に違いない。
……社交界デビューしたばかりの、しかも普通の人よりずっと幼く見える、中身もようやく大人への第一歩を踏み出したばかりというような小娘である私が、彼の恋愛対象になんてなるはずがないわよね。
芽生えかけた分不相応な恋心は封印するべきだと考えていたのだが、すぐに事態は思わぬ方向へ動いた。
なんとお父様が、カイン様との婚約を取り付けてきたのである。
なんでも、家同士の求める条件がピッタリ当てはまったので、すぐさま婚約をまとめてきたとかなんとか。
貴族の結婚は当主が決めるものとはいえ、通常は事前に本人の意向を確認するものだ。
普通ならば怒るべきところだけれど、私にとってこの婚約は、驚くのと同時に、舞い上がるほど嬉しいものだった。
お父様はそんな私の様子を見て、してやったりというように笑っていた。どうやら、デビュタントパーティーから帰ったあとの態度や言動から、私のささやかな恋心は家族にすっかりバレてしまっていたらしい。
もしかしたら、私に甘いお父様が暴走した結果なのではと思ったけれど、家格は向こうの方が上なので、お父様が無理を通したわけではないはずだ。
……もしかしたら、彼も私のことを、ほんの少しでも気に入ってくれたということかしら?
そんな淡い期待は、婚約後初めての顔合わせで、粉々に砕け散ったのである。
◆
「……」
「…………」
今日は、待ちに待った月に一度の逢瀬の日だ。彼は婚約者の義務だからと、こうして毎月必ず、短い時間とはいえ我が家を訪ねてくれる。
けれどカイン様と交わしたのは、まだ最初の挨拶と、お茶を勧めた際のやりとりのみ。
彼は事務的なこと以外はほとんど何も話してくれないし、初めて会った時のように、手を差し出して席までエスコートしてくれることもない。あの時と違って婚約者になったのだから、エスコートするのが当然であるにもかかわらずだ。
極力私に近づかないよう、間違っても触れないよう、彼は常に私と一定の距離を置いている。物理的にも、心理的にも。
まず、目を合わせてくれない。
話しかけても、「そうだな」とか「ああ」などの相槌ばかりで、会話に発展しない。いつも、ただ少しの間、一緒にお茶を飲んでいるだけだ。散歩や観劇に誘っても、忙しいからと断られてしまう。
お仕事が忙しいのは仕方がないけれど、外で会うことを拒否されていると感じるのは、気のせいではないと思う。
唯一会えるこの時間も、いつものように、私から会話を切り出さなければお茶を飲むだけで終わってしまう。
私はとりあえずとばかりに、無難な話題を投げかけた。
「最近は暑くなって参りましたね」
「ああ」
「毎日の訓練がお辛いのではないでしょうか?」
「いや、この程度なら問題ない」
「……そうですか。それはよかったです」
すぐさま会話が終了してしまった。
……いやいや、これくらい想定内よ。めげるな、私。あ、そうだ。あの話題なら!
「そういえば、パーティー用のドレスを贈ってくださり、ありがとうございます。とても綺麗で、着るのが楽しみです」
「ああ」
「少し大人っぽいデザインでしたが、わたくしに似合うでしょうか?」
「執事に任せたから、不適切なデザインではないはずだ」
「……あ……そう、なのですか」
こちらを見ることもなく発されたカイン様の言葉に、私は気持ちがみるみる萎んでいくのを感じた。
……そうよね。お忙しいカイン様が、好きでもない私のために、わざわざドレスを選んでくれるわけがなかったのに。
その後、気落ちしてしまった私はとても積極的に会話をする気になれず、いつもより交わす言葉が少ないまま、月に一度のお茶会は終わってしまった。
「……はぁ、ダメね。今日は今までで一番ダメだったかもしれないわ」
私はカイン様のお見送りを済ませると、どんよりと重い足取りで自室へと足を向けた。
「セレナお嬢様、元気を出してください。ゼンフィス様はきっと、お嬢様の美しさを前に緊張してしまっているのですよ」
「……ありがとう、アンナ。でも、婚約してもう三年になるのに、さすがにそう考えるのは無理があると思うわ」
専属メイドのアンナが慰めてくれるけれど、彼が私につれない態度を取るのは、単純に、私に興味がないからなのだろう。
あの恥ずかしいデビュタント以後、私は見た目も中身も、ずいぶん成長したと思う。
彼に相応しい令嬢になれるよう、必死で勉強に励んだし、苦手な食べ物もきちんと食べて、苦い薬も逃げずに飲んだので、すっかり健康になった。
体はまだ比較的小さめだけれど、おかしいというほどではなくなったし、カイン様の胸くらいまでは背が伸びた。体型だって、かなり女性らしくなったと思う。成人まではあと一年あるので、まだもう少し成長するかもしれない。
だからか、最近はずいぶん外見を褒められることが増えた。
……もちろん、カイン様以外の人に、だけれど。
ふわふわとウェーブを描く、お父様と同じプラチナブロンドの長い髪や、瑠璃色の目は自分でも気に入っているし、顔立ちは美人と評判のお母様とそっくりなので、恐らく私の外見が気に入らない、というわけではないと思う。
何か自分が怒らせるようなことをしたのか、気に入らないことがあるなら教えてほしいと尋ねても、カイン様は無表情で首を振るだけだ。おまけに『君が悪いわけではない。望まない婚約を結ぶことになってしまったのはひとえに私の力不足だ。君には申し訳ないと思っているが、お互いのため、極力接触は減らすべきだ』と言って、頑なに私と距離を取ろうとする。
……一体なぜ、カイン様は私を避けるのかしら。
やはりどうしても、私のことが好きになれそうにないから、とか?
婚約した当時は、私もまだ見た目からして幼かったし、彼の恋愛対象になれなくても仕方なかったと思う。でも、私ももうすぐ成人だ。
それでも、彼にとって私が十も年下で、体格もかなり小柄であることはずっと変わらない。それが原因なら、もしかしたら彼が私を女性として見てくれることは永遠にないのかもしれない。
そう思ってしまうような状況ではあるけれど、彼は婚約という契約に対しては誠実でもあった。
他に相手がいるという話は全くないし、私が婚約者から冷遇されていると恥をかかないよう、週に一度は花を贈ってくれるし、月に一度はこうして家を訪ねてくれる。公式的な場には婚約者として一緒に出てくれる。
ただし、エスコートはピクリとも動かない彼の腕に私が手を添えるだけで、必要以上に体を寄せることさえ、彼は許してくれない。ダンスを踊るのも、必要最低限だけだ。
部屋へ戻り窓から外を眺めると、帰路につくカイン様の馬車が見えた。
……どうしたら、私のことを好きになってくれますか?
答えなんて返ってくるはずもないのに、私はそんなことを考えながら、遠ざかっていく馬車をじっと見つめていた。
ーーそんな私のモヤモヤが一気に吹き飛ぶことになるなんて、この時は思ってもいなかったのである。
◇
今日は、本来なら月に一度のカイン様とのお茶会のはずだった。
けれど、急遽仕事になったので来られないと、彼の家から使いがやってきた。
今までにもこういうことはあったので、少し残念に思いながらも了承する。そしていつもなら、その場で代替日を決めるはずだったのだけれど。
『急なお誘いにはなりますが、よろしければ本日夕食にご招待したいと、主人から言付かっております。仕事後にカイン様がこちらへ向かうには時間が足りませんが、夕食までに帰られれば、もしかしたら一緒に召し上がることができるかもしれないからと』
公爵家当主からの、気遣いによるお誘いだった。断るなんて考えられない。
婚約してから三年の間に公爵邸へ招待されたのなんて数えるほどだけれど、私は迷うことなく招待に応じた。
そして夕食どきよりも少し前に、馬車で迎えにやって来た公爵家の従者と共に、私は公爵邸へと向かった。
そして、まず案内されたのは、なぜかいつも通される客間ではない、書斎と客間が一体になったような、妙に立派な部屋だった。その広さと家具や調度品などが異様に豪奢な気がして、私は首を傾げる。ここは、果たして私が入ってもいい場所なのだろうかと、頭に疑問が浮かぶ。
案内してきた執事に聞こうにも、彼は私を部屋へ入れるやいなや「夕食の準備ができているか確認して参ります。お嬢様は机の上の本など読んでお待ちください。少々時間がかかるかもしれませんので」と言い残し、足早に出ていってしまった。
勝手に一人でここを出て歩き回るわけにもいかず、私は所在なく部屋を見渡す。
とりあえず、執事さんの言うとおりにしてみようかと机に向かい、一冊だけポンと置いてある本に手を伸ばした。本を読むのはわりと好きだったし、現状、そうするしかないだろうと思ったのだ。
手にとってみたものの、それは何だかおかしな本だった。ハードカバーだけれど題名はないし、パラリと表紙をめくると、副題もなく、インクで手書きされた文字がつらつらと並んでいた。昨今は印刷物が主流なので、今どき手書きの本は珍しい。もしかして貴重な本なのではと思ったが、パッと見た感じでは、なんだか事務報告書のようだった。
執事さんに言われるままサラッと読みはじめてみたものの、内容がよくわからない。けれど、あるページから、パッと字の密度や内容の雰囲気が変わった。私はその辺りを、ゆっくりと読み進める。
【今日、私はありえないほど愛らしい生き物に出会った。夜の庭園で必死に涙を堪えるように震えている小さな姿を見つけて、思わず声をかけた。ビクッと肩をすくませて、睨むように強い眼差しでこちらを振り向いたのは、妖精のように可愛らしい少女だった】
「……?」
なんだろう、これは物語だろうか。
はじめは事務報告書のようだったのになぜいきなり物語が始まったのかはわからないけれど、どこか既視感を感じた私は、興味を惹かれて読み進める。
【彼女のふわふわしたプラチナブロンドの髪は月明かりに反射して静かな輝きを放ち、瑠璃色の目は今までに見たどの宝石よりも美しかった。まるで実在する人間ではないような、ふとした瞬間に消えてしまうのではないかと思える危うげな魅力を持つその少女は、私を認識するとキョトンと険の取れた表情でこちらを見つめてきた。よく見れば、相手はまだ多分に幼さの残る少女だ。自分の胸が高鳴っているのは、きっと気のせいに違いない】
「……」
既視感が気のせいと言える範疇を超えてきたように思えるが、私が今考えていることはありえないことなので、やっぱり、きっと何かの間違いだ。
もう少し読んでみようと、私は無心で本に綴られた文章の続きを目で追った。
【少女はとてもよく似合う白いドレスを身にまとっていた。やや幼く見えるが、今日デビュタントを迎えた令嬢のようだ。それならば、彼女のことをもっと知りたいと思っても許されるだろうかと、そんなことを考えてしまう自分に驚いた。話してみれば、どうやら会場で同い年の令嬢たちに容姿をからかわれたようだった。幼く見えることを揶揄されたようだが、恐らく一際目を引く彼女の愛らしさに嫉妬した者たちの仕業だろう。必死で泣くまいと、強くあろうとする健気な姿や、私の言葉で元気が出たと笑う姿に、目が釘付けになってしまった】
「~~~~っ!?」
私は本から思わずバッと目を逸らした。視線の先にあった、机の角を意味もなくじっと見つめる。
頭が混乱しているし、顔に熱が集まってきて、とてもあつい。少し心を落ち着ける必要がある。
……この本は、一体なに? まさか、これを書いたのはカイン様なの!?
でも、おかしい。カイン様が、こんなことを考えていたはずがない。だってカイン様は、私とダンスを踊るのも嫌なほど、私を嫌っているはずだから。
もしかしたら、これはあの日の様子を見ていた誰かが書いた、創作の物語かもしれない。そう言われた方が、むしろ納得できる。
そう思い、私はもう少し続きを読んでみることにした。
【会場までのエスコートを申し出て手を差し出したが、おずおずと乗せてきた彼女の手の小ささ、そして白さと柔らかさに驚愕した。手に少し触れているだけなのに、なぜか悪いことをしているような気分になる。女性をエスコートすることには多少慣れていたはずだが、もし握りしめたら彼女の指が折れてしまうのではないかと、恐ろしくなった。彼女より幼い、十歳の姪にさえこんなふうに思わないのに、私はどうかしてしまったのだろうか】
「……」
やけに心理描写がしっかりしている。
これを書いたのはきっと、とても想像力豊かな人なのだろう。
私は頬に集まる熱に気づかない振りをしながら、文章の続きに視線を落とす。
【彼女の手を傷つけることなく、なんとか保護者の元へと連れて行くことができた。彼女は伯爵家の令嬢らしい。自分の相手としておかしくはない家格の令嬢であったことにホッと胸を撫で下ろした。その時点で、自分が彼女を望んでいるという事実を否定するのは難しくなっていた。だが、彼女は見るからにか弱く繊細な少女だ。十も年上の無骨な男にそのような目で見られていると知れば、驚き怯えるに違いない。この想いは秘めておかなくては】
「……」
これは、本当に創作の物語だろうか。それとも、私は今、自分に都合のいい夢を見ているのだろうか。
夢の続きを見てみたくて、私はさらにページをめくる。
【なんということだ。早く相手を見つけるようにと常々父から言われてはいたが、まさか私に了承を得ることもなく、勝手にあの少女との婚約を取り付けてしまうとは! 態度に出していたつもりはないというのに、息子の想いなどお見通しということらしい。……あのたぬき親父め! 既に婚約を結んでしまったとなれば、解消するわけにもいかない。彼女の名誉にかかわる。婚約者となったからには会わないわけにはいかないというのに、私が知るどの令嬢よりも華奢で儚げな彼女に私のような大男が触れれば、彼女の骨が折れてしまうのではないだろうか!? だが、彼女はものすごく可愛い。直視すれば抱きしめたくて仕方なくなるので、とても危険だ。彼女には極力触れないよう、常に目を合わせないよう、気をつけなくてはなるまい】
「……!」
私は顔どころか、体中が沸騰するような羞恥に襲われた。
……まさか、カイン様がつれない態度を取っていたのは、そんな理由だったの!?
でも、可愛いとか抱きしめたくなるとか、そんなことを考えていたようにはとても見えなかった。そうだとしたら嬉しすぎるけれど、これは本当に、カイン様の書いたものなのだろうか。私たちの婚約の経緯を知る誰かの、思い込みや妄想の産物という線もまだ捨てきれない。
そう考えたが、確かに、思い当たることがないわけではない。
近寄らないように、触れないように私を避けるくせに、毎月必ず会いに来てくれる。都合が悪くなれば、代わりの日を設けてまで。
週に一度の花束やドレスなど、定期的に贈り物もしてくれる。私が恥をかかないよう、様々な面で心を配ってくれていた。
私は彼に近づきたくて、でもいつも拒絶されて、悲しくて不満に思っていた。でもそれは、私に触れたら傷つけるかもしれない、と彼が思っていたからなのだろうか。
……私はガラス細工でもなんでもなく、ただの、カイン様の婚約者なのに。
そんな不満を心の中でこぼしながら口を尖らせるが、頬の熱は一向に引いてくれない。
……ここに書かれていることを、信じてもいいのかしら?
もっと先を読めばきちんと確証が得られるだろうかとも思うが、これがカイン様の書いたものであるならば、これ以上読むのも気が引ける。ここまで読んでおいて何を、とは自分でも思うけれど。
そんなことを考えていると、部屋の外がにわかに騒がしくなってきた。
なんだろう、と廊下につながる扉を見つめていると、やがてバタバタと騒がしい足音が近づいてきて、すぐにバタンと大きな音をたてて勢いよく扉が開いた。
「……っ!」
扉の奥に現れたのは、見たこともないほど焦った様子のカイン様だった。その後ろには、楽しそうな笑みを浮かべた公爵夫妻と執事の姿も見える。
「カイン様?」
「セ、セレナ嬢。もしや、それを……それを見たのか?」
私が手に持っている本を指してそう言うカイン様は蒼白で、まるでこの世の終わりのような顔をしている。
頼むから否定してくれ、と言わんばかりに彼の声が震えていることからしても、どうやらこれは彼が書いたもので間違いないらしい。そう確信して、彼とは対照的に、私の胸は喜びでいっぱいになる。
私は恥ずかしさと気まずさと申し訳なさがないまぜになった複雑な気持ちで、小さく返事をした。
「えぇと、その……はい。すみません」
「あぁ……」
私の答えを聞いて、カイン様が膝から崩れ落ちた。
◇
目の前には、どんよりと項垂れたカイン様。
公爵家の面々と和気あいあいとした夕食を終えたあと、私は公爵家の馬車で、カイン様に送ってもらっていた。
夕食の間、カイン様は頑なに私の方を見ようとせず、少し気まずい思いをしていたが、それを公爵様が一喝した。
『カイン。私たちが奸計を巡らせたことは悪かったと思っているが、それはお前の態度が目に余るものだったからこそだとわかっているか? 大事なことを履き違えて惚れた女性を傷つけるなど、男の風上にも置けん行為だと胸に刻み込め』
そう言った公爵様は、父親らしい威厳と愛情に溢れていた。
どうやら、カイン様が自身の想いを綴ったあの本の存在を知った公爵様が、執事に命じて私があの本を読むよう誘導したらしい。想い合っているのにすれ違い続けている私たちの関係を見るに見かねたようだ。
カイン様はグッと拳を握りしめると、覚悟を決めたように私を見た。
「セレナ嬢ーー」
「好きです」
「はっ?」
ぽかんと口を開けて私を凝視したまま、カイン様が固まった。
私はスッと背筋を伸ばし、恥ずかしさに怯みそうになる自分を叱咤して、精一杯に想いを伝えた。
「日記を見てしまってごめんなさい。公爵様はわたくしを避けるカイン様を叱っていたけれど、それはわたくしも同じでした。嫌われているのかもしれない、想いを伝えても拒絶されたらどうしようと怖くて、今まで、あなたのことが好きだと言えませんでした。わたくしはあなたに立派だと褒めていただいたのに、その言葉に相応しい行動が取れていなかったのです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
視線を逸らして少しうつむいたまま一気に言い募ると、カイン様から待ったがかかった。
恐る恐る視線を上げると、そこには見たこともないほど顔を真っ赤にしたカイン様がいた。
「カイン様……?」
「いや、待ってくれ。それは本当か? 私の気持ちを知って、気を遣ってそう言ってくれているのではないか? 君がまさか、剣術バカと名高く女心など微塵もわかっていないと言われる私のことを好いてくれているなど……」
……そんなこと、誰に言われているんですか、カイン様。
「違います。わたくしは初めて会ったあのデビュタントの夜から、カイン様を、その、お慕いしております。ですから、婚約が決まったと聞かされた時は、とても嬉しかったのです」
「なっ、いや、えぇっ!?」
真っ赤になって目を見開き、慌てているカイン様が、なんだかとても可愛く思えた。十歳も年上の大人であるカイン様に、こんな一面があったなんて、今まで知らなかった。
「……初めて会った時から思っていたが、あなたは本当に格好いいな。それに比べて、私はなんと情けないのだろうか。女性に先に言わせてしまうなんて」
「え?」
項垂れながら独り言のように呟かれたカイン様の言葉は、あまりよく聞こえなかった。何と言ったのだろう、と彼の顔を覗き込もうとすると、彼も私を窺うように、少しその顔があげられた。
「セレナ嬢。その、手に……触れてもいいだろうか」
私はコクリと頷いて、スッと右手を差し出した。
恐る恐る、カイン様が私の手を取って、壊れないのを確かめるように、ゆっくりと握った。まだ私の骨を折ってしまうことを警戒しているらしい。
「その、先程の君の言葉が本当なら……私が未熟なばかりに、今まで辛い思いをさせたと思う。本当に申し訳ない。……許して、もらえるだろうか」
私の様子を窺うカイン様の大きな体が、なんだか今は小さく見える。それがおかしくて、私はクスッと笑って返事をした。
「これからはわたくしの目を見て話をして、ダンスも一緒にたくさん踊ってくれるなら許してあげます」
バッと顔をあげたカイン様と目が合った。その目が、嬉しそうに柔らかく細められる。
「ありがとう、セレナ嬢。私も、あなたが好きだ。愛している。成人したら、すぐに私と結婚してほしい」
かつてないほど甘い彼の表情と声音に、胸が激しく高鳴るのを感じた。
耳を赤くしながらそう言った彼の真剣な眼差しが、今もまっすぐに私を見ている。
嬉しすぎて言葉に詰まり、「喜んで」となんとか答えた私の頬もきっと、赤く染まっているに違いなかった。
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