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杪秋  作者: 紫 李鳥
6/6

 


 ! ……馬? ……まさか?


「萩野さん?」


「あ、はい」


鬼怒川(きぬがわ)で倒れていた」


「ええ」


「わたくし、クレナイコウという者です。お嬢さんのことでお話が」


 俺は勘で、この萩野と虹子は親子だと判断した。それは、“目”の酷似だった。


「……どうぞ」


 俺を部屋に通すと、茶を淹れた。


 調度品らしき物も無いその六畳一間には、女の気配は無かった。つまり、虹子とは同居していないことが推測できた。


「……娘とはどこで?」


「あなたが倒れていた近くです。彼女も倒れてた」


「えっ! 娘が?」


 萩野が驚いた顔を向けた。


「ええ。記憶をなくしていて」


「……記憶を?」


 萩野は俺の前に湯呑みを置くと、ちゃぶ台を挟んだ。


「何があったんですか? あの場所で」


「さあ……」


 萩野は他人事のように首を傾げた。


「さあって、記憶が戻ったんでしょ?」


「いいえ、戻ってません」


「はあ?」


 俺は合点がいかなかった。


「知り合いだという女に、名前と住所を教えてもらって、ここに辿り着いたんです。鞄にあった鍵でドアが開いたので、ここに住んでいたのだと分かりました」


「……じゃ、何も覚えてないんですか? お嬢さんのことも」


「ええ。何一つ」


「お嬢さんの名前も?」


「……思い出せません。知り合いだというその女が教えてくれたのは、私の名前と住所。そして、観光をしていたと言うことだけです。ですから多分、足を滑らせて渓流に落ちたんだと思います」


「……お嬢さんに関する物とか、写真とか、何か分かる物があるでしょ? 親子なんだから」


 釈然としない結果に、俺は苛立っていた。


「いや。私も探してみましたが、何一つ無かった。娘との写真もアドレス帳も……」


「…………」


 これ以上、萩野からは何も得ることはできない。虹子の名前も、住所も……。


 取り敢えず、自分の本名と住所、電話番号を教えると、もし、娘さんから連絡があったら私が来たことを伝えてくれるように伝言を頼んだ。



 大輝が待つ喫茶店に急いだ。


 折角、東京まで来たのに空振りか。それより、朗報を待っている大輝になんて言えばいいんだ……。



 窓際に座っていた大輝は、入る前に買ったマンガ本を見ていた。


「ごめん、ごめん」


 急いで、大輝の前に座った。


「いた? ニジコさん」


「いや、……留守だった」


「えー?」


 残念そうに、大輝が(しか)めっ面をした。


「電話をくれるように、虹子さんのお父さんに伝言したから大丈夫だよ。……近いうちに会えるようにするから」


「ホントだよ、約束だよ」


「分かってるって。楽しみにしてな」


 難関を切り抜けたかった俺はお茶を濁した。



 虹子からの待望の手紙が届いたのは数日後だった。だが、その内容はあまりにも衝撃的だった。



 《拝啓

 晩秋の候 いかがお過ごしでいらっしゃいますか その節は大変お世話になりました 見ず知らずの私に色々とご配慮いただき誠にありがとうございました

 この度は私を探しに父を訪ねてくださったとのこと ご足労をおかけしました 折角 お出でくださいましたが私はそこまでして頂く価値など無い人間です なぜなら 私は人を殺し損ねた女だからです》


 ! 予想だにしなかった内容だった。


 《真相をお話しします あの日 温泉に招待するからと言って 父と鬼怒川温泉駅で待ち合わせをしました そして旅館の夕食まで時間があるからと言って渓流の散策に誘いました 勿論 宿など予約していません 渓流に誘うための口実です

 酒が入っていない父は借りてきた猫のようにおとなしく まるで別人でした 私は迷いました しかし 酒乱のこの男は酒が入ったらまた お金をせびり しつこく追い回して 恋も幸せも奪い取るんだろうなと思うと憎しみが込み上げてきて 思いっきりその背中を押しました

 父は短い悲鳴と共に渓流に落ちました 急いで父の鞄からアドレス帳を奪うと 私は必死でその場から走って逃げました その時 躓いて転倒したのです

 早い時期から記憶は戻っていました でも 紅さんの家庭の温もりに甘えていました 居心地が良かったから でも 巡査の話を聞いて その老人は父に違いないと判断した私は これ以上長居すれば紅さんに迷惑がかかると思い 出て行くことにしました

 それに 記憶を失った父をそのまま放っておく訳にはいきませんでした 知り合いだと名乗り 父の名前と住所 観光客であることをメモした紙を父に渡してくれるよう看護婦に託し その場を去りました

 父は未だに記憶が戻っていません 私が娘だということすら分からないようです 記憶と共に酒飲みだったことさえも忘れ 一滴も飲まないので助かっています 父は年金暮らしなので生活の方は心配ないのですが 記憶をなくしているので 時々は様子を見に行こうと思っています

 未遂とは言え 私は父を殺そうとした女です 犯罪者です こんな女のことは忘れてください

 どうぞ 大輝君とお幸せに さようなら

      かしこ

 小杉謙太郎様

    萩野麻友美》



 ……まゆみ、と言うのか。


 子供は親を選べない。幸せ薄い麻友美の人生を思うと、胸が締め付けられた。



 俺も手紙を書いた。麻友美の手紙には住所が書いてなかったので、父親宛ての封筒に同封した。



 《ーーあなたは記憶をなくしたお父さんを助け 心配だからとお父さんに会いに行っている それで罪は償ったのではないでしょうか だって お父さんは生きているのですから もう 自分を責めないでください

 もしかしたら お父さんは記憶が戻っていない振りをしているだけかも知れない あなたを犯罪者にしたくなくて そして 記憶喪失者を装い 酒を断つことであなたにしてきたことを償っているのではないか そういう可能性も考えられます だから もう自分を責めないでください これからは あなたの生きたいように自由に生きるべきです

 あなたが居なくなってから 大輝は元気がありません 大輝はあなたのことが好きです 私も

 『琴という女』を脱稿しました 書き下ろしを是非 あなたに読んでもらいたい 松本耕助のような名作は書けないが それなりの良作だと自負しております

 大輝と一緒に あなたを待っています 〆切 大輝が中学校に入学する前

 萩野麻友美様へ

  大輝のハート&小杉謙太郎より》




 それは、絨毯(じゅうたん)のように敷き詰められた朽葉色(くちばいろ)の落ち葉の小径(こみち)に、赤朽葉色(あかくちばいろ)の枯れ葉が舞い落ちる休日の午後だった。


 大輝は、居間でテレビを観ていた。俺は書斎にいた。


 ガラガラっ


 戸が開く音がした。次に廊下を走る大輝の足音がした。途端、


「お父さーん!」


 大輝の大きな声が聞こえた。


 慌てて障子を開けて廊下を見ると、尿意を催した時のように足踏みをする大輝が玄関に笑顔を向けていた。急いで廊下から玄関を覗くと、柔らかな笑みを浮かべた麻友美だった。


 俺は一瞬驚いたが、すぐに相好(そうごう)を崩した。


「いらっしゃい」


「こんにちは」


「さあ、上がって」


 少し開いた黒いコートの胸元からは俺が買った薄紅色のセーターが覗いていた。麻友美の手からボストンバッグを受けとると、


「コーヒーを淹れよう」


 そう言って、ショートブーツを脱ぐのを待った。


「ニジコさんだー」


 大輝が嬉しそうに名前を言った。すると、麻友美がクスッと笑った。


 あっ! そうだ。……虹子の本名を大輝に言うのを忘れてた。




 完

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