91 海上の戦闘
海面が大きくうねる。
魔物がその巨体を浮上させることで作り出した大波が、すぐ傍の帆船を容赦なく襲い、傾がせた。
「きゃあっ」
「おぉっとと」
揺れる船の中、崩れる身体のバランスを船体にしがみついて何とか保つフレシュとアオイ。
モンスターと交戦中ではあるが、海自体は至って穏やかだった。事態を把握しようとフレシュは首を巡らせ、アオイは窓から外を窺う仲間に声をかけた。
「ベンジー、何があったの?」
「……ケートスだ」
金髪の男が形の良い眉を寄せ、窓の外を睨んだままアオイに答えを返す。ラルスカヌスの副リーダー、ベンジー・ネイサンだ。
「ケートス?」
「ああ、見ろ」
訝しげなアオイに、ベンジーが窓の前から退いて彼女に外の様子を見せる。
船窓は丸くて小さく、複数人で同時に覗くよりも一人一人交互に覗いた方が、視野を確保出来てストレスが少ない。
「……縄張りに入っちゃったみたいね。そんな情報なんて無かったけど」
「主要な航路からは外れた海域だ、十全な調査なんぞしてあるはずもない」
今や船舶の往来に必要不可欠な多くの航路は、長年を費やして海域の調査を重ね、徐々に開拓されてきたものだ。
特に王国随一の港湾都市であるファーストマーケットからは、国内外の主要な港への安全性に優れた航路が充実している。
しかしながら、レパード海底神殿を目的地とした一般には無縁な航路など、当然確立されてはいない。まして周辺海域の調査など、費用対効果を鑑みれば以ての外である。
アオイもそこに不満があるわけではない。むしろそんな道を切り開いていくことこそ、冒険者が与するべき挑戦の一つであろうと考える。
「ケートスって?」
「アオイ、どいてやれ」
「ん。あそこ、見える?」
二人が口にしたモンスターの名前を知らず、フレシュはアオイに尋ねる。その様子にベンジーが気を利かせ、アオイは窓の前を譲ってくれた。
窓から外を覗いたフレシュはアオイの示した先を瞳に映し、その光景に思わず息を呑んだ。
「……大きい」
「この船を優に超える巨体のモンスターだ。普段の凶暴性は並だが縄張り意識が強く、侵した相手を執拗に狙ってくる」
ベンジーの説明する通り、海に聳える巨体で圧倒するモンスター。胴体はクジラだが、頭部は猪と犬を足して割ったような、陸上の獣を彷彿とさせる面貌の魔海獣ケートス。
「組合が公表してる討伐難度は、Bよ」
「B!?」
B難度のモンスターといえば、確か火竜が相当したはずだ。
竜騒動の際も、火竜の討伐には等級持ちのチームですら手を焼いたと聞く。援護を受け総力戦で何とか切り抜けたが、チーム単独では危うかっただろうという話だ。
アオイの言葉に気を取られるフレシュに代わり、再びベンジーが窓越しに視線を送ると、即座にその目が見開かれた。
「! 波が来る。二人共、何かにつかまれ」
ベンジーが注意を促した直後、再び船体が大きく揺られる。
ケートスの起こした波だ。ただ泳ぎ回るだけでも、その巨体は周辺に多大な影響を及ぼしていく。これぞまさしく海の怪物である。
「わわ、ちょっとこれ、まずいんじゃないの?」
「あれフレシュ、船酔い酷かったって聞いてたけど、割と余裕じゃない」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
余裕なのはどちらだ。
こんな大波に晒され続ければ、船が沈んでしまいかねないというのに。急いで何か手を打たなければ、海底神殿に辿り着く前に合同チームは壊滅だ。
アルゴロイドの仲間達が動いてくれれば簡単に解決する問題だろうが、シンは当てにならないし、したくない。デオもフェアもシンの手前、早い段階で動いてくれるとは限らない。手遅れになる前に、自分が――
「大丈夫よ、たぶん」
「本気!?」
焦慮に駆られ先走りそうになるフレシュとは対照的に、アオイの声は平時と変わらず落ち着いている。いや、緊張感に欠けている、と言うべきだろう。
つい先程の失敗を踏まえた上ですら、この事態は他人任せにしておくべきでないとフレシュは思うのだが。
「飛翼は、援護を頼んできてないもの」
「…………!」
アオイの寄越した答えに、フレシュは言葉を詰まらせた。
確かに、出現したモンスターが手に負えそうにないなら、援護を頼めばいいだけの話だ。実際フレシュの認識の外では、緊急事態における援護要請に関して、各チームのリーダー同士で事前に見通しを共有している。
その要請が無いということはつまり、今はその必要が無いというわけだ。ベンジーを見れば、彼も特に異論ないことがその表情から窺えた。
「任せておけばいいのよ」
フレシュを安心させるために微笑んでみせるアオイ。飛翼というチームへの信頼があるからこそ、彼女達は落ち着いて構えている。
◇◆◇
飛翼とケートスの戦いに巻き込まれるのを避けるため、大型帆船が戦闘海域から離脱していく。
相識交信でニーナの申し入れを船長が受け入れ、船乗り達に送った命令が反映された結果だ。
ケートスの起こす波の影響が、転覆の危険を及ぼさなくなる距離まで下がってくれれば、飛翼のメンバーは戦いに専念出来る。
確保されていた足場と、引き換えに。
「早めに終わらせるわよ!」
ニーナが仲間達に発破をかけ、ケートスの巨体へと向かっていく。
如何に彼女らが空中浮遊の魔法を高い練度で扱えるといっても、長時間行使し続けていては流石に魔法力――魔力の持久力――の消耗が激しい。船を遠ざけ足場を失った今、長期戦は望ましくない。
そのため、生命力に富んだ巨躯を備える討伐難度Bのケートス相手に、極力短期で決着をつけにいく必要がある。酷な問題だ。
「〈筋力強化〉」
ニーナは間合いに入るまでに自身の魔法で攻撃力を補うと、その巨体と交差する瞬間に手の中の剣を閃かせた。
――ズババン!
高速の連続斬撃が標的の表皮を切り刻み、真っ赤な血が海へ噴き出す。
しかしながら、ケートスにとってその程度の傷は大したダメージにもなっていないのか、痛みによる怒りに任せニーナを追い回し始めた。
「こっちよ!」
縦横無尽に空を飛び回り、ニーナが怒れるケートスを翻弄する。
この魔海獣は巨体に由来する動作と反応の鈍さが欠点で、スピードでかき乱すことに難はない。だがその反面、一撃の威力は弩級だ。直撃は死を意味する。
一瞬も気の抜けない緊張の連続する中、狙いを定められず苛立つケートスの気配に凶暴性が増し。
「ブァァアアアア!!」
大きく咆哮をあげた直後、巻き起こった強烈な風がニーナの身体に叩きつけられた。
吠え声を詠唱代わりにした、突風の魔法だ。
魔法を扱う際にその効果を上昇させる作用をもたらす詠唱だが、必ずしもその魔法名を発声する必要があるわけではない。ただ、そうした方が練り上げた魔力のイメージを具象化し易く、それは効果に直結する。なので多くの場合、魔法を発動させる際に魔法名を詠唱として声に出すのだ。
一方で、魔法を発動させるだけなら単なる掛け声でも可能で、無詠唱はその極みといえる。
「くっ……」
荒れ狂う気流に身体の自由を奪われたニーナに、ケートスが好機と襲いかかる。思うように身動きの取れないニーナに、捌く手立ては――
「〈空間障壁〉」
瞬間、目の前に張られた障壁を全力で蹴りつけて、辛くもケートスの間合いから抜け出した。
直後には、その巨体で軽々と障壁を叩き割る光景を見せつけられる。恐ろしい質量の体当たりだ、たかだか人間一人潰すためには過剰もいいところである。
窮地から脱し、ふうー、と大きく息を吐いてニーナは一旦心を落ち着けると、ケートスの挙動を注視しつつ後方の気配へと手を上げた。
「助かったわ」
「危なかったわね」
ここ一番のタイミングで障壁を張って、カバーしてくれたセイラだ。
少々突っ込みすぎにも思えるニーナの戦いぶりだが、それはセイラへの信頼が前提にある。危うい場面になったとしても、必ず彼女がフォローしてくれる。だからニーナは臆することなく、怪物の懐まで斬りこんでいける。
「ユティは?」
「まだよ、もう少し」
最小限の会話で必要な情報を共有する。相識交信にまで集中力を割いている余裕はない。
その間にもケートスは海を荒らしながら二人へと迫ってきている。狙いは変わらずニーナのままだろう、その執拗さは良く知っている。
「んもうっ!」
淑女のやり取りを待とうともしないデリカシーのないケートスに癇声を浴びせ、ニーナは剣の柄を握り直して再び宙を舞う。
ケートスはやはりセイラの方へは見向きもせず、ニーナ一人に狙いを絞り猛然と泳ぎ迫ってきた。
「押してくるだけじゃ、私は落とせないわよ!」
常にアグレッシブに来られても迷惑なだけで、多少そっけないくらいの方が却って気になってしまうものだ。
そんな女心や恋愛の駆け引きを説いたところで、相手に聞く耳がないことなど十二分に承知している。しかしそうした文句を吐き出すことで、ニーナの気分は心持ち晴れやかになる。調子だって上がってくる。
片や翻弄されるケートスにとって、ニーナは周囲を飛び回るうざったいコバエといったところか。魔法も交えて追い回し叩き潰そうと躍起になるも、集中力の増したニーナを捉えることがどうしても出来ずにいる。
いやそれどころか、交差の度にニーナの剣技によって斬り刻まれ、浅くとも着実にその身に傷を増やしていっていた。
(よし、この調子なら――)
戦いの主導権を握りつつある手応えにニーナが気勢を上げる中、不意にケートスが動きを変える。
ぎょろりと殺意に満ちた目玉を動かした直後、海上に屹立させた身体をニーナ目掛け横倒しに叩きつけてきた。が、反応良くニーナは軽やかに広範囲大質量のボディプレスを躱すと、魔海獣はその巨体を海へ突っ込ませ尾鰭を翻して海中深く潜っていく。
ようやく諦めて、帰ってくれたか――
「――なんて、楽観は出来ないわよね」
実際、ケートスはその巨体の影すらも確認出来ないほど遠くへ離れていっているのだが、それで見逃されたと気を緩めるのは考えが甘すぎる。
(嫌な状況ね)
恐らくまだ戦闘は終わっていない。船へ戻ることは出来ない。しかし、そう長い時間待っていられる余裕もない。
このままケートスが姿を現さなければ、やがて魔法力が尽き足場を求めて船へ戻らざるを得なくなる。そこを狙われたらアウトだ。
「……出て来なさいよ」
救いなのは、ケートスにそんな策を講じるだけの知能が無いことだ。
奴が姿を消した理由に深い意図なんてものはなく、もっと単純に、本能に則ったものだ。
それを知っているニーナは、あえて危険な海面近くにその身を置くことで、自らを餌に魔海獣をおびき寄せる。
ほどなく、直下の海に黒い影が浮かび上がり。
「私はここよ!」
異常なほど急激に海面が盛り上がったかと思うと、直後、激しい水飛沫と共に凄まじい勢いで巨大な怪物が海から空を貫いた。
海中深くから助走ならぬ助泳をつけた、ケートスの強烈な体当たり。
一瞬で重厚な軍艦を何隻も海の藻屑へと変える、常軌を逸した大質量による澎湃たる一撃である。
「…………っ!」
同時に打ち上げられた莫大な量の海水が、一帯にスコールとなって降り注ぐ。その中で、宙で気流に揉まれる人影が一つ――ニーナだ。
ケートスの奇襲に集中して備えていた彼女は、何とか初撃は避け切った。が、その余波が至近距離の獲物を逃さず巻き込み、身体の自由を奪っていった。
大量の水飛沫で視界が遮られセイラの姿は見えず、対応は困難。追撃が来れば、今度こそ――
「――てゃぁぁああああ!!」
瞬間、この場に闘志と気合の込められた鋭い声が響き渡り。
――ドズッ!
上空から猛烈な勢いで降下してきた菫色の髪の少女が、手にした得物をケートスの双眼の間に、深々と突き立てた。