89 大型帆船航海道中
「うぅ~~……ん」
長いこと世話になっていたハンモックから抜け出して、フレシュは固まった身体をほぐしにぐぐっと伸びをした。
再び足をつけた床板は、すぐにでもまた大きく傾きそうな気がして不安ではあるが、船とはそういうものだ。怖がっていても始まらない。
「元気になってよかったね、フレシュ」
「ありがと、フェア」
船酔いで心身共に最悪だった状態から回復したフレシュ。愛嬌たっぷりに笑いかけてくるフェアにウインクして応え、ぐっと拳を握る。
「迷惑かけた分は、しっかり取り戻すから」
「いや、ちょっと具合良くなったからってあんますぐ調子乗んな。また体調崩しでもしたら、目も当てらんねえぞお前」
意気込むフレシュに横からシンが水と釘を差してくる。その通りではあるのだが、無駄に嫌味ったらしい物言いにフレシュも対抗して。
「言われなくたって、あんな思い二度とごめんよ。誰かさんは魔法を使って逃れてたから、あの辛さもわからないでしょうけど」
「…………」
そう聞こえよがしに当て擦ると、シンは口をへの字に曲げ、ばつが悪そうに目を逸らした。
いつもシンと言い合いになれば劣勢になりがちなフレシュだが、今回珍しく優位に立てたことで留飲も下がり、嬉しそうにべっと舌を出してふふんと勝ち誇る。
「だけど実際、慣れるにも免疫がつくにもまだ早いだろうし、嵐にでも遭遇したら大変だろうよ」
「脅かしてくるわね……。でも、うん。たぶん大丈夫よ」
不安を煽ってくるデオに抗議の視線を送る。
とはいえ彼は意地の悪いシンに比べ、面白半分にフレシュを怖がらせるような真似は多用しない。なのでこれはそうした心構えをしておけという旨の助言であり、同時に警告でもあろう。
その上で楽観的に返したフレシュへ、シンは怪訝な眼差しを、デオは意外そうな表情を、そしてフェアは純粋にその根拠を問う瞳を向けてくる。
そんな三人へ、フレシュはシンの方をちらりと見やってから。
「あのずるい魔法、ちょっと真似てみたから」
「そうなの?」
「お前……」
反射的に聞き返すフェアの隣で、シンが何か言いたげに顔を引きつらせる。
この当てつけもそれなりに効いているようで、喉元まで出かかった文句を呑みこむ悔しそうなシンが痛快である。その一方で。
「……真似た?」
そう独りごちるように発されたデオの声音には、微かに驚きの色味が含まれているように感じられた。
少々珍しいデオのその様子に、フレシュの意識が向いた拍子に。
――ドォン!
「わ!」
「うお?」
「きゃ!」
「!」
火薬が爆発したような音が轟くと同時、船体に大きな震動が伝っていった。
フレシュを大いに苦しめた海の風波によるものとは、全く質の異なる揺れだ。恐らくこれは、船に装備された大砲が発射されたのだろう。
となると、この事態は。
「モンスターだ! 各員速やかに配置につけ!」
フレシュの思い至った答えを裏打ちするように、船乗りの野太い声が船内に響き渡る。
追ってバタバタと船乗り達の駆け回る足音が鳴りだし、にわかに船は緊張感と慌ただしさを増し始めた。
フレシュも彼らに続こうと、船室の扉に手をかけようとしたところで。
「おいフレシュお前、どこ行く気だ」
シンの声が、フレシュの足を止めた。
「どこって、甲板に決まってるじゃない! 今の聞こえたでしょ、モンスターよ!」
振り返り、シンに向けて非難するような口調で言い立てる。
わかりきっていることをわざわざ聞いてこられる煩わしさに加え、座ったまま動こうとしない悠長なチームリーダーの姿勢にフレシュは反感を抱くが。
「今の時間は俺達の担当じゃねえ」
シンはただそう簡潔に実情を被せてきた。
この航海では冒険者がチームごとにシフトを組んで、船乗り達と共に発生する問題の対処にあたっている。
今、アルゴロイドは当番から外れているので、モンスターの相手はこの時間の担当チームに任せておけばいいという話だ。
「だからってそんなの、私達が手伝いに行かない理由にはならないでしょ」
「なるだろうが。いいからここで大人しくしとけ」
「何でよ! こういう時に役に立てる力を持ってるんだから、貸してあげた方がいいに決まってるじゃない!」
シンの言うことに納得がいかないフレシュは噛みつくように異見を叩きつけると、相手に抗弁を差し挟む間すら与えずに船室を飛び出していった。
「……あの馬鹿」
開け放たれた扉へ向かって呆れたように吐き出されたシンの声は、フレシュの耳にまで届くことはなかった。
◇◆◇
「照準、右前方、撃て!」
甲板に上がってきたフレシュを、緊迫した空気と船乗りの射撃号令が出迎える。
風も波も穏やかではあるが、フレシュが目を向けた先では海面に大きな水柱が上がり、穏やかさとは無縁のモンスターとの戦闘が始まっていた。
その場へ速やかに加勢すべく、右舷から船首楼へ向かおうと駆け出すフレシュに。
「フレシュ? どうしてここへ?」
船上で戦いに臨む冒険者の一人が気づいて、微かに戸惑いを含んだ声で呼び止めた。
「セイラさん、手を貸します」
青髪の女性――『飛翼』の副リーダー、セイラ・バレリーだ。今は彼女達が担当の時間帯らしい。
セイラはフレシュの返答に、普段は優しげなその顔の眉を、訝しげに寄せた。
「それは、アルゴロイドのリーダーの指示?」
「いえ、薄情者のシンは手伝う気が無いようなので、私だけでも――」
「なら、戻りなさい」
駆け寄ろうとするフレシュの言葉を遮り、セイラは有無を言わせぬ語調できっぱりと協力を拒んだ。
「……え?」
温和な性格のセイラの強めの口調に面食らい、怯んだフレシュは声を詰まらせる。
まさか断られるとは思っておらず、頭の中が真っ白になって立ち尽くすフレシュへ、セイラが言葉を続ける。
「何のためにシフトを組んだと思っているの。ここで力を使って消耗して、自分達の担当時間に体力が無くなったら元も子もないでしょう」
彼女の正論がフレシュへと突き刺さる。何も深く考えず、感情のまま勢いだけで飛び出してきてしまっていた。
冷静に振り返ってみると恐らくシンもセイラと同じ考えから、フレシュを止めようとしたのだろう。
「だけど私、前の担当時間は船酔いで体調崩してて、何にも出来なかったから……」
仲間達が働いていた、頑張っていた時間に、自分だけ寝込んでいた。周りに迷惑をかけてしまった。
だからフレシュは担当時間外にモンスターが出現したこの事態を好機と捉え、その負債を返済することしか頭になかった。この後ろ暗い気分をさっさと晴らしたいという、自分本位の考えしか。
「尚更よ。特異は止めようとしなかったの?」
「……いえ、止められましたけど……」
「我を通したわけね」
ばつが悪そうに身を縮め顔を背けて答えを返すフレシュへ、セイラは頭を押さえて溜息を吐いた後「いい?」と子供に言い聞かせるような前置きを入れ。
「まずは自分の仕事を全う出来るよう、体調を万全に保つことに専念なさい。他人の心配をするのは、それが出来てからよ」
そう、冒険者に限らずどんな職種にも当てはまる、生活していく上での基本的な心得を説いた。
先程のシンとの口論で、フレシュは自分の主張に正当性があると信じて疑わなかった。しかしそれは実のところ、経験不足故の視野の狭さからくる思い込みでしかなかった。
己の考えの浅さ、未熟さを改めて思い知り、悔しさを噛みしめるフレシュが返事すら出来ないでいるうちに。
「セイラ!」
「今行くわ」
仲間――声からしてニーナだろう――に呼ばれ、セイラは自分の仕事をこなすべく、モンスターとの戦いの場へ向かっていった。
◇◆◇
「戻ってこねえな、あいつ……」
飛び出していったきり帰ってくる気配のないフレシュに、シンは仕方ねえなと嘆息して独りごちる。
「相識交信で呼びかけてみたらー?」
「いや逆効果じゃねえかな。意固地になりそうな気がするし」
フェアが無垢な思い付きを提案するも、苦々しい表情で難色を示すシン。逆にフェアとデオへ向け。
「呼びかけるんなら、俺よりフェアやデオの方がいいだろ」
「そう?」
「二人の言うことなら、俺が言うより素直に聞き入れそうだし」
まるで反抗期の娘のように、事あるごとに反発し噛みついてくるフレシュを思い、シンは苦笑いを浮かべる。
とはいえそれは、ある程度そうなるようにシン自身が仕向けたことでもある。自分で蒔いた種だ。また、素直になられてもそれはそれで気色悪いし、物足りなさも感じることだろう。つまるところ、現状の関係に不満があるわけではないのだ。
とまあ、それはそれとして。
「聞いてるか? デオ」
「……ん?」
横を向いたままで話を耳に入れているか不明なデオへ、シンは改めて声をかけた。
何やら物思いに耽っていた様子だったが、それでも一応二人の会話は聞こえていたようで、デオは意識の焦点から外れてぼやけたその内容に、「ああ」とピントを合わせるように視線を巡らせて。
「呼べば戻っては来るだろうけど……まあ、放っておいていいさ」
「いいのか……? いや、良くはねえだろ」
病み上がりの身だからこそ、この時間は体力の温存に充てるべきだ。
そしてそれを言って聞かせるのはシンの役目ではない。フレシュの教育指導はデオの仕事であって、彼自身これまでそう努めてきた。
ところがここで放任するようなデオの意外な発言に、シンは驚きと困惑が入り交じり、流れでその意見を受け入れそうになってしまう。
すぐに思考放棄から脱却はするものの、結果不支持の声が半分ノリツッコミのような形となったシンへ、デオは。
「過保護になりすぎる方が良くない。ただでさえ、もう船酔いの件で一度甘やかしてるからねえ」
「身内で完結する話ならそれで構わねえけど、今回は他の冒険者も関わってくるんだから、そうも言ってられねえだろ」
フレシュの行為は百パーセント善意からのものだ、意を汲み取ってくれる者も多いだろう。とはいえ、事前に示し合わされた取り決めに反しているのも事実。人によっては、不快に思う者だって出てくるはずだ。
「何か不都合があったら、その時は俺が頭を下げに行くさ」
「いや駄目だろ。そこはチームリーダーの俺が行かねえと、筋が通らねえ」
チームメンバーのやらかしの尻拭いをデオに丸投げというのは、リーダーとして流石に体裁が悪すぎる。
たとえチーム内では真っ当な理由があるのだとしても、他者にとって関知するところではないのだから。
「その辺りの事情もちゃんと説明するさ。だから、そう気を揉みなさんな」
「……わかったよ」
そこまで言うならと、シンはデオの意見を尊重して引き下がる。それでも自身が行かなければ、どんな説明がされたところでリーダーとしての評価を落とすだろうが、その程度のことは呑みこもう。
またそれとは別に、ナインクラックの潜入が疑われる中でのフレシュの単独行動にも懸念はあるが、その点にはあえて触れることなくシンは会話を終わらせた。
◇◆◇
渋々といった様子で妥協して引き下がるシンから視線を外して、セトは船室の窓から海を眺め思案の内へと再び潜っていく。
ナインクラックの動向はまだ把握出来ていないが、今回彼らの目的はフレシュではない。接触してくる可能性は低い。仮に動いたとしても、フレシュの生命に危機が及ぶまでのことはないだろうし、何よりその時点でセトが彼らの動向を掴むことになる。むしろ都合がいい。
しかし彼らが既に船に潜入しているとして、ここまでセトの目から隠れおおせる慎重な手合いが、目的地に着く前にそんな安易な行動を起こすとは思えない。期待もしていない。
依然、彼らの存在は念頭に置いておくとして、セトの思案は先刻の道程を辿りに行く。
(……真似た、ねえ)
船室を出ていく前の、シンの魔法を真似たというフレシュの発言だ。
三半規管を強化するにはそれ専用の魔法が存在しないので、複数の魔法を組み合わせて連携させる必要がある。
一般に、魔法連携と呼ばれる技術だ。同時魔法と違い発動のタイミングを合わせる必要がないので、概してこちらの方が扱い易い。
とはいえ、一度耳にしただけの魔法連携を感覚任せで真似てみせるなど、並大抵の芸当ではない。
(確かに、フレシュの魔法の素質は非凡なものだけれど)
ここまでのものとは思っていなかった。
識世における素質というステータスが示す成長力は、伸びしろではなく伸びやすさだ。したがって素質の値で測れる才は対象の成長限界ではなく、おおよその成長速度となる。
それでありながら、素質の値も他のステータスと同様流動的で、個々人の成長度合いによってその値は大きく変動する。
早熟の者は初期値が高く成長するにつれ素質の値は徐々に下降線を辿り、晩成の者は初期値こそ低いが鍛錬を重ねていくとある時点を境に素質の値も上昇を描きだす、といった具合に。
そしてセトはフレシュのことを、典型的な早熟タイプだと思っていた。しかし、その彼女の素質を以ってしても、当時の値を鑑みるにここまで急激な成長は想定の外だ。
恐らく今、もう一度能力看破の魔法でフレシュの能力値を探れば、魔法技術の素質は以前より上の値を示しているはず。
(戦闘訓練では、魔法はほとんど使わせていないんだけどねえ)
当面はレパード海底神殿の対策を優先し、セトによるフレシュの訓練は一貫して魔法に頼らせない近接戦闘一本に絞っていた。
その中で、フレシュは馬車での移動中など手持ち無沙汰になる時間にも、何か自身の能力を向上させるための訓練は出来ないかと相談を持ち掛けてきた。
正直驚いた。そうした時間も何もしていないわけではなく、彼女の精神力の成長を促すため、セトが一定の割合で攻撃的な精神属性魔法をかけ続けていたからだ。フレシュはその受動的な訓練だけに飽き足らず、併せて主体的な訓練での成長も貪欲に望んだのだ。
彼女の要望に、セトは魔法技術の上達に効果的な体内の魔力操作及び錬成を提案した。
(この、短期間で……)
こと魔法に関して、フレシュほどの素質の持ち主となると他人の感覚はノイズにしかならず、セトが指導するより本人の感性に任せた方が成長は早い。
そのためこの訓練はフレシュの自主性に任せておいたのだが、この思いがけない結果には口元も緩んでくる。
千年もの時間を生きてきたセトでさえ、ここまでの素質を持ち合わせた者は、一人しか聞いたことがない。
(リボー、お前の親友にも、劣らない素質だぞ)
セトのかつての仲間、リボー・オーグスタンの現世時代からの友人――ネアルク・フェデル。
ほぼ全てのプレイヤーが成長曲線の峠を越えた状態で現出してくる中、初期レベルで識世に現出した極めて稀有な存在だ。
その傑出した素質を存分に活かし、やがて七暁神の一人である守護神リボーに肩を並べるまでの実力を身につけたその男は、今からおよそ八百年前に生じた『大改変』の折に、消息を絶った。
その時分の委細はさておき、フレシュの魔法の素質は、そんな人物しか引き合いに出せないほど突出したものなのだ。
(一度、シガーの奴に会わせてみたいもんだ)
魔法の扱いにおいて、魔王シガーの右に出る者はない。彼に会えば、フレシュが得られるものも多いだろう。
ただ、シガーの居場所は海を越えた先のアルメルウィーカ共和国だ。セト一人だった以前ならともかく、冒険者のチームを組んだ今では、そう気軽に会いに行ける場所でもなくなってしまった。
チームの活動方針の決定権は、シンにある。
(この合同探索を終えたら、一度相談してみるか)
シン自身、魔王との接触の機会は求めていたはずだ。期待してもいいだろう。
そう今後の道筋に大まかな目算をつけたところで、セトの思案は区切りがついた。