81 不協和の先触れ
時間の流れる感覚というものは、歳を重ねるごとに早く感じられるようになっていくものだ。
幼い頃の一年はやたら長く思えたのに、成人してからの一年は気づけばもう経っていた、といった具合に。
それが千年を生きる者ともなれば、どのような感覚となっているのだろうか。百年程度で寿命を迎える人間には、想像するのも難しい。
しかしながらどれだけ長く生きていようと、強烈な印象の与えられた濃密な時間を経験して暫くの間は、その感覚も一時的に変化するもので。
「コヴァ」
「はい」
ブライトリス王国より南東、フレンテの樹海。その地下に広がる巨大な洞窟――ドビル大空洞の最奥に構えられた館にて。
館の主人ソブリンが、従者として仕える友――侍女服に身を包んだ黄竜コヴァ・イエローを呼びよせた。
「…………」
「いかがなされました? ご主人様」
呼ばれたものの指示はなく、ソブリンは何やら思案顔で次の言葉を模索している。
最近の主人の傾向からコヴァは次の展開に予想がつき、内心で溜息を吐く。困ったものだと。
「……近頃になって、私は思うようになったのです。勿体ない、と」
「何がでしょう」
「この、持て余す時間が――」
「では、お部屋の清掃などされてはいかがでしょう」
不躾にも主人の言葉を途中で遮って鋭角に申し入れたコヴァの提案に、ソブリンは述べ語り最中の芝居がかった姿勢のまま、氷像と化したように硬直する。
「お部屋が綺麗になれば心も洗われます。良い気分転換にもなるでしょう」
「……いえ、日頃からコヴァが手入れをしてくれているおかげで、目立った汚れもありませんし」
綺麗好きなコヴァにとって、館の清掃はもう半分趣味のようなものだ。
手すきの時間があれば、はたき片手に掃除に勤しむコヴァの姿は、館で暮らすソブリンやガウンにとって見慣れた光景である。
「ご心配に及ばずとも、まだまだ清掃する余地は残っています。棚の裏側には埃が残っていますし、あの花瓶など今一つ艶が鈍く感じられます。それに――」
「いえいえいえいえ、大変魅力的な提案ですが、それはまたの機会にいたしましょう」
少しばかり圧を強めて掃除を推してくるコヴァに、ソブリンは内心焦りつつも表面上はなんとか調子を取り繕って彼女の提案を退ける。
ブライトリス王国でシンに召喚された日の出来事が鮮烈な記憶となって残ったソブリンは、戻ってきた日常がやけに緩やかで、一日が随分と長く感じられるようになっていた。
要するに、退屈なのだ。
「時間を持て余してらっしゃる今この時を置いて、またの機会とは?」
「それよりも、それよりも、です」
表には出さずとも心の内の呆れ声が聞こえてきそうな、コヴァの尤もすぎる指摘。鉄の意志でそこには触れずに首を振って、ソブリンは強引に話を逸らす。
「先日シン様に召喚された際、私は痛感したのです。己の実力不足を」
「…………は?」
拳を握りしめ、悔しげに苦々しく呻くソブリン。的外れも甚だしいその言動に、何の冗談かとコヴァが呆気にとられる。
「紫竜デューク・マゼンタとの戦いで私は不覚を取り、敗北を喫してしまいました。遺憾の至りです」
「紫竜程度、不覚で後れを取るような相手ではございませんね。ご主人様にとっては」
目を閉じ、痛恨の極みとでも言うように悔悟を噛みしめ、ソブリンは己の不始末を嘆く。
しかしながら動作が誇張しすぎて空々しく、ひどく極端に嘘臭い。嘘だし。
「故に私は、今よりも一層、強くならねばなりません」
「それではまず、欲求を抑制する自制心を身につけるべきでしょう」
「またこの次に、召喚された時のために」
「シン様の心中を思えば、次回の召喚など期待出来ませんが」
「ですのでコヴァ、今より私と手合わせを――」
「無用ですね」
声高に訴えるソブリンの主張を、冷たく的確に一つ一つ斬り捨てていくコヴァ。容赦がない。
「…………」
毎度の要望にお決まりの拒絶。その後に流れる沈黙すら、馴染み深くなってしまった。一時期に比べたら頻度は大分下がったが。
「……この、様子は」
静寂の中、ガチャリと響く扉の開閉音と共に姿を見せたのはソブリンのもう一人の友、青竜ガウン・ブルー。
厳めしい顔の片眉を上げ、二人の空気感から今の状況を早々に察したようだ。
「おお、ガウン。どうでしょうか、今より私と――」
「遠慮させていただきます」
提案を述べきる暇すら与えずに、即答でピシャリと断るガウン。先手必勝、隙が無い。にべもない。
「ガウン、あなたもご主人様と一緒に館の清掃をなさい。どうせ暇なのでしょうから」
「断る。私用が出来た。これより我は地上に出る」
「私用?」
これがソブリンの口から出たものなら、気乗りのしない提案を拒否するための単なるでまかせと思うところだが、相手がガウンでは話が違ってくる。
ガウンは嘘が苦手だ。つくのもつかれるのも。自身の嘘はすぐ表に出るし、相手の嘘はあからさまでない限り見破ることは稀だ。戦闘の駆け引きも同様で、端から考えることを放棄した猪突猛進な戦い方は、常々コヴァから脳筋と謗られる有様。まして腹芸など、以ての外である。
「おや、珍しいですね。ガウンが個人的な用件で館を空けるなど」
「つきましてはご主人様、誠に勝手ながら、暫く暇を頂きたく」
「勿論、構いませんよ」
「ありがとうございます」
快く承諾するソブリンに頭を垂れて感謝を示し、ガウンは踵を返して部屋の扉に手をかける。その前に。
「何の用事ですか」
「……貴様に言う必要はない」
すれ違いざまに発せられたコヴァの問いに一旦足を止めるが、一瞥すらくれずにすげなく撥ねつけて、ガウンは扉を開けこの場を後にした。
「…………」
閉じられた扉は、一際鋭く眉を吊り上げたコヴァの突き刺すような視線に、暫くの間晒され続けた。
◇◆◇
地上は風が心地よい。
ソブリンの館でも、魔導具の力で外気を取り込んで恒常的に換気はされているが、身体を吹き抜ける風というものまでには縁がない。
見上げれば、木々の隙間から差し込んでくる日光の眩しさに目を細め、庇代わりに手を額に当て影を作る。そういえば、今は一年で最も日差しの強い季節だったか。
先日シンに召喚された時刻は深夜だったので、風はともかく太陽の姿を拝むのは随分と久しぶりになる。召喚の日からはもう一か月以上が過ぎているのだが、千年を生きるガウンにとっての一か月前は、ごく最近という感覚だ。
「わざわざ迎えに出てきてくれたんだ」
フレンテの樹海、ドビル大空洞の入り口で空の青さを堪能するガウンに声がかかる。
目を向けた先、森の奥から姿を見せたのは白が基調の洋装に身を包んだ白亜の長髪の男、白竜ダーシー・ホワイト。
「この大空洞広すぎるし、一番奥の館まで行くのは結構骨だから助かるよ、ガウン」
「別に貴様のためではない。この件で、ご主人様を同席させるわけにはいかんだけだ」
「ふうん、そっか」
手間が省けて気を良くするダーシーだが、ガウンのそっけない答えを聞いて、仄かに気配が変わった。
「何の件か、察しはついてるんだ」
ガウンがダーシーから交信を受けた際、こちらへ来ると聞いただけでその用件には触れていなかった。だというのに迷いのない対応を取るガウンに、ダーシーは己の推測が正しいと半ば確信を抱いたのだろう。
実際はその後ツッツェンと交信して詳細を聞いたからなのだが、概ね予想した通りだったので指摘する意味も無いが。
「それじゃあこれからする質問にも、答えの用意は出来てるよね」
「出来ていようが、ここで答えるつもりはない」
「……どういうことかな?」
真意を測りかねるガウンの言葉に、白亜の瞳から感情の色が消え失せる。
危うい兆候だ。これがデュークなら苛立ちながらもなんだかんだ話を合わせてくれるのだが、ダーシーは冗談が一切通じない。この質問の答えが気に食わなければその瞬間、予備動作無しで致死の一撃を打ち込んでくるような奴だ。
「この話はそう単純なものではないからな。特に、視野が狭く思い込みの激しい貴様と二人で扱うには適さん。間にグラスを挟ませてもらうぞ」
「……うん、まあ、いいよ」
質問に回答しないわけではない、という意図が伝わったのだろう。幸いダーシーはそれなりの納得を得たようで、瞳に感情の色を取り戻し剣呑な気配を霧散させた。
「でも、それなら僕が出向くより、ガウンを呼んだ方が良かったね」
「さあな」
変わり身の早さも特徴的なダーシーは、何事もなかったように気安く笑ってみせる。親しい友人と、たわいない世間話に興じるように。
「島に来るの、デュークも久しぶりだったけど、ガウンはもっとだよね。いつ以来になるかな?」
「……さあな」
ガウンとしてもダーシーの無駄話に付き合ってやるのは吝かでなかったが、それがいつだったかを思い出す億劫さの方が勝り、結局すげない一言を返すだけに終わった。
◇◆◇
ブライトリス王国の西部には、南北に連なる巨大な山地――セザレヴィッチ山脈が存在する。
旅路の三日目は関所にて宿を取り翌朝、オブライエン領に別れを告げて馬車を走らせること数時間。正午を迎える手前頃に、セザレヴィッチ山脈は雄大なその姿をアルゴロイド一行の前に現した。
この山脈があるおかげで、古都から王都へは直線を結ぶような最短ルートは存在せず、北側か南側のどちらかを迂回する必要がある。
ただし、北迂回ルートは遠回りになる上、街道が海岸沿いになっている。西は海、東は山で、賊に襲われた場合逃げ道が無い。その上海を越えたすぐ先には、恐ろしい竜族の棲むイーリッシュ島だ。そうした諸々の理由で、北方面についでの用事などでもない限り、王都への道は南迂回ルートが多く選択されている。
そして、そのルートが王都、古都、闘都という三都市の中間に差し掛かる地点に築かれたのが、交易都市エプスノームだ。彼の地が王国第四の都市として発展し今日の賑わいを見せるようになったのは、地理的に必然だったと言えよう。
「それ、確かなのか?」
「ヴィタンのリークだからねえ。まず、間違いないだろうよ」
道中馬車の中、デオから聞かされた話にシンが念を押して確認する。先程交信があったらしい。
神話の大戦において情報戦を制した幻神ヴィタン・レクナーデからの言伝であれば、その信憑性は高く見積もっていいだろう。
「……サイリ・キトラスの休暇申請が探索の日程に丁度被ってるとか、絶対偶然じゃねえなこれ」
「それって、合同探索にナインクラックが潜入してくるってこと?」
「そう考えておいたほうがいいだろうねえ」
伝えられた内容は、王国軍に所属するナインクラックのマニピュレーター、サイリ・キトラスの動向についてだ。
そこから繋がってくる不穏な結論に、シンが面倒臭そうに口元を歪める。
「奴らの目当ては何だ? 何を狙って潜り込んでくる?」
「海底神殿には有用なアイテムが多く眠っているからねえ。その中で連中が目をつけるとしたら『覇者の魔石』あたりか」
彼らの最終的な目標は聖王ら四人の七暁神の打倒なので、それに有効な手札の入手が目的であろうことはわかる。その中でも有力と思える候補として、デオはその名を挙げた。
「覇者の魔石?」
「識世に来てから俺も一度だけ使ったことがある。その効果は破格だ。誰であろうと悪意を持って使用すれば、大規模な災害を引き起こしかねない危険な代物だねえ」
「そんなにやばいもんがあんのかよ」
洒落にならない効果を引き起こすアイテムの存在に、シンが驚きと呆れを含んだ声を発する。
そうした物騒な話題で、少しばかり馬車の空気が重くなってきたところで。
「――あ」
ふと、鼻腔をくすぐるそれまでには感じられなかった独特の匂いに、フレシュが声を漏らす。
風に運ばれ、開かれた馬車の窓から入り込んできたそれは。
「潮の香りが」
「お? ……ってことは」
フレシュの呟きに、同じように匂いを感じ取ったシンが反応する。
続いて外の景色を眺めていたフェアが、瞳を輝かせながら前方を指差して。
「わあ、皆、ほら」
「見えてきたねえ」
フェアの声にデオがいち早く反応。それに続いてフレシュとシンも、馬車の窓から顔を出して前を見やる。
「わあ」
そうして目にした景色に、フレシュの口から思わず感嘆の声が飛び出した。
セザレヴィッチ山脈の南端を迂回して、進行方向を北西に取った一行。高台から見下ろす形となったその景色は、遥か遠くまでを見渡せる絶景だ。
真っ先に目につくのは、真っ青な空に浮かぶ、絵の具を塗りたくったような濃い白の主張が激しい夏の代名詞、入道雲。空との境界をくっきりと分ける雲の下には、煌めく碧海が広がっている。
そこから手前に目を移せば、ジオラマのように精緻に密集する建物の数々。遠方からにも拘わらず視界に入りきらない規模の壮麗な大都市にして、ブライトリス王国最初の市場――
「港湾都市ファーストマーケットだ」