68 いま、そこにある事実
「どうだ、会心の出来栄えだろ」
交易都市エプスノーム北商業区のとある裏通りに構えられた、趣があると形容出来なくもない武具店。
店に訪れた客のシンとフェアに得意顔で胸を張るのは、以前デオから紹介された茶髪に白髪の混じったこの店の主人だ。
シンが店主から受け取ったのは、その時に注文していた品。転移初日にドビル大空洞で入手した種々の素材、それらを加工して作られた武具である。
完成した品は青竜の牙を元に成形された一振りの剣。鞘から引き抜くと、すらりと反りのある深い青の刃がその姿を現す。片手分の長さに調整された柄の端には大きな宝石が埋め込まれ、鋼鉄製の鍔にはナックルガードがつけられている。
一般にサーベルという名で知られる片手剣だ。識世における軍刀として最もポピュラーな剣であるが、正規軍の支給品との違いは一目瞭然である。
「いいですね」
「おおー、カッコいいじゃん」
ぶっちゃけ刀剣の良し悪しなどシンには全くわからないが、持ってみた感触は良好のように思えたのでそう答えておく。フェアの感想も悪くないし。
「刃も柄も鍔も装飾も全部オリハルコンだからな。言ってておっそろしいぜ。籠める魔法は考えておいたのか?」
「いえ、まだ特に。どうしようかな……」
初めは常時力を抑制しているデバフ魔法を肩代わりしてもらおうかと考えたが、シンの力を抑えるに必要な魔力量は八彩竜の素材といえどとても賄えるものではない。
そうなると現状これと必要なものが見つからなくなってくる。だからと言って厳選せず適当に選んだ効果を備えるには惜しい。贅沢な悩みである。
「別に、今すぐ決めなくてもいいんじゃないかな」
「だな。これに限っちゃ必要に迫られてからでも遅くないか」
デオに意見を聞いてみるのも一つの手だ。多少勿体ない気もするが、この青いサーベルには今暫く魔法の籠められていない魔導武具となっていてもらおう。
「んじゃあ、他の素材にも順次取っかかっていくから、また暫くしたら顔を出してくれや」
「ええわかりました、宜しくお願いします」
店主に預けた素材はまだまだ残っている。それらが全て武具として生まれ変わるには時間がかかるだろうが、取りあえず今日一つ、シンは青竜の牙のサーベルを手に入れた。
◇◆◇
「この人と一緒に!? 何それ、聞いてないわよ!」
シンとフェアが武具店から戻った先であるコフラーの宿、客室。
デオ・ボレンテの宿泊部屋に響いたのは、年頃の少女が発した甲高い不満の声。
「不服なら別に断ってくれて構わないぞ」
「もーシン、そういうこと言わないの!」
先日のデオからの話を受け、今後の確認と現状を整理して共有するために顔合わせしたシン・グラリットとフレシュ・ベレスフォード。両者の話し合いは初っ端から躓いた。
「何よその言い方、別に不服だなんて言ってないじゃない」
「いや言い方なら先にそっちだろ。明らかに文句ありそうだったじゃねーか」
「フレシュ、そういちいち突っかかっていくな。シンも、子供相手に大人げないぞ」
口を尖らせるフレシュと引く気のないシン。仲裁に入ったのは二人を引き合わせた赤毛の男、デオだ。
「私はもう子供じゃないわよ!」
「他人事みてーに言ってんじゃねーよ!」
「うわ、矛先がこっち向いた」
「すごい、息ピッタリ」
思わぬ反撃にたじろぐデオ。傍観するフェアはお気楽に感嘆。
フレシュに対する不満はそのままデオに向かい、シンは顰め面をして言い立てる。
「そもそも、お前がこの子に事前に話しておかなかったのが原因なんじゃねーか」
「まあそう言うなよシン。お宅への根回し無しに、先にフレシュを連れてくるわけにもいかないだろう」
「そりゃそうだけど、どこかで言っておくタイミングは無かったのか?」
デオの抗弁は一理あるが、それなら根回し後に言っておけばいいだけの話だ。フレシュがここに来るまでに伝えておかなかったことへの弁明にはならない。
ともあれ、シンとフレシュ二人の言い合いがひとまず落ち着いたことはデオの意に沿ったものだ。話を先へ進めるためにシンも「ったく」と最後に一言吐き捨てて、非建設的な問答は終わらせておく。
「んで、チーム組んだらどうするんだ?」
「活動方針はお宅に任せる。取りあえずフレシュが『特異』の元にいるってことがナインクラックに伝われば、それで充分牽制になる。それでいいな、フレシュ」
「別に、いいけど……」
同意はしてみせるものの、デオと目を合わせようともしないフレシュの態度は難ありだ。
彼女からしてみれば、事前に何の相談もなく蚊帳の外に置かれたまま勝手に話をつけられた挙句、いきなりシンのシーカーチームに入れと言われたのだ。自分の置かれている状況を考慮に入れたとしても、感情が先行して納得いかないのは無理もない。
「本当にいいのか?」
なので、言いたいことがあるならここで言っておいた方がいい。保護してもらう立場にありながらの非礼は、まだ子供なのだからこの際目を瞑ろう。
「何か要望があるなら言っとけよ。聞くだけ聞いといてやるぞ」
「そんなの、私が言える立場なわけないじゃない」
(……あー、そういうことか)
そっぽを向いたまま、憮然とした面持ちでぶっきらぼうに返すフレシュ。今の受け答えでシンはピンときた。
「ま、聞いとくだけで反映させてやるわけじゃないけどな」
「何よそれ、意味ないじゃない!」
「おう、だから遠慮なんてしてんじゃねえよ。こっちの調子が狂うだろ」
「…………!」
シンの言葉遊びに弄ばれて思わず振り向いたところ、意想外に胸中の核を突かれてフレシュは目を丸くさせる。
つまるところ、彼女はシンに借りを作ることが面白くないのだ。
己の身の安全を『特異』の威を借りて守らせてもらうことで、シンに強く出れなくなることが不満で仕方ないのだろう。
立場を弁えているからこその心情だが、それが却って礼を欠く態度を取ってしまっていることには気付いてない模様。そこをあげつらうほどシンも底意地が悪くはないが。
「いいのね。本当に遠慮しないわよ」
「おう、何でも好きに言ってみろ」
「シン、いいとこ見せるじゃん」
それまでずっと不貞腐れていたフレシュの表情が生き生きとしてくる。シンにとってもまんざらでもなく、少しくらいの我儘なら聞いてやってもいい気分になる変化だ。
フェアの好感の声に得意げに目配せして応じるシンヘ、フレシュが「それじゃあ」とちょっとばかり含みのある悪い顔で。
「宿をとったら部屋は別にして。あなたと一緒の部屋なんて嫌よ」
「そんなもん当たり前だ。元からそのつもりだから心配すんな」
年頃の少女と同室の宿をとったりしたらどんな噂を立てられるか、想像しただけで寒気がする。名前が売れてしまった以上尚更だ、有名税怖い。仮に頼まれたところで願い下げである。
「あと、戦いにはあんまり慣れてないから足を引っ張るかもしれないけれど、うるさく言わないでよね」
「そりゃまあ仕方ねえ。素質は充分だって聞いてるから成長には期待してんぞ」
元より戦力として当てにしているわけではないし、基本的に彼女の面倒を見るのはデオの役目だ。全くもって問題ないが、それをそのまま伝えても何の意味もない。成長に見込みがあるのは事実だし、嘘は言ってない。
「それと煙草を吸うなら私のいないところでお願い。嫌いなのよ、臭い」
「ん、まあ俺は吸わないから別にいいけど」
個人の嗜好にまで口を出してくるのはどうなのか。とはいえ、煙草は煙や臭いを迷惑がる者が多いのも確かだ。他人事ではあるが、愛煙家は肩身が狭く大変そうで同情する。
「お酒もなるべく控えてほしいわね。酔っぱらいの相手なんてしたくないもの」
「いや、それはちょっと……」
依頼を終えた後の一杯を楽しみにしている冒険者も多いだろうに、その要求は殺生ではなかろうか。シン個人としては、酒はほとんど飲まないので構うことではないのだが。
「遠出するときはちゃんと計画を立ててよね。宿はしっかり確保して。野宿なんて絶対に嫌よ」
「あ、あのなぁ……」
「食事は基本一日三食ね。出来ればデザートも。食後にはきちっと歯を磨いて。お風呂は毎日欠かさないこと。あなたもよ、不潔な人と一緒のチームなんて組みたくないわ」
「…………」
「他には髪の毛の手入れも必要になるわね。時々スラムの子供達の様子も見に行きたいし、月に一度はオペラの動向もチェックして、クールマグナーの新作上演には足を運びたいわ。それから――」
「いい加減にしろぉっ!」
留まることを知らないつるべ打ち注文に堪らずシンが声を張り上げ、驚いたフレシュが「きゃっ!」と短く悲鳴を上げて肩を跳ねさせた。
途中から雲行きが怪しくなってきたかと思えばどんどん要求がエスカレートしてきて、仕舞いには個人的な趣味にまで及ぶ好き放題ぶりである。流石に黙って聞いていられない。
「ちったあ遠慮ってもんを知らねえのか、お前は!」
「何でよ! さっきと言ってることが違うじゃない!」
「限度ってもんがあんだろ! 普通わかるもんじゃねえか?」
「普通って何よ! そっちが何でも好きにって言ったからそうしたんじゃない! この嘘つき!」
額を突き合わせて怒鳴り合う二人。その横でフェアがお気楽にけらけらと笑い、デオは軽く息を吐きだして。
「んじゃ、俺は下でくつろいでるから、話終わらせといてくれ」
「おぉい!? 俺に全部投げっぱなしかよ! 待て、デオ! てめえ!」
「あ、わたしも一緒に行くー」
「ちょ、フェアも!? 待て! 待てって! 待って下さい!」
「ちょっと! 私と二人で話し合うのがそんなに嫌なわけ!?」
シンの制止の声はおざなりにあしらわれ、デオはフェアを連れ「じゃあな」と二人を置いてとっとと部屋を出て行った。
◇◆◇
「本当もう何なの、信じらんない!」
初夏の陽気の中、口を尖らせてシンに対する不満を隣のセトへ吐き出すことでフレシュはストレスを発散させる。
これが案外スッキリするもので、聞いてくれる相手がいるというのは思うよりもずっと有難いものである。
「シンとは随分と打ち解けてるみたいだねえ」
「どうしてそんなふうに見えるのよ」
はは、と笑いながら二人の関係性の印象を語るセトにフレシュはじろりと視線を送る。心外である。
「ああいうふうに言いたいことを言い合える間柄ってのは、貴重なもんさ」
「そうかしら」
確かにシンは気兼ねなく意見をぶつけられる相手だが、それは成り行きでそういう間柄になったというだけで特別な何かがあるわけでもない。
ただ、今冷静に思い返してみると、先程のシンには多少なりフレシュへの配慮があったような気がしないでもないが。
「…………」
親しかった友人を亡くしたばかりのフレシュだが、同じチームを組む以上腫れ物に触れるような扱いは困る。そこで重苦しさのない雰囲気を作り出すために、あえてシンが憎まれ口を叩いていたのだとしたら。
(感謝なんて、しないんだから)
そういえば、シンはオームに関して一切触れてこなかった。知らず気遣われていたのか。まんまと彼の思惑に乗せられていたことがちょっと悔しい。
「何だか、腹が立ってきたわ」
「素直じゃないねえ」
複雑な気分になって目つきが悪くなるフレシュにセトが苦笑する。
そうして話に区切りがついて会話が止まると、細い路地を行くフレシュの前には代わり映えのしない景色が続くだけ。手持ち無沙汰になった思考は、どうしたって未だに引きずっている先日の出来事に囚われてしまう。
あまり考えないほうがいいと頭ではわかっていても、気が付けばそのことばかり考えている自分がいる。こればかりはどうにもならない。
夜。襲撃。オーム。お父さん。ドラゴン。サイリ。炎。オーム。サイリ。セト。ナインクラック。オーム。オーム。オーム。
「オームは、本当は……何を思ってたんだろう」
無意識にぽつりと口から零れたのは、フレシュがずっと気になっていたこと。
あの時のオームはサイリ・キトラスの能力の影響で正常な状態にはなかった。だから己の目的のためにフレシュを利用しようとした行為は本意ではなかったと、そう思っていいのだろうか。本当に。
それはフレシュがそうであってほしいと願っているだけで、実際のところはわからない。オームが何を感じ、何を考え、何をしたかったのか。その答えを知る機会は、もう永遠に失われた。
焦心に、フレシュは思わずセトへ縋るような目を向ける。無自覚にも、あの時自分を救ってくれた彼ならば、何か安心出来る言葉をかけてくれるのではないかという期待があったからだ。
そんな不安げな少女の瞳に映されたセトは普段と変わらずに。
「さあねえ。俺に君の友達のことは、何もわからないさ」
「そう……そうよね」
返ってきたのは当たり前といえば当たり前であって、落胆し肩を落とすことでもない答えだ。そのはずなのに、フレシュは知らず顔を俯かせてしまっていた。
「それよりもほら、着いたぞ」
「……あ」
声につられて顔を上げる。セトが示したのは路地の向こうの大きな平屋の建物だ。
年季の入った屋舎の建つ広い敷地の入り口まで来ると、奥からたくさんの足音と声が聞こえてきた。
「あ、フレシュおねえちゃんだ」
「おねえちゃーん!」
「やったー、おねえちゃんが来てくれたー」
わらわらとフレシュへ駆け寄ってきたのは幼い子供達。皆この南西居住区に暮らす、身寄りのない孤児だ。
「おねえちゃん、こっちこっち」
「早く早く、こっちに来てー」
「わ、ちょ、ちょっと。こら、そんなに急がないの」
あっという間に子供達に囲まれたフレシュが、小さな手に代わるがわる引っ張られていく様子をセトが微笑んで見送る。
フレシュが子供達を想って方々へ掛け合った末に結実した目標、孤児院。
フレシュの想いに賛同してくれた人達とベレスフォード侯爵家の協力を得て、南西居住区の古い集会所を買い取って再利用したものである。
本音を言うとフレシュは自分一人の力でやり遂げたかったのだが、如何せん家族に甘えざるを得ない状況になってしまった。義父から少し早いが餞別だと言われ少し戸惑うも、フレシュに受ける以外の選択肢は無かった。
暫し子供達の相手をし、解放されたフレシュは再びセトの傍らへ寄ると。
「義父様から聞いたわ。私が協力を求めた人達には、あなたが先に根回ししておいてくれたんだって」
長身のセトを見上げ、彼の朱の瞳を覗きこむ。
いつかシンが言っていた、都市中を飛び回っていたセトの用事というのはこのことだろう。彼らとの話し合いがえらくすんなり終わっていた裏に、そんな種があったとは。自分がまだまだ子供でしかないことを痛感させられる。
「大したことじゃない。俺がしたのは君のやっていたことの、ほんの後押しさ」
「でも、それがなければきっと、協力は取り付けられなかったわ」
セトは謙遜してフレシュを立てるが、その悠然とした余裕が余計に自分の視野の狭さを際立たせ、思わず自嘲が漏れる。
「結局、私一人だけの力じゃあ、何も出来なかったってことよね」
「だけど、君が何も行動を起こしていなければ、今ここに孤児院は無かった」
「…………!」
確かに、それだけは疑いようのない事実だ。意識していなかった自明の実績を教え知らされ、フレシュは息を呑む。
「卑屈になることなんてないさ。もっと自信をもって、胸を張れ。ほら」
そうセトに促され、目を向けた先には。
「おねえちゃーん」
「これあげるー」
「みんなで作ったんだよー」
満面の笑顔で駆け寄ってくる子供達。その中の一人の手にはフレシュのために一生懸命作ったのだろう、白い花冠が握られていた。
「誰の力を借りたとしても、今、そこにある事実は、君が率先して取り組んだ結果であることに変わりはないだろう?」
楽しそうに笑う子供達にもみくちゃにされ、手作りの花冠を頂いたフレシュに、セトが優しく告げる。
「一人の力で出来ることなんてたかが知れてる。それは誰も、俺だって同じさ。だから君は、君と君の呼びかけで成したことを、もっと誇っていいんだ」
セトの言葉の一つ一つが、その温かみが、フレシュの胸を一杯にさせる。
嬉しかった。その言葉と目の前の子供達の笑顔によって、自分の想いが、行いが、認められたような気がして。
「わあ、おねえちゃん、キレイ」
「とっても似合ってる」
「お花と宝石で、お姫様みたい」
頭の花冠と胸元のペンダントを指差す子供達の瞳には、フレシュへのあどけない憧れに満ちている。
宝物だ。どちらも、フレシュにとって大切な。花冠は今日この時子供達から贈られ、そしてもう片方は。
「そのペンダント」
フレシュが手に取ってじっと見つめていた、青と緑が絡み合う宝石の首飾り。セトがそれに言い及ぶ。
「これは……お母さんが最後に、私にって。お父さんからって……」
「ああ、やっぱりそうかい」
「…………?」
セトの声音には何かを思うような含みがある。それが何かわからずに、フレシュは疑問符を浮かべて首を傾げる。と、その視線に気づいたセトが。
「いや、見覚えがあったもんでね。確かそいつは昔、シモンが身に着けていたもんだ」
「……お父さんが?」
「ああ。少なくとも、俺と一緒にいたときはずっとな」
今一度胸元を見下ろして、手の中のペンダントに思いを馳せる。
あの時、父は、母は、姉は、何を思っていたのだろう。どうして、あんなことになってしまったのだろう。
「お父さん……お母さん……お姉ちゃん……」
顔を伏せ、震えながら呟くフレシュ。「どうしたの?」「おねえちゃん、だいじょうぶ?」と心配そうな声を上げる子供達を「うん、大丈夫よ」と気丈に取り繕って遠ざけると、子供達には決して見せない縋るような目を再びセトに向け。
「あの――」
「悪いが、俺に『悲劇』のことは何も語れない」
しかしながら、フレシュの訴えは形になる前の呼びかけの時点で、相手にばっさりと斬り捨てられた。
「語れるほどのことを知らない。シモンのプライベートだ。本人がそれを望まない限り、俺に干渉する権利はないさ」
「あ……そう、なのね……」
父のことをセトから聞き出すのは難しそうだ。
竜騒動後に時間を見繕って彼が話をしてくれた時も、その内容は騒動とナインクラックに関することだけだった。聖王の悲劇に関する話題には水を向けないようにしていたとも思える。
気が落ち込む。今まで避けていた場所へ、勇気を出して踏み出したその一歩目で躓いた形だ。
「だからシモンには、実の娘の君が直接聞きに行け」
躓いて、よろめき転びそうになったフレシュの心。だが倒れて前へ進めなくなってしまわないように、しっかりとセトが受け止めていてくれた。
「今のあいつにその気はないだろうけれど、そのうち必ず俺がその場を用意してやる」
自身の口から語れることは何もなくとも、セトは支援を断言してみせる。その姿はフレシュのブラウンの瞳にこの上なく頼もしく映っていた。
「…………」
いずれ来る父親との対面の場が確約され、その話に現実味が出てきたところでフレシュの心に湧き上がってきたのは、意欲的な熱ではなく重くのしかかるような不安と怖れだった。
怖い。
真実が怖い。
父親が怖い。
自分の想像が怖い。
もしも、想像している最悪の光景が真実だったとしたら。
よしんば万に一つでも、想像している以上に残酷な場面が真実として待ち構えていたら。
わからない。だから怖い。
わからないことを知るのが怖い。
(……怖い……)
幼い日のトラウマが、抉られた心の傷が、底知れない恐怖と化してフレシュの心を覆いつくしていく。その矢先に。
――ぽん、ぽん。
と、頭を叩く優しい感触が伝わってきた。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だ、たぶんな」
見上げると、セトの大きな掌が小さな子供をあやすようにフレシュの頭に置かれていた。
やめてほしいのに。自分はもう子供ではないのに。一人前の女性として扱ってくれないと嫌なのに。そういった虚栄心とは裏腹に、フレシュは掌から伝わってくる温もりの心地よさに大きな安堵を覚え、抗うことも忘れて甘えるがままになっていた。
「確かに俺は悲劇のことをよく知らない。その時起こったことも、シモンが何を思っていたのかも。けど一つだけ、今日ここでわかったことがある」
「……それは?」
「あいつが常に身に着けていた大切な、或いは有用なそのペンダントを、別れ際に贈るくらいには君のことを愛していたってことさ」
「…………!」
それは、それだけは、あの日の記憶がどれほどフレシュを苦しめようとも、偽りのない唯一つの確かな証であった。
「だからそう悲観的になるな。曖昧な記憶を元に悪い方に考えが行ったとしても、それはただの憶測でしかないんだろう?」
そうだ。フレシュはあの日何が起きていたのかを知らない。心の奥底に消えない大きな傷をつけられて悪夢にうなされる日々を過ごすうちに、いつしかネガティブに考えることしか出来なくなっていた。
自分の想像が怖い。しかしそれはフレシュの頭の中で起きていることに過ぎない。どんなに最悪な光景を夢に見ようとも、それが現実に起きたこととは限らない。ただ、今、フレシュの手にあるのは――
「今、そこにある確かな事実は、君の持っているペンダント一つだけだ。違うかい?」
ペンダント。青と緑の宝石。大切な宝物。手に取り、見つめて、そこに込められた想いを深く噛みしめるように、目を閉じ胸に抱いて両手にぎゅっと握りこむ。
あの日この目で見た光景、ずっとフレシュを苦しめてきた過去。それは事実だ。それは揺るがない。だが同時に、この手の中にあるものもまた事実なのだ。それを気づかせてくれたセトを瞳に映すと、不意に先程のシンの言葉が思い出された。
――「お前、デオの奴には感謝しとけよ」
話し合いが終わって部屋を出る直前、それまでとは雰囲気を変えたシンが真面目な顔で、これだけは言っておく必要があると。
――「あいつ、お前を俺のチームに入れるために頭まで下げてきたんだ。どうしてそこまでするのかは知らねえけどな」
(……してるわよ)
感謝していないわけがない。
シンに言われたことのみならず、オームを失った時に彼が来てくれていなければ、フレシュはあの場で命を捨てていたか良くて未だに塞ぎこんでいただろう。
その上今また彼の言葉に力を貰った。感謝なんてもう、してもしきれない。大きすぎてフレシュには伝えられる手段がない。だから。
「ありがとう、セト」
せめて、言葉だけでも。
充分ではなくとも、それ以外にどうやって伝えたらいいかわからないから。
(あなたのおかげで、私は前を向いていける)
振り返ってわからないことばかりを考えて、心を囚われていてはどうにもならない。今、フレシュと共にある事実は悪いことばかりじゃない。
幼い日の体験も、新旧の家族も、孤児院の子供達も、冒険者となって組むチームも。
そして或いは、オームの最期だって。
あの時オームが何を感じ、何を考え、何をしたかったのか。その答えを知る機会は、もう永遠に失われた。
だけどオームは最期の最後で、笑ってくれた。
彼の思いも、本心も、どれだけ考えても本当のところは何もわからない。だから最後に見せたその微笑みだけが、フレシュにとって唯一つの――
今、そこにある事実。
ここまでお読みくださってありがとうございます。二章はこの話で幕となります。
次話より三章となりますが、その更新と同時により多くの方の目に留まるよう物語のタイトルを「Lv.グラハム数で手探る異世界原理」に変更しようと考えております。
同時にまたプロローグの大幅な改稿と章タイトルの変更も予定してますが、物語への影響は特にありません。
それでは、遅筆で更新はスローですが今後もこの物語を読んで楽しんでいただけたら幸いです。