64 竜と街の後始末
澄んだ泉に沈み込んでいるような感覚だ。
力の抜けた身体がゆらゆらと漂うのは、暖かい水の中だろうか。心地よい浮力に身を任せ、ゆっくり、ゆったりと浮かび上がっていき、水面に顔が出たところで、デュークは光とノイズに包み込まれた。
「…………?」
鼻腔をくすぐる土と草の匂い。身体を撫でる新緑の季節の風。聴こえてくるのは草木のざわめき。五感を刺激してくる自然の営みに、デュークは自分が眠りから目覚めたことを認識した。
目覚めたはいいが、体を動かすことも思考することも億劫だ。そうデュークが目を閉じたまま怠惰に横たわっていると。
「うごっ」
頭部に走った衝撃によって、寝起きでおぼろげだった意識が一発で完全覚醒させられた。
ズキズキと痛む頭をさすっていると、すぐ近くから冷ややかで無愛嬌な声が飛んでくる。
「目が覚めたのなら、さっさと起きなさい」
むくりと上半身を起こし、聞き覚えのある声の方へ顰め面を向けると、そこに居たのは腕を組んで木に背を預ける金髪の女。
仏頂面の女がぞんざいに投げ寄こした槍を受け取って、デュークは呟く。
「……コヴァ、か」
デュークと同じ八彩竜、その黄。コヴァ・イエロー。
どうやら寝起きの頭を彼女が足蹴にしたようだが、それに怒りと文句をぶつけるよりもデュークは現状の把握を優先した。
自分は確か、事実上の異変の術者であるドビル大空洞の主と戦っていたはずだ。が、意識が途切れる直前に何が起きたのかがわからない。わかるのは、自分が負けたであろうということだけだ。
「生きてんのか、俺は」
視線を落とし、自分の身体を見つめて呟く。
身体は巨体だと不都合故にコヴァが変えたのだろう、人間形態になっている。竜族の形態変化は魔力を操作して行われるが、感覚がわかっている竜族同士なら他者の身体に魔力を流し込んで変身させることも可能だ。無論、通常なら抵抗されるので嫌がらせ以上の意味を持たないが。
衣服――コヴァが着せたのだろう――の下、戦闘で負った傷は治癒されていた。かなりの重傷だったはずだが、痕跡も無く完治している。後遺症も無さそうだ。
そうデュークが自分の状態を確認していると、コヴァが大きなため息をついた。
「馬鹿なんですか、あなた」
「ぁあ?」
唐突な誹りに目を吊り上げる。この女、さっきは頭を蹴ってくれやがった。
しかし、それだけのことをされてもデュークが睨みつけるだけで済ますのは、彼女に命を救われただろうからだ。
「いえ、確認するまでもなく馬鹿ですね、あなた」
「うるせえよ、何なんだ」
コヴァはドビル大空洞の主ソブリンを主人と敬い傅いている。
ソブリンがデュークを生かしておく理由は――苛立たしくも思い浮かぶが、奴を召喚したシン・グラリットには無いはずだ。召喚目的の詳細はわからなくとも、召喚主の意向からデュークを殺しておく必要はあったはず。にも拘らず今こうして命があって傍らに彼女の姿だけがあるというのは、そういうことだろう。
「勝てると思っていたのですか。あなた如きが。ご主人様に。あれだけの現象を引き起こす魔導力を持った、異変の術者に」
「…………」
歯に衣着せぬコヴァの物言いに奥歯を噛みしめて押し黙る。
最初の異変、現場に居なかったデュークは直接己の目で確かめてはいない。話を聞き出すとそれは耳を疑うような規模のものだったが、ヴィタンもグラスも術者にそれだけの力があるということに懐疑的な素振りはなく、納得しているようだった。
認めたくはないし実際認めることもなかったが、心の奥底では直接対峙する以前からわかっていた。
自分の力では、決して敵う相手ではないと。
それを理解していながら、今回の騒動を引き起こした。それをコヴァは罵っているのだ。
「死にたいんですか」
「……うるせえよ」
コヴァからしてみれば、デュークの行いは勝ち目がゼロの相手に喧嘩を売る愚行であり、一都市を巻き添えにした手の込んだ自殺だ。
デュークはというと、勿論死ぬつもりなどなかったが、生きて終われる自信があったかというと頷くことが出来ないのも事実だった。
返す言葉に力を失うデュークへ、コヴァがゆるゆると首を振って呟く。
「あなたがどれだけ暴れようと、たとえ討伐されようと、人間共からダーシーへの悪感情が拭い去られることなど、ありはしないのに……」
「……何でそこでダーシーの名前が出てくんだよ。関係ねえだろ」
プイと顔を背けデュークはそっけなく言い捨てる。
八彩竜、白竜ダーシー・ホワイト。人間共にはファフニールという名で呼ばれる、この世界で最も危うい竜だ。
かつての彼の竜の行いは、凶禍と呼ばれるデュークによる惨劇が手温く思える程に冷血極まるものだった。何とかしてそれに制限を設けるべく、女神を中心とした七暁神が緑竜グラスを仲立ちに、随分な苦労を重ねて盟約を結んだという過去がある。人間共の神話にも一部描かれているほどに有名な話だ。
そして盟約を結んだといっても、ダーシーの危うさが本質的に変わることはない。それは記録に残る二度の背約への報復で証明されている。しかしながら、それだけで彼の危うさを語りきることは出来ない。
というのも、記録上にあるのが特別規模の大きかった二例だけで、実際に彼が動いた事例は他にもある。それらが記録に残っていないのは、残せる者がいなかったからだ。誰一人として、目撃者すらも。
そして、デュークが気紛れを起こして人里を荒らす時というのは――今回は例に漏れるが――大抵が白竜による報復鏖殺から間もなくのことであった。
「つーかお前、何の用で地上に出て来てんだ。買い出しにしちゃ時間が合ってねえぞ」
「…………」
話題を逸らすために適当に振った話に、今度はコヴァの方が顔を背けて黙り込む。
デュークとしては叩いて埃を出すつもりなど全くなかったのだが、コヴァのその態度はやましいことがあると白状しているようなものだ。
「お前、まさか……」
状況を鑑みてみると答えに到達するのは簡単だった。
召喚魔法の仕様上、契約者本体は召喚されていることを通達されない。召喚者から知らされることなくそれをリアルタイムに知るのは、極々稀で偶然の産物だ。
それを踏まえて思い返す。召喚されたドビル大空洞の主ソブリンと、奴を主人と仰ぐコヴァが時間と場所を同じくしていた。繋がる。これを偶然で片づけてしまうには鈍感力が高すぎる。
(ガウンの野郎、何で止めなかった)
その場に同席していたであろう青竜を心の中で非難する。
あってはならないことだが、コヴァが自身の召喚契約を軽んじるのは――かなり譲歩して――まあ、まだわからなくもない。その件について当時の彼女は、寛容なのか関心が薄いのか許容していた節がある。しかしガウンは違う。それが許されないことであると理解しているはずだ。
何故なら彼自身が、その件で激しい怒りを見せた竜の一匹であるからだ。
「……ちっ」
どう対応しようものか答えが出せず、デュークは尖る神経の不快感に舌打ちする。
顔を背けたまま無言を貫くコヴァ。余計なことを知ってしまったと、デュークはガシガシと乱暴に頭を掻きながら立ち上がった。
「ダーシーには悟られんじゃねえぞ。どうなっても俺は知らねえからな」
白竜がこのことを知ればただでは済まさないだろう。デュークも通例ならそちらの側に立ったはずだ。が、この借りを作っておいてその仕打ちはない。恩を仇で返すような真似は胸糞悪くて仕方ない。
葛藤の末、デュークはコヴァの実情には気がつかなかったと目を瞑ることにして、話を切り上げ彼女の前から立ち去って行った。
◇◆◇
「報告は以上。詳細はこちらを」
「ふむ……」
軍用区庁舎司令室。
ブライトリス王国軍の精鋭、武傑特務の銀妖グレイ・バンダービルト少佐が中央地区で起きた戦いの概要を伝え終える。
エプスノーム基地司令タットン・ベレスフォード中将は、彼から手渡された報告書に目を通しながら。
「成程。ではその協力者は、王国からの褒賞を望んではいないと」
「正確には、顔と名が売れることを嫌っている様子で」
「有名税からは逃れたい、か」
流石の銀妖も単独での紫竜撃退は難があったらしく、シン・グラリット、フェア、ソブリンという三名の協力を得て成し遂げたという話だ。
彼らは軍の人間ではない。では銀妖と縁故のある者かというと、それも違うという。野に紫竜と戦えるほどの実力者が身を潜めていたとは、王国軍の情報力も知れたものだと司令は表には出さずに自嘲する。
「難しいな。紫竜撃退の功労者に褒賞無しでは、王国の信用と沽券に関わる。目撃者は?」
「多くはないかと」
少数ならば噂がたっても短期間で風化する望みはある。しかしながら、口コミによる情報の共有と拡散の力を侮ることは出来ない。
出所の違う複数の目撃談が一致すれば、それを事実と受け止める者がどれだけいるか。話題が話題だ。受信側と発信側、双方の信用が確立されることがあれば、その情報は爆発的に広まっていくだろう。
「そうか。まあ、いずれにしろ判断を下すのは王族と行政部だ。報告はこのまま上げておく。ご苦労だった」
「では、失礼します」
司令との会話を事務的に終え、銀妖は敬礼すると軍服を翻して司令室を後にした。
◇◆◇
司令室を出、幻神ヴィタン・レクナーデは滞在期間中に軍から特務の少佐として宛がわれた、宿舎の一室へと向かいながら思考を巡らせる。
異変の術者一派には気の毒だが、今後暫く波風なくこの街で過ごすことは難しいだろう。
世間で噂になるであろう中央地区での戦闘は、根も葉もある事実だ。シン・グラリットからの要望は一通り司令に伝えはしたが、王国側としても公表は避けられないと思われる。
当人にもそのヴィタンによる見通しは伝えてあり、それに関してはもう半ば諦めている様子だった。
庁舎を出ると高く上った太陽がヴィタンを照り付ける。日に日に日差しが厳しくなってきていて、季節は新緑から初夏へと移り変わる頃合いだ。
紫竜による大規模な襲撃があったにも拘らず、庁舎周辺の景色は大した変化もない。軍用区は早期の段階で召喚竜を掃討し、被害は小さく収められた。
しかし他地区の被った損害は甚大だ。北も東も南も破壊された家屋や店舗、施設は多く、西の工業区には中央から外壁までを貫く巨大な傷跡が残された。更に中央の情報管理区は紫竜が直接暴れたこともあって、都市中枢としての機能が麻痺するまでの痛手に及んでいる。
そして、犠牲となった住民達。突然大切な家族を失った遺族の心痛は察するに余りある。こうした現場を数えきれないほど経験してきたヴィタンだが、彼らに対して出来るのはその心の傷が一日も早く癒えるよう願うことだけだ。
――「これを。復興の資金に充てて下さい」
都市の復興へ思いを馳せ、脳裏に浮かんだのはシンによる厚意だ。
彼から受け取ったのは戦闘による副産物であり取れ高、紫竜の体表から剥がれ落ちた紅紫の鱗の数々だ。
神話の怪物八彩竜の素材。その希少性と効用は他の素材と一線を画す破格の価値があり、取引されればそれ一つで莫大な額が動く。
流石にそのような貴重品を受け取ることは出来ないとヴィタンは断ったのだが、彼は紫竜がこの街に現れた理由に自分も無関係ではないだろうと、半ば強引に押し付けて逃げるように去って行った。
多少気は引けるが、彼が紫竜を引き寄せた要因の一つであることも、復興に大量の資金が必要とされることも事実に変わりない。有難く使わせてもらうことにしよう。
(幸い、信頼出来る伝手もあることだしな)
女神レプティの現在の伴侶は彼の大商人ギルピン・ローダー卿だ。エプスノーム市の役人も務める彼にとって、資金のやり繰りは専門分野だ。何よりレプティの目があるので着服される恐れがない。
(あとは、セトがあの子をどうするか……)
ヴィタンとの直接的な関係はなくとも、どうしたって気にはなる存在である。特務の同僚でもあるナインクラックのサイリ・キトラスが接触を図ったとも聞いた。
とはいえ、会ったところで話すこともしてやれることも何もない。そう、ヴィタンには何もない。が。
「一度くらい、会ってやってもいいだろうに……シモン」
彼がそれに応じない理由を知りながら、再会の叶わぬ親子に対するもどかしさに、ヴィタンは知らず目を伏せて僅かばかり歩を速めた。