54 異変の術者
喉を掴み持ち上げた、軍服を纏った肢体。
床面から離された足は重力に引かれるままに爪先が下を向き、垂れ下がった腕には碌に力も入っておらず、もう抗う意志も見られない。
そのくせ表情には危機感も敗北感も毛ほども浮かべていないのだから、この結果に何の満足感も得られない。何の感慨も湧いてこない。ただ空しいだけだ。
「……ちっ」
吊り上げられた格好のまま、無感情にこちらを見下ろす幻神ヴィタン。その灰色の瞳を睨みつけ、デュークは苛立ち紛れに舌打ちする。
因縁の宿敵から悉く袖にされ、溜め込まれたデュークのフラストレーション。久々に発散をと目論んだ銀髪の七暁神との戦闘は、鼻白むほどに味気なく、興醒めもいいところであった。
「複製体なんぞで……俺も舐められたもんだなぁ、おい」
この幻神の肉体は本体でなく、魔法で作成された複製体だ。身体能力は本来の半分にも満たない上、魔法が扱えないという致命的な欠陥を抱えた粗悪品で、到底デュークの相手が務まる代物ではない。
とはいえ、そんなことは当人もわかり切っている。なのでこの戦闘でのヴィタンは、それを前提とした立ち回りに徹していた。即ち、防御重視の時間稼ぎ。増援待ちだ。
ヴィタンに端からまともに戦う気が無かったことを察すると、デュークは途端に萎えた。真面目に戦闘することすら馬鹿らしくなって、愛槍は仕舞い込みただ安直に間合いを詰めて、やる気も力もこもっていない拳を適当に振り回すだけ。おかげで戦場となったこの鍾塔もまだ健在だ。
だが、そのフィジカル任せの脳死攻めが、複製体のヴィタンには効果的だった。頭を使った立ち回りで時間を作りたかったヴィタンだが、相手は駆け引きに乗って来ないばかりか何を言おうと耳を貸さず正面から向かってくるのみ。これでは考えの裏をかくような策は意味が無い。結果的に決着を早める運びとなった。
ヴィタンが待っていたのは魔臣か七暁神の誰かだろう。もしかしたら異変の術者を引き込んだのかもしれない。それでもデュークは誰が加勢に来ようが相手取るつもりだったし、それを望んですらいた。ただ、それ以前の問題として。
「まずは、てめえが全力でかかって来いよ」
そう不満を吐き捨てるも、相手の表情は変わらない。この男は以前により輪をかけて感情を表に出してこなくなった。
更に不愉快なことに、ぶつけられた言葉を無視するように、ヴィタンはデュークから視線を切った。別に怖気づいて目を逸らしたわけではない。そんな肝の小さい男でもない。
「……どこを見てやがる」
ヴィタンの見つめる先はデュークの左斜め後方。位置関係を鑑みるに、この展望台へ続く階段がある辺りだ。
と、デュークがそちらへ意識を向けると。
――カツン。
足音が、鼓膜を震わせていることに気づいた。
デュークの放つ威圧が張り詰める場にあって、躊躇なく階段を上り、近づいてくる。
一定間隔で響くその足音が止まると同時に、それまで無言だったヴィタンがぽつりと呟きを漏らした。
「来たか」
ここでの役目は終えたというようなヴィタンの様子に不快感を募らせつつも、デュークはゆっくりと首だけで振り向いて来訪者を視認する。
初めに疑問符が浮かんだ。デュークの紅紫の瞳が映し出した人物は、予想の中にあった誰でもなかったからだ。
黒髪に赤目の男。身につけた黒のジャケットに赤いベスト、白いシャツはいずれも皺なく清潔感に溢れ、首元には襞のついたレースの胸飾りを着用している。
およそ過酷な戦場には不釣り合いな装いをした貴族趣味なその男は、大仰に両腕を広げ、万感の思いを湛えたように笑い、そして高らかに声を上げた。
「感謝を!」
「……あん?」
男の第一声が意想外だったもので、意味も意図もつかめずデュークは眉を寄せる。何だこいつ。
訝しむデュークに取り合わず、しかしその双眸は紅紫の瞳を確と捉えたまま、陶酔したように男は続ける。
「この機会へ導かれた運命に感謝を! この機会に巡り合えた奇跡に感謝を! この機会を与えられた、全てに……感謝を!」
力強い歓喜の声――と形容するにはあまりにも異様な、身の毛もよだつ狂喜の声が展望台にこだまする。
正味デュークには誰かもわからず綺麗さっぱり忘れ去られていたその男だが、出会い頭の病的な立ち居振る舞いが強烈なインパクトをもたらし、刺激を受けた海馬が記憶の奥底に沈んでいた男の情報を引きずり揚げてくる。えも言われぬその感覚と思い出された類例のない素性に、デュークは思わず息を呑んだ。
「……てめえは」
「暫く。紫竜デューク・マゼンタ」
男は自分が何者であるのかをデュークが認識したことを悟ると、笑顔の質を不敵でありながらも和やかなものへと変えた。知人に宛てた微笑みだ。
この場に現れることを全く想定していなかった人物を目にして、デュークは表情を強張らせる。首を掴む手を緩めドサリと幻神の複製体を床に落とすと、ぐるりと身体を振り向かせて男を正面に見据えた。
「穴倉の引きこもりが……何で、ここに居やがる」
ブライトリス王国とデューロイツ帝国を隔てる大自然の魔境、フレンテの樹海。その地下に広がるドビル大空洞の最奥に常時鎮座しているはずの男だ。
黄竜、青竜という、デュークと肩を並べる神話の怪物が二匹も傅く、この世界における無二の傑物。名前は確か――
「――ロード、つったか」
「その点について恐縮ですが、訂正させていただきます」
「訂正だあ?」
「諸事情により改名が不可欠の事態に陥りまして。今はロードではなく、ソブリンと名乗っております」
「何だそりゃ? どんな事態だ」
どんな事情があれば改名を余儀なくされるような、わけのわからない状況になるのか。憶測も想像も――面倒で真剣には――することが出来ず、デュークは疑問の声を上げる。
この男の生活は著しく変化に乏しい。自身は棲家に引きこもり、余所者が訪れることもない。デュークが宿敵とする人物が冒険者のチームで大空洞の探索へ乗り出してはいるが、足手纏いを抱えて最下層まで到達出来るかというと、難しいところである。
コヴァやガウンが招く客が数少ない変化の要素になるが、基本他者に無関心な二人が招く客など勘定に入るかも怪しいデュークのような身内ばかり。その上頻度は百年単位で一度あるかどうかという始末だ。
デュークが以前訪れた経緯は、ガウンと共にどこぞの国で暴れた後にその流れで、だったような記憶がぼんやりとあるが、如何せん大昔のことで細部までは思い出せない。
しかしながら今問題としているのは、そんなくだらないことではない。
「質問に答えてねえよな。何でここに居る。洞穴に千年も引きこもってやがったものぐさが、どんな風の吹きまわしだ」
ただの気紛れで足を運んでくるようなフットワークの軽さには縁遠く、極めつけはこの時期、タイミング。考えられる理由は一つ。
「……こないだの異変に何か関係してんのか、てめえ」
「ええまあ、当事者ですから」
「ぁあ?」
ただでさえ困惑の渦中にありながら、今度こそ理解の範疇を越えた答えを返されて、デュークは大きく顔を顰める。
「異変の術者は、シン・グラリットって奴だろうが」
聞いていた話と違う。手元にある情報との不一致に、それを寄こした足元の幻神を睨みつける。
あの時のやり取りがその場しのぎの出鱈目だったとしたら、デュークはまんまと騙された形になる。しかし、ヴィタンが一般人を巻き込むような嘘をつくとも思えない。
「それは間違いではないのですが」
ソブリンの返答はデュークの考えを後押しするもの。だが彼の表情――含みのある笑みが、何か思い違いをしていることを示唆している。
「…………!」
即座にデュークは気づいた。
術者が当時仮に敵と相対していたならば、その相手は死んだものと決めつけていたことに。
加えて、或いはもっと単純に、異変の術者に仲間がいた可能性に。
そんな簡単なことにすら考えが及ばなくなってしまうのだから、思い込みというのは怖ろしい。
だが、内省して新たに得られたそれらデュークの着想は、ソブリンの次の台詞にあえなく握りつぶされた。
「あの魔法陣を描いたのは誰か、という話であれば、それは紛れもなくこの私の手によるもの。厳然たる事実です」
意味がわからない。
いや、字面としての意味は理解出来ているのだが、話に筋が通っていない。
この男は異変の術者がシンという名の人物であることを否定しなかった。その上で、魔法陣を描いた=異変を起こしたのは自分なのだと、矛盾した主張をしている。
「ふざけてんのか」
男に弄ばれているような気がして、デュークは声音と目つきに苛立ちを乗せる。
空言であった場合は勿論としてそれ以上に、嘘は言わずとも理解に必要なピースを隠して苦悩するこちらの様子を嘲っている感がする。
話の核を伏せた弁舌に相手が困惑する様は確かに見ていて面白い。デュークも度々好んでやる遊びだ。ただ、他人を使って遊ぶのはよくても、自分がそれで遊ばれるのは大概気分の悪いものだ。
「辻褄が合わず話が破綻しているように思われるでしょうが、ご心配には及びません。然るべく両者の条件を満たす解が存在します」
回りくどく、勿体ぶった話し方を続けるソブリン。気の短いデュークには付き合っていられない。何より、多少気になった程度の問題の解答を、耐え忍んでまで待ってやる必要など初めから無い。
次の物言いがこちらの意に沿うものでなければ、話し途中で不意打ちでも叩き込んでやろう。拳を握り、そうデュークは腹に決めた。
そんなデュークの意を察してか、ソブリンはニコリと笑い品良く腕を振って。
「それ即ち、シン様の召喚魔法によって呼び出された私が引き起こした事象。此度の異変の真相です」
「――何だと!?」
その言葉の意味する冗談じみた実情があまりにも衝撃的なもので、にわかには受け入れられずにデュークは聞き返す。
「てめえ……召喚異体か」
「いかにも。この身は契約主シン様の魔力を以って形作られた、本体とは別個の異体。今この都市を跋扈する竜と同じく、具現化された情報です」
胸に手を当て己の身体を指し示すソブリン。
召喚という単語の意味を取り違えた、生成、創造に類する仕様に思える召喚魔法だが、その名の体裁を整えるように術者の元へ呼び寄せるものがある。
召喚主と契約することで魔力によって繋がった被召喚者。その肉体や精神をはじめとした、一個全ての情報だ。
召喚魔法で召喚するのは目に見えるものではなく、世界を構成する現在の情報の一部なのである。
(嘘だろ、おい……)
この話に嘘が無ければ事実上の異変の術者はこの男であり、シン・グラリットはそれを召喚して使役する、これまで抱いていた――それでも規格外の――認識を更に上回る力を持った人物ということになる。
異質、鬼才、傑物。そんな表現すら霞む想像も及ばぬ埒外の存在。特異だ。
「……こいつは、そうか。認識を改めるしかねえらしいな」
馬鹿げている。認めたくない。そう感情のままに拒絶してしまえば楽なのだが、現状整合する解を他に見出せない。
元より異変の術者が来ても相手をするつもりだったのだ。後のことなど成るようにしかならない。考えるだけ無駄だ。
「良い顔です。切り替えが早い……というより、最初から臍を固められていたようですね」
「うざってえ。上からもの抜かしやがって」
ソブリンの悠然とした態度と言葉に毒づくが、デュークに苛立ちは無かった。相手がそれに足る力量を備えていると知っているからだ。
破格の強敵を前に身体が熱を帯びてくる。それでいて頭は自分でも驚くほどに冷静だ。交戦直前、程良い緊張感。
表情を変える。いつものにやけ面。相手の赤い瞳を見据え、告げる。
「その余裕面、吠え面に変えてやる」
「是非、そうしていただきたい」
互いの威圧が放たれた直後、デュークは足元の物体をソブリンへ蹴りつけた。
砲弾のような迫力で飛んでくるのは人間の体――幻神ヴィタンの複製体。ソブリンはその勢いを腕、掌で殺しきり、ふわりと優しく受け止める。
「後は頼んだ」
「お任せを」
短く言葉を交わし、役目を終えた複製体は塵へと変わっていく。
その間にデュークは鍾塔の柱を挟んでソブリンの対面へと移動する。互いの姿が目視不可の位置について。
「〈衝撃波〉」
破壊の魔法が舞台の景色を蹂躙する。
いとも容易く、脆く、崩れ落ちていく中央地区のシンボル。瓦礫と化していく鍾塔と共に、その鐘の音がまるで開戦を合図するかのように、高らかに鳴り響いていた。