50 意味の在り方
初めて二人が言葉を交わしたのは、ローダー卿主催の社交の場であった。
王都ロイスコットで魔導具開発事業を立ち上げたギルピン・ローダーは、当時まだ無名であった魔導学の俊才デヴィアス・カーターに協力を求め、彼の理論を元に大きな成功を収めた。
若い二人の成功は将来性も期待され王都内外から広く投資を呼び込み、信用を得た事業は拡大の一途を辿る。
成功は富を生み、富は権力を生む。破竹の勢いで成長し、日に日に肥大化する一商人の影響力に危機感を覚えたのは王都周辺の貴族達。
これ以上この男を王都でのさばらせたくはないが、正面から対立すれば彼を支援した有力者達がいい顔をしない。力尽くにまとめて圧し潰すことも出来なくはないが、それをすれば大きな歪を生み、最悪自分達の首まで絞めることになりかねない。そこで彼らがとった行動は、王家にギルピン・ローダーへの叙勲を掛け合うことだった。
幾つもの画期的な魔導具の開発及び生産、流通は、確実に国力を底上げし、王国をより繁栄させるものであり、その功績は王家も認めるところ。叙勲は適当であると判じられた。
かくしてギルピン・ローダーは王家から領土と爵位を賜り、貴族達の思惑通り活動の拠点を与えられた領土――エプスノーム地方へと移すこととなった。
移転による事業の新たな門出と貴族社会への顔見せを兼ねた祝宴は、エプスノーム近郊の貴族の多くが出席する盛大な催しとなった。
与えられた爵位は低く貴族としての力は取るに足らないものでも、商人として築き上げた資産とコネクションは王国随一の交易都市エプスノームに新風を吹き込むもので、その影響は計り知れない。対立する貴族派閥の両陣営が、まだどちらにも属していないローダー卿を自陣営に引き込もうと行動を起こすのは、至極当然であった。
当時のオームはベルグレイヴ家の跡目を巡るいざこざの只中にあり、貴族社会の闇というものを嫌というほど思い知らされ、身も心もほとほと疲れ果てていた。
ベルグレイヴ家の当主ルーパス伯ヒュー・W・M・ウイリアム・ベルグレイヴは慎重派で知られ、エプスノーム地方の貴族間派閥抗争において致命的な失敗は無いが、これといった大きな成果もあげていない。
嫡男のオームはそんな父親に共感を抱く穏健派であり、このまま順当に跡を継がれては次代も変化が望めないと、現状維持を是としない強硬派が大きく不満を募らせていた。
彼らはまだ幼いながらも非妥協的な気質の片鱗を見せ始めた次男アークルを後継にすべく担ぎ出し、事あるごとにオームを追い立てようと奸計を巡らせた。
次第にエスカレートしていった妨害工作はついには一線を越え、水銀を盛られたオームは生死の境をさまよう危機すらも経験する。回復し、通常の生活を送るのに支障がなくなったのはついこの前だ。
そんな折に開催されたこの祝宴。気乗りのしない挨拶回りとロビイングの根回しは病み上がりを口実に簡単に済ませ、ふと目に入ったのは薄萌葱の髪の少女。貴族の社交場にまだ慣れていないのだろう、緊張が顔に表れそわそわと落ち着きがない。身の置き所に困っている様子だ。
彼女のことは知っている。フレシュ・アンリ・ベレスフォード。対立する派閥の中心ベレスフォード侯爵家が孤児を一人養子に引き取ったという話はオームも聞き及んでいた。
この少女も遠からず派閥抗争の道具として使われるのだろう。
まだ貴族社会の醜悪な闇を知らないであろう無垢な少女を無知で純粋だった昔の自分に重ねたオームは、互いの立場やその背景を意識することもなく自然と彼女に声をかけていた。
フレシュの方はというと、トラウマを植え付けられる経験と環境の大きな変化によって病んだ精神が幾許か回復を見せ、ようやく新しい家族に対して心を開けるようになってきた頃である。
時空を飛び越えて来たフレシュにとって、この時代には気心の知れた友人はおろか、知人と呼べる存在すらもない。
ベレスフォード家に近しい貴族達であっても、素性もわからない孤児であったフレシュへの接し方は見るからによそよそしい。特に血統を重んじる層からの隠しきれない疎ましさの滲む視線は、フレシュの幼心を敏感に刺激するものであった。
家族以外で初めて他意のない純粋な親しみを込めて声をかけてきたのが、対極と呼べる立場にあったオームというのは、蓋然的な皮肉であった。
当時の両者の境遇や年上にも物怖じしないフレシュの気質も手伝って、二人はすぐに打ち解けた。
派閥のしがらみに苦心しながらも陰から背を押してくれた家族の協力もあって、フレシュは何も知ることなく友達が出来たことを素直に喜べていた。
一方ベルグレイヴ家では毒殺未遂の事件を受けて、家督争いが命のやり取りにまで発展することを嫌ったアークルが当主ヒューに訴えかける。ヒューはこれに応じ、強硬派の面々は事件の関与の有無に関わらず居場所を追われることになる。
それから間もなく家督争いは収束に転じ、オームを取り巻く環境とその心の内は、次第に以前の穏やかさを取り戻していった。
そうして二人は日々親交を深めていく間柄となった。
他愛のない話題に花を咲かせ、ある日は趣味趣向の一致に熱が入り、ある日は異なる価値観に舌戦を展開した。ゆっくりと、互いの主張を認め合い、或いは対立を深め、心を通わせながら季節を巡らせていく。
満開に咲き誇る花を慈しみながら春を過ごし、うだる暑さに怪談で涼をとりながら夏を過ごし、紅葉を背に持ち寄った書物で知識を深めながら秋を過ごし、新雪に轍を作る馬車に白い吐息を零しながら冬を過ごした。
フレシュは何も疑うことなく、この日常がずっと続くと思っていた。オームはいつかこの日常に、終わりが来ることを知っていた。
オームの運命を決定づけたのは、袂別の日から間もなくして現れた、一人の少年である。
不思議な少年だった。体格と顔つき、声色は間違いなく十代前半の子供なのに、瞳が、口調が、物腰が、漂わせる雰囲気が、遥か先達のそれと感じられるものだった。
少年は一つの事実を告げて、オームの前から早々に姿を消した。
――「フレシュ・アンリ・ベレスフォードは、聖王シモンの実子だよ」
疑問も疑念も抱くことなく、オームはただその言葉を、理由も無く当然のように事実として受け止めていた。
聖王がフレシュの実の父親であるならば――。不徳な考えが一瞬脳裏をよぎるが、オームはすぐにその感情に蓋をした。もう友人ではなくなってしまったが、それでも彼女は情の移った相手だ。私情を挟んだ邪な計略に利用することなど出来るはずがない。そう信じて疑わなかった。
自分の感情が制御不能に陥るなど、この時は夢にも思っていなかった。
◇◆◇
(どうして僕は、あんなことを……!)
怒りに身体を戦慄かせるフレシュからありったけの罵声を浴びせられ、オームは後悔の念に深く苛まれる。
何故、あんな感情に駆られてしまったのか。何故、あんな行動に走ってしまったのか。何故、あんな言動を発してしまったのか。何故、傷つく彼女を顧みることが出来なかったのか。何故、何故、何故。
荒れ狂う感情を吐き出し、怒りの萎んだフレシュは気力を失い消沈していく。
彼女の瞳から生気が抜けていく様を目の当たりにし、どうにかならないかと言葉を探すが、そんな都合のいい魔法の言葉は見つからない。あるわけがない。吐いた唾を呑むことなど出来ないのだから。
「友達だって……思ってたのに……」
掠れた声が、オームの鼓膜と心を震わせる。
互いの立場が相容れないと明確になり、袂を分かっても尚、彼女は自分のことを友達だと思ってくれていた。
自分はその彼女の心を裏切った。感情のままに、少しの躊躇いもなく、これ以上ないほど身勝手に、残酷に。
悔恨に奥歯を噛みしめ、口元を歪める。眉間に皺が寄り、目が細められる。魔が差した己を呪う。抑えきれなかった衝動を呪う。
ただ彼女に伝えたい。信じてもらいたい。あれは決して、本心ではなかったと。
――本当に、そうか?
不意に、心の奥の暗い淵から浮かび上がった疑問に、心臓が跳ねる。
動揺に額に汗が滲むのを感じながら、心の中でその疑問を否定する。本心であるはずがない。だから今、こんなにも悔やんでいるのではないか。
――本当に、そうか?
きっぱりと答えを出し、ばっさりと斬り捨てた疑問を再度目の前に引きずり上げてくる心の暗闇。
どうして振り切ることが出来ない? よもや先程のおかしくなった自分が、本音を晒した本来の姿だとでも言いたいのか? 冗談にも程がある。
――本当に、そうか?
しつこい。くどい。そうだと言っている。あんな醜悪な男が本来の自分であってたまるか。違う、違う、違う違う違う。絶対に違うはずだ。そうだろう?
――本当に、そうか?
やめてくれ。これ以上繰り返さないでくれ。どうしてそんな疑問が心に居座ったまま離れていってくれない。わからない、わからない、わからない、わからない。
(……わからない……)
かわすことの出来ない自分の心との問答に追い詰められていく最中、オームが目にしたのは瞬時に意識を現実へと回帰させるものだった。
正面。打ち萎れるフレシュの後方。恐怖心を煽る巨体。大きく開けられた口腔の、その奥から。
「――――!」
吐き出された真っ赤に燃える炎を前に、弾かれたように体が動き出す。
前へ。夢中で。他の何にも目をくれず。
彼女へ。薄萌葱の髪の少女へ。かけがえのない時間を共に過ごした、大切な、友達へ向かって。
(――フレシュ!)
力の限りに腕を振り、彼女を炎の通り道の外側へと突き飛ばす。
手の中に残る確かな感触を抱えながら、オームは安堵感に満たされていた。
ほら、どうだ、やっぱりそうじゃないか。
(僕は、フレシュを――)
生気の輝きを失った、フレシュのブラウンの双眸。
それが、オームが瞳に映した最期の光景となった。
◇◆◇
赤と橙の濃淡が揺らめき、踊る。
絶え間なく形を変え、暖色のグラデーションをとめどなく移ろわせる。
遺伝子に刻み込まれた原始的な恐怖を呼び起こすそれは、今は何故か、幻想的で美しい色彩にすら感じられた。
「…………嘘」
その場面を目にしてからどれくらいの時間が経ったか。
体を動かすことも、頭を働かせることも出来ず、地べたに座り込んだまま揺れる炎を呆然と眺めていたフレシュの口元からようやくこぼれてきたものは、変わることのない起きた事実に対する拒絶と願望だった。
心が現実味のない浮遊感を帯びてふわふわと漂い、先刻の出来事に都合のいい解釈を探し求めて彷徨う。
しかし目にした光景が動かぬ証拠として意識の深層に刻み込まれ、情緒的で楽観的で根拠のない解答を許さない。時間が経つにつれ現実感が根を下ろし、漂う心を徐々に引き戻していく。
やがてフレシュの意識は現実と向き合うことを余儀なくされて。
「どうして……?」
心を騙す時間稼ぎのための疑問を投げかける。この場に。自分に。
どうしてこんな事態に陥ってしまったのか。この竜の群は一体何なのか。一連の襲撃と関連はあるのか。わからない。オームは否定していたが。
どうしてオームは襲撃事件を起こしたのか。答えた彼の言葉の通りなのか。その理由は、彼をそこまで駆り立てるものだったのか。わからない。とてもそうは思えない。
それが本心だとしたなら、どうして自らを犠牲にする行動に走ったのか。わからない。理屈に合っていない。ただ、一つだけ確かなことがある。
それは、この結果は、再三にわたるオームの忠告を感情的になって無視し続けた自分がもたらしたものであるということだ。
「私の、せいで……?」
オームは何度も言っていたのに。立ち止まっている場合ではないと。
オームは必死に訴えていたのに。今は自分を信じてほしいと。
わかっていたはずなのに。オームの言っていることは間違っていないと。考えるまでもなく。
だけどフレシュは不信感に囚われた心のままに、彼の言葉と行動の全てを否定した。自分達の置かれていた状況から目を逸らしてまで。そうして招いた結果が、これだ。
「私が、オームを……」
現実という名の咎が杭となって胸に穿たれる。
犯した罪への恐怖から、声が震える。瞳孔が揺れる。呼吸が乱れ、脈が早まる。
「……殺した」
殺した。
声に出して認識を深める。犯した罪と向き合うために。犯した罪から逃れられないように。
その重さに心が耐えきれず、壊れてしまうとしても――或いは、壊れて楽になるために。
「私が、オームを、殺した」
顎を引き、視線を下に落とし、両手を見下ろす。震えている。
罪の意識がそうさせるのか、心の砕ける前兆か、意識が分裂し、動揺する自分と、その様子を俯瞰する自分がいるような錯覚に陥る。
「……そうなのかい?」
疑問が投げかけられる。それは本当のことなのかと。事実とは違うのではないかと。
確かに、自分自身のこの手でオームの命を奪ったわけではない。だが、そんな事実は免罪符になどなりようがない。
「私が、オームの言うことを聞かなかったから……。私の、私のせいで……」
自分が殺したも同然だ。
わかっていたはずなのだから。すぐ近くに死の脅威があることくらい。
その上で、わかっていないふりをして、自分の感情を優先させた。救いようのない愚かな行為に走った。
吐き気を催すほどの自らの醜さに、この世から消えてしまいたい衝動に侵される。
「私が死ねば良かったのに! 私が、私が自分勝手だったから起こったことなのに! オームが死ぬ必要なんて全然無かったのに!」
後悔に胸が押し潰され、ついには心を保てなくなり、髪を振り乱して半狂乱になって喚き立てる。
もう遅い。取り返しはつかない。全ては後の祭りである。
「どうして……私なんかを、庇って……」
自分は迫る炎に気づけていなかった。本来、オームは炎を避けられたはずなのだ。鈍い自分に気を取られさえしなければ。
「助けて、もらったのかい?」
助けてなんてくれなくて良かった。
こんなどうしようもない愚か者を助けるくらいなら、オームに生きていてもらいかった。
自分に、彼の命を犠牲にしてまで助ける価値なんて微塵も無い。無いんだ。
力なくへたり込んだままうなだれて、視線を下に落としたまま無気力がフレシュの心を覆いつくす。もう、この騒ぎも、生きるも死ぬも、何もかもがどうでもいい。
と、自暴自棄になって無責任に全てを投げ出すフレシュへ。
「わかっているのか? それは、彼の死を無駄にするっていうことだ」
不意に、頬を思い切りはたかれたような衝撃を受けて目を見開く。暗澹として粘つく陰鬱な閉塞感に風穴を開け、心臓の脈打つ音が聞こえてくる。
塞ぎ込む心の奥に投げかけられた言葉が、その意味が、フレシュの感情を激しく揺さぶる。
「彼は、何のために自分の命を投げ出したんだ?」
何のため? オームのしたことは、何のため?
それは間違いなく、フレシュを生かすためだ。オームはフレシュの命を救って犠牲になったのだ。
では、その後のことは? わからない。具体的な答えなど出て来ない。だが少なくとも、自分を罪の意識に苛ませ、塞ぎ込ませるためでないことだけは確かだ。
そしてこのまま、失意に身を委ねたまま、何もせずにただ死を待つという選択は、彼の命に何の報いももたらさない。何の意味も与えない。
彼の、オームの、命を賭したその意味は――
「その意味は、君のこれからの行動が決める。そうじゃないか?」
一陣の風が、フレシュの心を吹き抜ける。
心に塗りたくられた、暗くぬかるむ負感情を吹き飛ばし、どこか他人事のように俯瞰することで退避していた意識が覚醒する。
そうだ、彼は自分のために命を投げ出したのだ。ならばその死に報いることが、自分の義務であり、責任だ。
立ち上がれ。いつまで下を向いているつもりだ。こんな有り様で彼の死に報いれるものか。
「彼の死に報いたければ、まずはこの場を生き抜いて見せろ」
声が聞こえる。叱咤する声が。塞ぎ込んだ自分の暗闇を晴らしてくれた声が。
気持ちを改め、覚悟を決め、顔を上げたその先に。
「赤い、ファルクス……」
緋色に輝く刀身の大剣。それを示す声は第三者、フレシュとは違う女のもの。
脈絡なくこの場に入って来た声の方へ目を向けると、そこには焼け焦げてぼろぼろになった軍服を着た女が立っていた。
額には血を拭った跡があり、そこかしこに火傷を負っている。満身創痍とまではいかないが、激しい戦いの後を思わせる。
フレシュとオームを逃がし、火竜との戦いを終えて駆けつけてきた彼女――サイリ・キトラスは、意表を突かれたような表情で緊迫感を漂わせながらその男へ視線を送っていた。
長身でくすんだ赤髪の男。フレシュも見知っているその男だが、サイリはそれと違う、別の名前を口にする。
この世界に住む、誰もが知る名前を。
「破壊神、セト・クレタリア」




