40 血縁
「ちょっと、オーム、何を……何が……?」
知り得るはずのない自分の秘密。暗にそれを示されて雷に打たれたような衝撃が脳髄を走り抜け、フレシュは返す言葉に意味を持たせられなくなるほどに戸惑い狼狽える。
「知ってるよ、フレシュ。君の、血の繋がった本当の父親は――」
汗を滲ませ、目を泳がせ、声を震わせるフレシュを置き去りに、オームは紛うことなき事実を言葉に変え、この時この場に晒し出す。
「――聖王シモン」
穏やかながらも重く、力の込められた声が真正面からフレシュを射抜く。
ありえない。
「そんなわけ……」
ありえない。
「そんなわけ、ないじゃない」
ありえないのだ、そんなことは。
「私の、本当のお父さんが……実は聖王だなんて……そんな、神話の時代のことみたいな……。それじゃあ私は一体何年生きてることになるのよ!? 千年? 馬鹿馬鹿しい! 馬鹿馬鹿しいわ!」
反論は動揺する心を取り繕うように徐々に早口になっていき、最後には一気にまくしたてる形にまで変わって、乱暴に言葉を叩きつけた。
「そうだね。不思議だね」
整合性の取れない現実との矛盾点を突きつけるも、オームの様子は変わらない。まるで疑念を持っていない。
彼の中ではフレシュが聖王の娘であるということが純然たる事実として先にあって、その事実と現実との間の不整合は不思議の一言で片づけられてしまう程度の些細な問題。そう受け取るに充分すぎる態度だった。
「でも、不可能じゃない。聖王は千年を生きる魔王と同じ七暁神だからね。聖王の子供も同じように生きて来たっていう可能性もあるんじゃないかな、丁度魔臣のように。どうやってかは、わからないけれど」
「そんなこと……」
「だけどまあフレシュがそうだっていうには、落ち着きも威厳も足りてなさすぎるとは思うけどね」
クスリと笑い冗談めかしておどけてみせるオームだが、フレシュにはそれをいつもの調子で返せるような余裕などあるわけもなく、現状を把握して混乱した頭を落ち着かせようと必死だった。
「どうして、そう決めつけて……オームって、そんなに思い込みが激しかった? ねえ……そのこと、一体どこから……誰から……?」
そう、ありえないのだ。オームがこの事実を知り得ているということ自体が。
フレシュの血縁に通じている人物は本邸に三人。当主マルコス、長男サイクス、そして侍従長のベデットだけで、侯爵夫人である義理の母ジェシカにさえもこの事実は伏せられていた。
三人の守秘に対する意識の高さは徹底したものだ。申し分ない。これほどに秘匿性が確保された条件の中、いかにして秘密が漏れたというのだろうか。
「君が思っているよりもずっと、君という人間は多くの存在に知られている。そういうことじゃないかな」
「何よそれ……誰が知ってるっていうのよ」
他に思い当たるところといえば、魔王と魔臣達、それと八彩竜くらいのもの。それに彼らは知らないはずだ。
(……私が、この時代に居ることまでは)
緑竜ならばもしかしたら知っているのかもしれないが、今はイーリッシュを塒とする彼の賢竜リントブルムとオームの間に接点があるとも思えない。
「ともあれ、聖王の実の娘であるフレシュなら、教会を動かすことも出来るはずなんだ」
「……仮に、仮によ? 私のお父さんが本当に聖王だったとして、それを証明する手段が無いわ。それに……もし、神話がただの物語じゃなくて、実際に起きたことが書かれたものなら……そうだとしたら……」
そこから先は言葉にすることが出来ず、フレシュは口をつぐみ、顔を伏せる。
「……神話の一節『聖王の悲劇』の真実が、怖い?」
口にするのを避けたところをズバリ言及されて、ビクッと身体が痙攣する。
その指摘が図星だからというよりも、目を逸らしていた、ずっと逃げ続けていた題目に向き合わされたことによる反応。「怖い?」だって?
「待って……」
怖いに、決まっている。
「大丈夫、神話は空想を交えた創作だよ。だってその一節が実際の出来事だっていうなら――」
駄目だ、そこから先は。
「お願い、待って」
切実に。悲哀さえ感じるほどに。だが、そのフレシュの哀願は掬い取られることはなく。
「――君が今、ここに、こうして存在しているはずがないんだから」
「待ってって、言ってるじゃない!!」
全身に力を籠め、腹の底から怒鳴り声を上げてオームの口を閉じさせる。
大きく肩で息をして、仇敵を見るような瞳で目の前の青年を睨み据える。
汗が滴る。額から、頬から、こめかみから、鼻筋から、目元から、次から次へと噴き出して止まらない。顔だけではない。首筋から背中、腰回り、お尻、腿、脹脛。全身をびっしょりと濡らした汗を吸い取って重くなったネグリジェが肌に纏わりつく。甚だしく不快なはずの感触を脳が受け取る余裕がなかったことは喜べそうにない。
沈黙。
冷えた夜の空気に響くのは未だ整わずに浅く繰り返すフレシュの呼吸と、邸宅からの断続的な戦闘音。
口を開くことが出来ない。何も言葉が出て来ない。彼との話を望んで、我を忘れて部屋を抜け出して来たというのに。
彼の姿を見つけた時、何を期待したのだろう。何を望んでいたのだろう。
そうだ、思い出した。
(私はただ、オームと、もう一度友達になりたかった……)
それだけなんだ。それだけでいいんだ。それ以上のことは望まない。
熱望していたわけじゃない。渇望していたわけじゃない。ただ、そうなってくれたらいいな、という程度のささやかな願い。叶わないことは知っていた――つもりだった。
この期に及んで期待が先行し、それを裏切られる心構えが出来ていなかった。彼と決別する覚悟がしっかりとあったなら、こうまで打ちのめされることはなかったのかもしれない。
いつしかオームを見据えるフレシュの瞳から憤りの色は消え失せ、その眼差しは幼い子供が情に訴えかけるような弱々しいものへと変わっていた。
「聖王の悲劇に関しては、教徒の中でも解釈がわかれてるみたいなんだ」
沈黙を破ったオームの声は先程までと変わりがない。ただ話の続きを再開しただけ。そんな調子だ。
全く様子に変化の見られないオームに薄気味悪さを感じて身震いする。目の前のこの青年は本当にオームなのか。オームの皮を被った別人なんじゃないか。
「ねえ……もうこの話、やめにしない?」
何とかそれだけを絞り出して声にする。だがオームは全く取り合うことはせずに。
「フレシュが聖王の娘だっていう事実が発覚すれば、君へ付き従う教徒も多くいるはずさ。それこそ一つの派閥を作り出せるほどにね」
オームの言は事実だが、それをすれば彼女の存在を良しとしない教徒達がどういった行動に出るのか。少し考えればわかるもの。フレシュの身の安全が何ら考慮されたものではなかった。
幸か不幸かフレシュ自身に余裕が無く、その点を察するまでには至らなかったが。
「私は、そんなこと望んでない。だからもうやめて」
「どうしてだい? 君の存在そのものが、父親の汚名を濯ぐ役割を成すものなのに。それとも、そうはならない理由でもあるのかな? 例えば……そう、姉妹の存在とか」
「……やめて、オーム」
「聖王に二人以上娘がいたとしたら、確かにフレシュの存在で悲劇の否定は出来ないね。でもそれなら君を、聖王糾弾の旗手に据えることが出来る。彼の犯した最悪の大罪――」
「ダメっ!」
彼の言葉の終着点が目に見えて、慌てふためいたフレシュはそれ以上を言わせまいとオームの口を塞ぎに手を伸ばす。
しかしそんな行動が間に合うわけもなく。
「――『子殺し』の咎によって」
「やめてえぇっ!!」
フレシュの叫びが、悲鳴にも似た悲痛な金切り声が夜空に響き渡る。
もう何も聞きたくないと耳を塞ぎ、目の前の全てを拒絶するようにその場にへたり込む。
ベレスフォード家の、新しい家族のおかげで考えずに済んでいた。逃げ道に困ることがなかった。これ以上ないほど環境に恵まれていた。
だけど決して、忘れていたわけじゃない。
「聖王の名にあるまじき非道で僕は半信半疑だったけれど……その様子だと事実みたいだね」
神話は父親の話が綴られたもの。それを知ったフレシュは当時、すぐに聖典を手に取ることを躊躇った。
怖かった。神話が事実であろうとなかろうと、その内容に触れることが怖ろしくてたまらなかった。
気になって眠れない夜が続いた。神話に何が記されているのか――あの時に何があったのか、知りたくなくて、だけど知りたくて仕方なくて。欲求が恐怖を上回るまで、そう時間はかからなかった。
「やめてよ、オーム……お願いだから、やめてよぉ……」
幼子のように声を震わせ、瞳を潤ませて懇願するその姿には、気が強く、凛とした侯爵令嬢の面影はもうどこにもない。
怯える少女を前にオームの碧い瞳は感情の色を映さず、彼女を労わる温情など幾許もない。ただマイペースに話を続けるその光景は異様な空気を醸し出していた。
「当時の出来事で、フレシュだけが知っていることもきっとあるよね」
「やめてやめてやめてやめて……」
神話の一節『聖王の悲劇』――その大筋は、オームの言う通り聖王自ら愛娘の命をその手で摘み取るという、フレシュにとって到底受け入れることの出来ないものであった。
「聖王はどうして実の娘をその手にかける必要があったのかな? まさか神話に記載された理由そのままってことはないよね」
「知らないっ! 私は何も知らないの! だから……だからもうやめて……」
神話に記載された理由というのは、反目した娘を粛清するというもの。だけど、それは嘘だ。
では、どういった理由があったのか。わからない。フレシュは当時何が起きていたのかを知らない。だけど、神話は嘘だ。絶対に、嘘なんだ。
あの一節が事実だなんてことは、あってはならないのだ。
(お父さん……お父さん…………!!)
嫌々と頭を振って拒絶する。両手で顔を覆って逃避する。
何も聞きたくない。何も知りたくない。何も思い出したくない。何も受け入れたくない。もう何も。何も。何も何も何も何も何も何も何も何も。
「ひどいよ、オーム……私、待ってって言ってるのに……やめてって言ってるのに……」
打ちひしがれ、心を挫かれ、こぼれ落ちる嘆きは悲哀に湿り、胸元のペンダントを両手でぎゅっと握りしめた彼女の表情は、実際に今にも泣き出しそうなまでに脆く歪んでいた。
「ああ、可哀そうなフレシュ。そこまで君を追い詰めることになるなんて」
ようやく。ようやくオームがフレシュの痛ましい姿に言及する。だが、それは決して彼女を思いやってのことではない。
それどころか逆に、続く言葉は駄目押しとなる一撃となってフレシュの心に深く穿たれた。
「聖王という男は、本当に度し難い父親だ」
「~~~~っ!!」
フレシュの声にならない絶叫が噴き上がるのと同時に。
上空を埋め尽くすほどの無数の魔法陣が展開され、都市全体に差し迫った死活的な危機が告げられた。