39 今まで通りは望めない
「オーム!」
我を忘れ、息せき切って走って来たフレシュ。薄萌葱の髪を振り乱して叫ぶように呼びかけるその前から、金髪の貴族の青年の視線はその少女へ向けられていた。
何故ここにいるのか。この襲撃に関与しているのか。一体何を考えているのか。
有り余る疑問をぶつけようと口を開こうとするが、全力疾走で疲労困憊の身体は一にも二にも酸素を欲し、呼吸に喘ぐ口元から漏れ出た声が意味を成す言葉を形作ることはなかった。
「やあ、フレシュ」
両手を膝に当て呼吸を整えている間に呼びかけに爽やかに応えるオーム。
この状況に似つかわしくない穏やかで軽い口調に、フレシュは反射的にばっと顔を上げる。
どういうつもりなのかと相手の眼を睨みつけようとするが、すぐさま疑念や憤りといった反感は薄れ、口にしようとした言葉は全て喉の奥へと引っ込んでいった。
「聞いてほしいことがあるんだ」
普段と変わらない声とは対照的に、表情の方は今まで目にしたことのないものだった。
微笑。
その薄い笑みは、様々な感情が同居する心を強引に抑え込んだ、脆い仮面のような印象をもたらしていた。
ただフレシュがそう感じ取れたのは、それまで親しく接してきたオームという人物のイメージが確立されていたからであって、特に親しい間柄でもなければそれはただのビジネスライクな表情の一つに過ぎず、その裏に隠された感情の機微まで読み取ることは至難であろう。
恐らくはこれが、ルーパス伯爵家次期当主としてのオームの顔なのだろう。
「僕の力じゃあどうにもならないことなんだけれども――」
――ヒュカッ!
話を続けながらフレシュへ歩み寄ろうとするオームの足元へ、一振りのナイフが鋭く突き立てられた。
石畳の地面に弾かれることなく見事に突き刺さった投擲の妙技。その出どころへと話を遮られたオームが視線を向けるのに続き、フレシュも振り返り同様に視線を送る。
「それ以上、彼女に近づかないでもらえるかしら?」
警告を発しつつ夜闇から姿を見せたのは栗色の髪の女軍人。右手の指と指の間に挟んだナイフをちらつかせ、従わなければ次は当てると牽制する。
「サイリさん!」
サイリ・キトラス。フレシュの警護に派遣されて来た王国軍の大尉だ。
最初にこの場へやって来たのが彼女一人ということは、裏門付近の警備は彼女が一人で賄っていたのだろうか。私兵団長の指示か、それとも彼女自身の希望か。どちらにせよ単独で任されても支障がないほどの実力者ということだろう。
「悪いのだけれど、あまり気安く私の名前を呼んでほしくないの」
空いている左手でふんわりとした髪をかき上げつつフレシュを一瞥するサイリ。
冷たい。
発言内容、声音、視線、態度。フレシュへ向けられたサイリの全ては突き放すように冷淡で酷薄であるとすら形容出来、非常識を通り越して味方の撹乱を狙っているとも捉えられかねない自身の短慮な行動を、フレシュはここに来てようやく自覚する。
「あ、ご、ごめんなさい……」
余計な仕事を追加され気分を害し隔意を抱かれてしまったサイリの言動に萎縮し、口を突いて出たフレシュの詫び言は尻すぼみに小さくなっていく。
身を竦ませる少女から視線を外し、サイリは表情を一瞬険しいものに変える。負感情という点は同じだが、冷淡なそれとは異質の苛立ち。フレシュへ向けられたものではないのだが、それを知る術のない当人は居たたまれず、心苦しさに胸を締めつけられるばかりであった。
「さ、お部屋に戻りますよ」
「ま、待って下さい!」
表情を戻し、淡々と仕事をこなそうとするサイリに不同意の声を上げる。
「あの……彼と少しだけ、話をしたいのです」
現状を無視した手前勝手な要望であることはわかっているが、このまま何もせずに戻ったのでは皆に迷惑をかけてまで部屋を抜け出して来た意味がなくなってしまう。
またそれ以前に冷静さを取り戻した今でも、目の前の青年に相対して逸る気持ちを抑え続けることは困難であった。
「……それ、今の状況を理解した上での発言よね?」
煩わしく億劫であろうフレシュの要求に対し、サイリは冷淡ではあるが意外にも機嫌を損ねた様子は見せず、ただ簡潔に確認の言葉を投げてきた。
「身勝手なことを言っているのはわかっています。けれどその上でお願いします。きっと、この時を逃したら、彼とはもう二度と話が出来ない。……そんな気がするんです」
それまでの衝動的な振る舞いとは打って変わって、神妙な面持ちで凛とした空気を纏ったフレシュがサイリの瞳を真っ直ぐに見つめ、自分の意見をしっかりと主張する。
やっと侯爵家令嬢フレシュ・ベレスフォードとして、王国軍大尉サイリ・キトラスへ接することの出来る精神状態にまで落ち着いてきた。
「……相手は丸腰、害意を見せても対応は……可能ね」
フレシュの頑なな意思表示を受けたサイリはオームへと視線を移し、彼の佇まいを観察した後諦めたように、ふぅ、と一つ息を吐いた。
「仕方ないわね。……手早く済ませてちょうだい」
「ありがとうございます」
無理な願いを聞き入れてくれたサイリに感謝を示し、再びオームへと向き直る。
普段のような余裕があれば、場違いな要求が比較的すんなり通ったことに対して怪訝に思ったのかもしれないが、今フレシュにとって大事なのはオームと話をつけることで、その他の些事に気を割いてはいられなかった。
「オーム……聞いてもいいかしら?」
「何かな?」
「……この事態、オームが関わっていることなの?」
静かに、問いかける。
サイリのおかげで混乱状態から抜け出せはしたが、未だこの事態への覚悟は決まり切っていない。そんなフレシュの心境を吐露するような質問。
どんな答えを期待しているのだろう。
否定してほしいのだろうか? この状況下で? 否定されたとして、それを信じられるのだろうか? 無理だろう、並大抵の理屈では。
それならば、欲しているのは疑う余地すらない完璧な理屈を通した否定か。或いは、一縷の望みに未練がましく縋りつく自分を一刀のもとに斬り捨てる肯定か。
オームが返答を口にする。
「君と、話がしたくてね」
「話なら――」
馬鹿げていた。
どんな答えを期待していたのかわからなかったが、少なくともこんな答えでないことは確かだ。
意図の見えにくい返答に疑問を抱くよりも、信じていたものに裏切られたような失望感が先行し、反射的にフレシュは声を荒らげる。
「話なら、普通にすればいいじゃない! こんな……こんな大変なこと……こんなことしなくたって、今まで通りちゃんと応じるわよ! それなのに、何で……こんな……」
「今まで通りがもう望めないことは、フレシュもわかってるだろう?」
「だからって……他にいくらでもやりようなんてあったはずでしょ! こうまでして私にしたい話って何よ! 何があるのよ!」
今まで通りは望めない。オームとは、もう友人という間柄ではないのだから。それはわかっている。
しかしその答えは、そんな関係性を別にした、オームという一人の人間に今まで抱いていたフレシュの信頼を大きく揺るがした。もう、この金髪の青年が何を考えているのかわからない。
感情のままに激しくまくしたてて問いただすフレシュとは対照的に、落ち着いた声音で青年は答えを返してくる。
「聖王教会」
「……教会?」
「聖王教会に意見を通したいんだ。彼らの横暴を終わらせて、学問も研究も、誰もが自由に取り組むことの出来る世界にするんだ」
「何を言って……そんな、こと……」
耳を疑った。理解を拒んだ。聞き間違いだと思いたかった。
聖王教会の権柄尽くな行いは兄からも聞いてはいた。とはいえ彼らが行使する強権はフレシュの知る限りその学術研究に関する抑圧の一例だけだ。
されどその被害を受ける当事者達にとって、憤懣やるかたない次第であるだろうことは想像に難くない。だが、だからといって。
「そんなことのために、この騒ぎを引き起こしたっていうの!?」
信じられなかった。オームが、あの理知的で良識のあるオームがこの騒ぎを引き起こした理由が、大義に欠けるただの私情であることが。
「君にとっては取るに足らないことなのかもしれない。でも、僕達魔導学者にとっては革新的で、とても意義のあることなんだ」
「わからないわよ! 前に話してくれた時は正面から対立なんてしないって落ち着いて構えてたじゃない! どうして急にこんな、軽はずみな行為に……それにどうして私なの? 私にこの話をして何の意味があるの? こんな話を聞かされても私に出来ることなんて、何も……何も無いのに!」
オームは自分に一体何を期待しているのか。侯爵家の持つ力を動かせるとでも思っているのか。末女の自分が。養女の自分が。
大体この話をするのなら、以前孤児院新設の協力を求めた際に持ち出した方が建設的になった可能性は比較にならないほど高いはず。
だからわからない。彼の行動に合理性が見られない――いや、もうそんな次元じゃない。滅茶苦茶だ。
「そんなことはないよ。フレシュにだって出来ることはある。……いや、違うね。これはそう、フレシュじゃなきゃ出来ないことなんだ」
「……どういう、ことなの?」
「確かに侯爵家の末女フレシュ・ベレスフォードはこの件に関して無力かもしれない。だけど、もう一人の君なら――」
それまでフレシュの激しい感情を物柔らかに受け流してきたオームの瞳に、声に、初めて熱がこもる。
その変化に意識は引き付けられ、彼が何を言いたいのか、何を知っているのかを理解して。
「――フレシュ・アンリなら、きっと教会を動かせる」
フレシュの心臓が、一つ大きく音を立てた。
◇◆◇
王都ロイスコットの夜景は美しく、同時に馴染み深い。
故郷の夜景はどうだろう。最後に眺めたのはいつだったか、気の遠くなるほどの昔だ。もう、思い出すことは出来ない。目の前に広がる景色と同じくらい、馴染んでいたはずなのに。
ただ、極端なほどに明るかったことは憶えている。草木も眠る丑三つ時でさえ、暗闇とは無縁の光に溢れていた故郷。
と、ノスタルジーに浸る意識を、自室の扉を叩く音が現実に引き戻す。
「ジノです」
「入りたまえ」
入室の許可を得、扉を開けたのは切れ長の目をした黒髪の男。魔王シガーに仕える十二人の忠臣の一人――ジノ・フレイザー。
シガーの命によって今はこちらで側仕えとして働いている。本来の主人の元ではないが、当人は一切不満を漏らすことなく奉仕してくれていた。
「レプティ様よりご連絡があり、交易都市エプスノームにて紫竜とマニピュレーターが接触したとのことです」
「そうか、ご苦労」
「対応措置がございましたら承りますが」
「……いや、不要だ」
ナインクラックが八彩竜を利用しようとしたとして、その性格からして紫竜が人間と手を組むことは考えづらい。
また、目下エプスノームにはレプティを始め、多くの傑人が集っている。紫竜が暴れたところで大きな損害には至らないであろう。
「よろしいので?」
何の動きも見せようとしないことに、ジノが念を押してくる。
わかっている。ジノが抱く懸念が紫竜に対してではないことは。
彼が憂慮しているのは、現在、エプスノームに、ナインクラックのマニピュレーターが訪れていること。その一点だ。
「以前にも、言ったはずだ」
こちらを真っ直ぐに見据えるジノから視線を外し、背中を向ける。
彼の心遣いは好ましいが、この件に関しては無用だ。既に腹を固めたことに心変わりなどあってはならない。
「私にはもう、あの子と関わりを持つ資格など、無いのだと」
窓に映った己の緑色の髪を撫でつけて、聖王シモン・アンリは私心を去った。