36 拙速な動向
夜も更け、皆が床に就こうかという一日の終わりを迎える時間。
マーシュは自室で一人、ソファに腰掛けグラスを傾ける。酒は嗜む程度、気分が変わるくらいで具合を見て、酔いが回るほどの量を呷ることはしない。
視線は正面のデスク。多くの魔導学者は職業柄、書類や資料で机は埋もれがちなものだが、几帳面なマーシュのデスクは綺麗に片付けられている。その整頓されたデスクの上、誰もいない空間に向けて話しかける。
「俺は、ルーパス伯の関与には懐疑的だ。ワッツもそう思ったから、兄さんに意見を求めたんじゃないか?」
「そうだろうな。どちらにしろ、報告すべき案件だ」
人影も気配も無く、誰もいないはずの場所から声が返ってくる。
音源は蓋を開いた小箱。シンプルなデザインで模様は無いが、開閉用に側面と上部――蓋につけられた二つの取っ手が、渋く上品な趣を与えていた。
魔導具、魔信対箱。魔力を用いて離れた場所の相手と通信を行う魔導具である。二つ一組で効果を得られ、対となる箱同士のみ通信が可能となる。貴族ならば各戸複数所有が当たり前ではあるが、それなりに高価――というのは魔導具全般に当て嵌まるが――なため、多くの家はマーシュのように個人で所有するまでには至らず、業務用に扱われている。
「そして、この案件は伯爵家によるものではない」
声色は硬く、語調は柔らかい通信相手――ベレスフォード本邸の長兄サイクス・M・ハーシュ・ベレスフォード。
伯爵家に関する知見の深さはマーシュの比ではなく、現状の少ない判断材料で迷うことなく断言してきた。
「言い切るね」
「確信するだけの根拠がある。しかしお前達には明かせない。悪いな」
「明かせない理由は?」
当主である父と家を継ぐ兄は、ベレスフォード家及びその派閥管理に必要な種々の知識を備えている。中には家族にすら明かすことの出来ない秘密だったり、人の道を踏み外したような罪過も少なくない。侯爵家の当主たる者、その程度の清濁併せ呑む器量すら持ち得ないようでは話にならない。
その辺りはマーシュも理解の及ぶところであり、根拠を明かせないことに関して不平不満を漏らすことはない。然してマーシュは兄がどこまでを伝えられるのか、そのラインを探る。
弟のその思いを汲んだのか、理由も教えられないと撥ねつけることはせずに、魔導具の向こうのサイクスは返答にじっくりと言葉を選ぶような間を開けた。
「……色々あるが、多くは均衡を保つためだ」
「それだけじゃあ、わからないな」
「悪いがこれだけで折り合いをつけてくれ。理解されても困るしな。……いや、これだけで理解出来るほどお前が利発なら、家督を譲るに値する。むしろ喜ばしいか」
「いやいや」
事もなげに侯爵家の家督を譲るなどと、騒動に発展しかねないことを口にする。これが冗談に聞こえないから兄は怖い。実際、それがベレスフォード家にとって益をもたらすのであれば、兄は逡巡することもなくあっさりと家督をマーシュに譲るだろう。
俯瞰的で合理的、そして身内のための献身を厭わないサイクスには、欠片ほどの躊躇いもない。単純に現時点においてマーシュはサイクスに及ばず、相応の能力に欠けるというだけだ。
「それとしてだ、ワッツには引き続き尋問を命じてある。事件の全容が明らかになるまで、フレシュを頼んだぞ」
「ああ」
グラスの中身を飲み干し、言葉に力を込めて返事をする。言われるまでもないことだ。妹の、家族の身の安全を確保するために注力することなど。
「何か入用なら言ってくれ。護衛は足りているか? そちらの兵だけで心許ないなら、叔父上を伝って兵を寄こさせるが」
「……ん?」
サイクスの提案にどこか違和感を覚えて会話が止まる。今の発言の中に現状との齟齬を見出し、マーシュは左手で口元から顎にかけてを掴み頭の中を整理する。が、思考を巡らし結論を得る前に、自分の聞き間違いや意味の取り違えがないか、まず兄に確認の言葉を投げた。
「軍からは既に人を派遣してもらっているけど、兄さんの口利きじゃないの?」
「違うぞ。そうか、もう兵を寄こしていたか。叔父上も仕事が早い」
ベレスフォード家のコネクション形成に欠かせない王国軍の要職。将官の地位に就く叔父が侯爵家と軍との繋がりの多くを担っている。
そしてこの事件の報が叔父の耳に入っているのなら、警護に兵を派遣したことも自然な流れではあるのだが。
「でもそれなら――」
叔父から何も報せが無いのはおかしい。兵を派遣するのなら先んじてこちらに連絡を入れるのではないか。
身を乗り出し、そう兄に意見を求めようとしたところで。
「――襲撃です!」
焦眉の急を告げる割れ鐘のような声が邸宅に響き渡り、核心に迫りかけていた兄弟の会話は否応無しに打ち切られた。
◇◆◇
「襲撃者は?」
「正門の方に! 十人ほどらしいが正確な数はまだ不明」
「わざわざ正面から? そいつら囮じゃないのか?」
「言わずとも各員その可能性は考慮しているだろう。かといって正門も無視は出来まい。対応に変わりはない」
夜更けの邸宅内は危急の事態の報を受けにわかに慌ただしさを増し、使用人達が状況の把握と役割分担に急ぎ対応しようと奔走する。
その中にあって、相手側の目的となる対象の専属の従者であり護衛を務めるリチャードは、渦中の人物――フレシュの私室の前に陣取り、気を引き締めて務めを果たすべく意識を研いでいた。
「リチャード、そこに居る? この騒ぎって、そうよね……」
騒ぎに反応した部屋の主から扉越しに声がかかる。扉一枚を隔てくぐもった声には、多少なり自責の念が込められているように感じられた。
「はい、懸念されていた再びの襲撃です。しかしながらご心配には及びません。私兵団の面々が万全の態勢で迎え撃っておりますので」
「そう……迷惑をかけるわね」
襲撃に際し、己の身を危ぶむよりも先に周囲への負担を気に掛けるフレシュ。胆力云々の感想は昼間から抱いていたものだが、それに加えこの状況では過剰とも呼べる彼女の気遣いに、リチャードは寂しさにも似た何とも言い難い感情に駆られていた。
「迷惑だなどと、そのような配慮は無用です。フレシュ様は紛れもなくベレスフォード本家の息女なのですから」
自覚が足りないという話ではない。むしろ貴族社会のいろはもわかっていなかったフレシュが、侯爵家にふさわしい人間となるべく人一倍努力してきたことは、リチャードも良く知っている。
リチャードが憂えたのはそれとは別だ。養子という立場にある彼女は、自らの恵まれすぎた――本人の感懐――環境に気後れする傾向があり、自分が原因となって起こる障害で誰かに迷惑をかけてしまうことを、何よりも忌避していた。
普段の振る舞いや家族、使用人と接する際には遠慮もなく自然体でいられるのだが、何か一つでも問題が起これば必要以上に気を遣ってしまう。そんな距離感をもどかしく感じたサッチェルが「迷惑かけたっていいのよ」と何度となくフレシュに声をかけてきた甲斐もあり、最近はその傾向も鳴りを潜めスラム通いのような我儘まで出るようになってきた。それでも元からの気質はそう簡単に変わるものでもなく、今回の件は大分応えているようだった。
「うん……ありがとう」
弱々しくもしっかりと感情のこもった返事の後、扉の前から彼女の気配が遠ざかるのを感じ取り、リチャードは抱えていた感慨を棚上げして自らの仕事を全うすべく意識を切り替える。
と、使用人の一人がこちらへ近づいて来るのが見える。急いた様子はなく、事態への余裕が感じられるのは望ましい。
「状況は?」
「正門前で交戦中です。戦力差は明白で突破される要素は無いとのこと。公安にも通報済みで現在特に目立った問題はありません。フレシュ様にはご安心下さるようお伝え下さい」
「襲撃者について、何かわかったことは?」
「いえ、まだそこまでの情報は……。後々判明すると思われますので、続報をお待ち下さい」
「そうか、ご苦労」
「では失礼します」
踵を返し離れていく使用人の背中を見送ったリチャードの胸中は、優位な状況への安堵感よりも疑念が先行していた。
正面から攻めてきたことは陽動だろうが、別動隊があったところでこちらにも対応する余裕は充分にある。何ら問題はなく、気になっている点はそこではない。
(相手方は、焦っているのか……?)
襲撃事件を起こしたその日の夜。警戒心が最大限に高まった中での二度目の襲撃。そこまで急ぐ必要があるのかというところだ。
そもそもフレシュを標的にしたこの襲撃自体、何を目的としているのかがわかっていない。
(ルーパス伯爵家の関連は……無いと思いたいが)
尋問官ワッツからは、伯爵家関係者の名前が出たが信憑性は怪しいもの、という旨の報告が上がっている。
仮に彼らがルーパス伯の差し金だとして、動機は説明がつく。フレシュには決して伝えられるものではないが、孤児院の新設が不都合であり邪魔くさい障害となっているのだろう。
だがそれだけでは侯爵令嬢に直接手を出すという、短絡的で拙速な行動を起こすには根拠として弱すぎる。
この事件が公になれば、今まで水面下にあったものまでが表沙汰になり、最悪両派閥の全面戦争にまで発展しかねない。しかも切欠は伯爵家によるものとして。
対外秘を保てると高を括っているとも思えない。尋問官に既に情報を掴まれている体たらくの守秘性で、黒幕まで辿り着かせない自信があるというのであれば、伯爵家は没落も秒読みだ。
どちらにしろリスクが高すぎる。
(やはり、マーシュ様のお考えの方が理に適っているか……)
先刻の事件に関する意見交換の場でリチャードが支持したのはマーシュの主張だ。
派閥の対立を知る人物によってルーパス伯爵家はスケープゴートとして利用されているのではないか、という考えである。
この仮説なら筋は通る。事件の首謀者も目的も何もわからないままではあるが。
(願望も半分、ですね)
マーシュの主張に賛同した裏に、フレシュの心の傷を更に深く抉るような結果にはなってほしくないという思いも影響したことは否定しない。
思考の回廊をぐるぐると廻り続け、幾度も同じ答えに行き着く有意義と呼ぶには程遠い考察に見切りをつけ、リチャードは使用人からの報告内容をフレシュへ伝えようと扉をノックする。
「フレシュ様」
無い頭を捻って無駄に考えを巡らすよりも、彼女を安心させるという意味ではこちらの方が遥かに効果的だ。
いや、そうとも言えないか。身の危険に際して彼女は元々落ち着きすぎなほどに落ち着いていた。戦況の有利を伝えたところで変化は些細なものだろう。
と、考えが一周したところでリチャードは気づく。
(…………?)
返事がない。
そこまで声量を抑えたつもりはなかったのだが、どうやらフレシュは気がつかれなかった様子。
仕方なしにもう一度ノックして呼びかける。
「フレシュ様」
今度は声も大きめ。ノックも差し障りない程度に強めにし、数も増やした。
しかしリチャードの呼びかけの残響の後に返ってくるのは、何の反応も示すことのない静寂ばかり。
間違いなく届いているはずの音量にも関わらず応答の無い主の部屋。怪訝に思い眉を寄せ、その異常性に次第に焦燥の念が膨らんでいく。
「フレシュ様!」
三度目。主に対する無礼を承知で大声で呼びかける。扉を打つ拳はドン、ドン、という品性を欠いた最早ノックとは呼べない音を立て、逸るリチャードの心の内を代弁する。
だがやはりというべきか、主の部屋から返ってくるべき反応は何もない。
扉の奥から滲み出す不吉な色調に胸中を焦りと不安に掻き乱され、リチャードは不作法への一瞬の葛藤に短く呻き、目の前の扉を開け主の部屋へ押し入った。
「失礼します」
ふわり。
夜の外気が肌を撫でる。
冷涼な感触を伴にして瞳に映ったのは、柔らかな風にたなびいて捲れ上がったカーテンの裾。
「しまった……」
自らの救い難い不覚に見下げ果て、怒りすら通り越して脱力する。
そこに在るべき少女の姿はどこにも無く、淡い彼女の残り香が微かに鼻腔をくすぐるのみ。
ただ大きく開け放たれた窓から覗く黒一色の夜の闇が、もぬけの殻となったフレシュの部屋に呆然と一人立ち尽くすリチャードの失態を冷ややかに嘲笑っていた。