35 掌の内と外
「フレシュ、心配したわよ」
「お帰り、フレシュ」
「フレシュ~~! 良かった、ちゃんと帰って来たあ!」
ベレスフォード家エプスノーム別邸玄関ホール。
床は一面大理石の白が照明の光を浴びて光沢を帯び、ウォルナットで統一された家具と扉のダークブラウンとが調和し、美麗で煌びやかにエントランスを彩る。
左手の扉の先は厨房、反対側は食堂、正面奥が大広間となっており、その手前には二階へと続く階段が左右対称に設けられていた。
階段前、襲撃事件から聴取を終えて帰館したフレシュを家族が迎える。皆心配していたようで表情には憂色が強く浮かべられていた。
「姉様、兄様、心配おかけしました。私はこの通り、怪我一つありません。大丈夫ですよ」
青髪でおっとりした長姉、サッチェル・ハーシュ・ベレスフォード、黒髪で物静かな次兄、マーシュ・ハーシュ・ベレスフォード、そして赤髪で感情表現豊かな次姉、マリアン・ハーシュ・ベレスフォード。更には側に控える使用人達。家族皆に両手を広げて笑いかけ、フレシュは自身の無事をアピールする。
妹の元気な姿を直に確認出来て、サッチェルは小さく、ほぅ、と安堵の息を吐き、マーシュは微笑んで頷き、マリアンは一目散に飛びついて来た。
「怪我が無かったのは不幸中の幸い……じゃないな。リチャードの手柄だ。よくやってくれた」
マリアンの喜びのハグにフレシュが「ちょっと、マリアン姉様!」と戸惑ういつもの光景を横目に、マーシュがフレシュの隣に控えていたリチャードに言及する。
「いえ、勿体ないお言葉です」
「今回に限っては誇張なくお前のおかげだ。最善を尽くし仕事を全うしてくれたことは、しっかりと労わせてくれ」
頭を垂れて慎みを示すリチャードの肩をポンと叩き、マーシュは彼の功績を賞する。が、その評価は過ぎるものとリチャードはかぶりを振った。
「ありがとうございます。ですが、あの襲撃を無傷で切り抜けることは、私一人の力では及ばぬところでした」
「救援があったことは聞いています。そちらの方でしょうか?」
サッチェルがこの場にいるもう一人の人物へと顔を向けるが、リチャードは瞑目して一度首を振り、彼女の予想を否定する。
「いえ、救援いただいたお二方には感謝を伝えはしましたが、御礼はこの件が片付いた後の方がよろしいかと思い、本日のところはお帰りいただきました」
リチャードの説明を受けサッチェルは「そうですね。適切な判断です」とその考えを首肯した。
フレシュの護衛をしてくれていた妖精フェアはもうシンの元へ帰った後だ。彼女自身はまだ護衛していても問題ないとのことだったが、甘えてばかりもいられない――というのは建前で、やはり異変の術者と積極的に関わることは、リチャードは気後れした。それに加えて。
「こちらは王国軍のサイリ・キトラス大尉。再度の襲撃の不安に備え、しばらく警護に当たって下さるとのことです」
この軍人が「警護は私が行うから」と、フェアを追い払った――という表現は過剰だが、彼女の態度が決定打となったのは間違いない。この時は好都合だったが、得てしてプライドの高い人物は扱いが難しい。面倒なことにならなければいいが。
「サイリ・キトラス大尉です。事件収束までフレシュ嬢の警護の任に就きます」
「まあ、あなたが。そうですか、よろしくお願いします」
紹介を受け敬礼し、初対面の挨拶を済ませるサイリに、サッチェルは手の平を頬に当て物柔らかに応対する。
一家を代表して挨拶を交わしたサッチェルに続いて、今度はマーシュが前に出て目礼した後、使用人に目配せして指示を出す。
「この方を客間へ案内して差しあげろ。では後程、事件の情報共有、警護の役割等について話し合うため、私兵団の者を伺わせます」
◇◆◇
「しばらくフレシュには外出を控えてもらうしかないわね。窮屈な思いをさせてしまうけれど」
邸宅の二階、ベレスフォード家長女サッチェルの私室。部屋の主の淑女が憂いの混じった声音で目の前の家族に話しかける。
「仕方ないさ。残念に思っているのは俺も同じだよ、姉さん」
「そう……そうよね。皆、同じよね」
孤児院新設という目標に向けて、精力的に活動を始めていた妹へ水を差すことになり、成り行きを見守っていたサッチェルはマーシュの言葉に目を伏せる。
明確な目標を掲げ、あんなにも頑張ろうとしていたフレシュだ。一番歯痒い思いをしているのは彼女自身だろう。
「まあ、マリアンが普段により輪をかけて絡みに行ってるみたいだから、退屈はしないだろうよ」
「あの子は本当にフレシュのことが、可愛くて仕方ないのね」
マリアンとフレシュ、二人の妹を微笑ましく思い、口元が綻ぶ。
フレシュを養子として迎え入れるまで、マリアンはベレスフォード家の末っ子として過ごして来た。兄、姉という立場にずっと憧れていたマリアンに初めて出来た妹。自分が姉となったその時の彼女のはしゃぐ姿を、サッチェルは今も鮮明に覚えている。
「……それで、ワッツからは?」
「ん……情報は出たみたいだよ。まだ裏が取れていないという注釈がつくけれど」
「あら、あなたらしくないわね。話を勿体ぶるなんて」
基本的にマーシュは口数の少ない人物だ。不要な口を開くことをあまり良しとしないその性質のせいで、家族の中でフレシュが最後まで距離感を掴めずにいた――マリアンのおかげで解消されたことも懐かしい思い出だ。
そんな弟が返答に前置きを入れる違和に少なからず不穏な気配を感じ、サッチェルは普段の安楽な心模様を映し出すその面持ちから、僅かではあるが緊張を孕んだ強張りを見せた。
サッチェルに見透かされ、マーシュは小さく息を吐いて苦笑いを浮かべる――「敵わないな、姉さんには」。
「出てきた名前はルーパス伯爵家の関係者だったよ。……ユーゴ・ブリッジマン」
「そう……」
侯爵家と対立するルーパス伯爵家が関わっていることは、容易に想像出来たことだ。が、それは望んでいた事実ではない。希望と予想は符合しない。
「このこと、フレシュに伝えるのは、気が重いな……」
「まだ確認は取れていないのでしょう? それにあの子には不用意に感情を乱すような情報を与えるべきじゃないわ。事実としっかり判明したその時には……私から伝えるから」
フレシュがルーパス伯爵家の長子オームと袂別したのはついこの前。孤児院新設の協力を持ち掛け、断られた際だ。そんな折の襲撃。裏にはルーパス伯関係者の影。
それら現在ある手掛かりを辿っていくと、オームがフレシュ襲撃を指示したという結論に至ってしまう。先日までフレシュの友達だったオームが。それは、あんまりではないか。
(私の、せいね……)
――その日、フレシュは満面の笑顔で「友達が出来たの!」と、矢継ぎ早に喋り立ててきた。まだ引き取られて間もないころ、家族以外に心を開ける相手のいなかった時期だ。妹の嬉しそうな姿に、サッチェルは家同士の対立の事実を、どうしても明かすことが出来なかった。
本来あるべきでない関係を築かせてしまったツケが今、重くのしかかってきている。
「姉さんが責任を感じることじゃないよ」
「……え?」
声に、知らず俯いていた顔を上げる。瞳に映した弟の眼差しは、呆れているようでもあり、同時に申し訳なさそうでもあった。
「どうせ、事実を伏せていた自分のせいだって思ってるんでしょ? それは違うよ。俺も、マリアンも、三人で話し合った上で決めたんだから、一緒だ」
「マーシュ……」
一人で責任を背負い込もうとする姿勢を諫めるマーシュの言葉に、サッチェルは自然と表情が緩んでいく。いつからだろう、自分の弟がこんなにも頼りになる存在になっていたのは。
「それに、どこか今一つ腑に落ちない」
「何が?」
「この事件、ルーパス伯が関係しているのなら、やり方がどうにもおかしい」
疑念を口にして眉を寄せるマーシュ。
事件の黒幕が伯爵家だとして、白昼の東居住区で襲撃事件など起こすだろうか? と。確かに彼らなら、その条件で事件を起こせば実行犯の捕縛は免れないこともよくわかっているはずだ。
「俺にはまるで、首謀者が実行犯から好きなだけ情報を搾り取ってくれと言っているように思えてならない」
眼差しを僅かに鋭くし、マーシュは部屋の窓から外を眺める。
太陽は西へ大きく傾き、東の空から都市を覆いつくす広大な夜の闇が迫って来ていた。
◇◆◇
ベレスフォード別邸裏門前。
邸宅の警護の任を務める黒緑の軍服に袖を通した女が一人。
サイリ・キトラスは、黒に染まりきる前、まだ陽の光の名残を留める濃藍の空の下、招かれざる客の気配を鋭く察して視線を飛ばす。
「何しに来たのよ」
「何しにはねえだろ。俺の手土産をしっかり活用してるくせによ」
薄闇からのっそりと姿を現したのは、紅紫の髪に不快なにやけ面を伴った男。人の姿をしてはいるが、その正体は神話に描かれる恐怖の象徴、八彩竜の一、紫竜。
デューク・マゼンタを名乗るこの竜の言い分に嘘はなく、その事実を恩着せがましく主張する様を疎ましく感じ、サイリは相手に聞こえるようこれ見よがしに舌打ちする。
「交換条件なら満たしたわ」
異変の術者に突っかける。
これがデュークがサイリと交わした手土産を渡す条件だ。
本意でない形ではあったが、結果的に異変の術者、シン・グラリットに突っかけたことに違いはない。あれは予期せぬ一石二鳥だった。会敵直後に無力化され、紫竜の望んだ成果を得られなかったことは疑うべくもないが、条件は『突っかける』ことであって、それに伴う作用にまで責任を負いはしない。
サイリの中ではそう完結している。だが、相手側がそう都合良く捉えてくれるかどうかはまた別だ。そして案の定、デュークはその点をついて来た。
「術者の男は魔法陣出してねえじゃねえか」
「知らないわよ。条件は突っかけることでしょ? 私は、条件を満たしたわ」
約束は守ったと強調して繰り返す。
サイリはそれで押し通すほかない。もう一度突っかけたところで結果は同じだろう。しかし正直この男がそれで納得するとは思えない。現場に居合わせたわけでもないので、サイリの言を疑うかもしれないし、最悪、機嫌を損ねたその手に掛けられないとも限らない。
あまり考えたくはないが危機的な状況に陥った時のため、切り札は用意してある。極力この場で切りたくはないカードだが。
「けっ、その一点張りかよ。……まあ仕方ねえか、いっぺん突っかけてダメだったら、何回やってもダメだろうしな……派手好きってわけじゃなかったのか、あいつ」
予想外の返答にサイリは目を丸くして挙動を止める。これまでの印象から、この男がこんなに物分かりがいいとは全く思っていなかった。
そんなサイリの反応に「じゃあ何であん時はあんな大層なことやらかしたんだ?」と、ブツブツと独り言を続けていたデュークが気付き、片眉を上げて疑問符を浮かべる。
「何だよ?」
「意外……もっとごねると思ってたわ」
懸念が杞憂で済んだことに安堵よりも拍子抜けの感が先行し呆けるサイリに、デュークが鼻を鳴らして小馬鹿にした視線を送る。
「お前にゃ荷が重いみてえだからな。出来もしねえことを強要するような無能じゃねえんだよ、俺は」
デュークの挑発的な態度にカチンとくるが、サイリには荷が勝ちすぎることも事実である。今手元にあるサイリの手駒で異変の術者をどうこうすることなど、土台無理な話だ。
彼が最初何を思って異変を起こしたのかは知る由もないが、今はもうその気がないのだとしたら、サイリにはどうにも出来ない。
「……どうするつもりよ」
苛立ちを宿した瞳で睨みつける。
確かに自分では力不足だが、それならこの竜ならどうにか出来るのかと。サイリにはわからないが。
「まあ、奴にその気がねえみてえだからな。仕方ねえよな、仕方ねえ」
ぞくり、と悪寒が走る。
それは、言葉だけを捉えればサイリへの返答に聞こえなくもないが、明らかにそれと違うと言えた。
デュークの紅紫の双眸は既にサイリを映してはいなかった。
虚空を見つめる紫竜の瞳は破裂寸前の狂気と悪意を内包したような危うさを秘め、おのずとその身からおぞましく不気味な気配を漂わせ、王国屈指の精鋭であるサイリの心胆を寒からしめていた。
「仕方ねえから俺自身の手で、祭りの花火を上げてやるよ」
紅紫の凶竜。
非道、残酷、凄惨な所業を度重ね、人々から恐怖され厭憎され忌避され続け、いつしか存在そのものが災厄とされた狂悖暴戻の異名。
その呪わしい二つ名を体現するかの如く、甚だしく嫌忌の念を抱かせる宣言を発した紫竜デューク・マゼンタは、己の引き起こす惨憺たる光景を脳裏に思い描き、喜悦と恍惚に口元を大きく歪めて醜悪に嗤った。