28 最後の閑談
エプスノーム東居住区に設けられた公共の空間、ユーウェル広場。
正方形の広場には四隅に大きな柱が建てられ、柱の頂上にはそれぞれ似たような彫刻が施されている。中央には円状に芝が張られ、更にその中心に広場のシンボルである時計台が空高くそびえ立ち、存在感を示していた。
富裕層の憩いの場として親しまれるこの広場は、聖王教会のフラスキン神殿前ということもあり、多くの教徒が足しげく礼拝に通う姿が見られた。
「論文仕上がったんだってね、マーシュ兄様から聞いたよ」
「査読に通らないと大した意味はないよ。でもまあ、一区切りはついた感じかな」
フレシュは広場の片隅のベンチに腰掛け、約束通りの時間に落ち合ったオームと取りとめのない雑談を交わしていた。
本来は孤児院新設の協力を求めるために取りつけた約束だったが、昨日の姉達との話でその予定は変更を余儀なくされていた。
またその原因となった貴族の家同士の対立という案件も、わざわざ自分から切り出して友人関係に溝を作ることもないと避け、実のところ雑談以外にすることがないというのが現状だった。
「そういえば、オームってどんな研究してるの? 私、魔導学ってことだけしか知らないんだけど」
「珍しいね、フレシュが僕の研究について聞いてくるなんて。まるっきり興味無いと思ってたけど」
予想外だったのだろう。フレシュの質問に一驚したオームの端正な顔は、ちょっとばかり間の抜けた感じに見えた。
雑談を続けるためだけの話題提供に図星を突かれた格好となったフレシュは思わず目を逸らし、焦って早口になった声が上ずる。
「わ、私だってたまには学問に関心持ったりもするわよ」
「へえ、どんな風の吹きまわしなのかな? 明日は雨だろうなー」
「ちょっとそれひどくない? 私を何だと思ってるのよ」
「ははは、ゴメンゴメン」
あまりにもあんまりなオームの認識に、流石に腹に据えかねるものを感じて口を尖らせるフレシュ。
手を振り笑って誤魔化すオームは、どことなく嬉しそうな雰囲気だった。
「僕の研究は魔導具の消費魔力の効率化について。本当はもっと魔法の根源に迫るような研究をしてみたいんだけどね」
「出来ないの?」
「僕みたいな経験の浅い若造に基礎研究の許可は下りないよ。実用性が最優先。勿論、それも大事なことだっていうのはわかってるんだけどね」
自嘲的であると同時に残念そうでもある苦笑いを浮かべるオーム。
有力貴族の子息であるオームならば、一声でそんな許可などなんとでも出来るだろうが、それをしないところにオームという人間がよく表れていた。
「基礎研究の許可は教授かそれに準ずる役職にならないと与えられないんだ。それには博士号の取得や、大きな研究成果を複数回上げる必要もあるし、まだまだ先は遠いよ」
「そっか、大変なんだね」
(それにオームは跡継ぎだしね……)
ルーパス伯爵家の次期当主、オーム・グローヴナー・ベルグレイヴ。金髪碧眼で絵に描いたような貴族らしい貴族の青年。
遠からず当主として領内外の状態も把握しなければならなくなる立場の人間だ。自分の研究ばかりに時間を割くわけにもいかないだろう。
面倒な仕事は全て得意とする者に任せ、自分は好きな仕事だけをするという貴族も多くいるが。
「こればかりはずっと昔からの決まりごとだからね。今まで何回か変革の動きもあったんだけど、その度に聖王教会から学術協会に圧力がかかったらしいんだ。それが本当だとしたら……嘆かわしいことだよ」
「あーそのこと、確かマーシュ兄様もぼやいてたわ。『教会が学術研究の分野に口出ししてくるな!』ってね」
物静かな兄の語気が珍しく荒かったことを思い出す。余程不満に感じていたのだろう。
「その思いは僕にだってないことはないさ。本来なら異議を申し立てたいところだけど、聖王教会と正面から対立するのは得策じゃないからね。難しいところだよ」
掌を上に向け、小さく嘆息するオーム。瞳には諦観の色が混ざっている。
聖王教会はブライトリス王国のみならず、周辺国家にも多くの教徒を抱える国家の枠を越えた一大勢力だ。
真っ向から対立するには国家レベルの財力、権力、軍事力が必要で、派閥を持った大貴族といえど軽々しく事を構えていい相手ではない。
ましてルーパス伯はベレスフォード候と現在進行形で対立関係にある。これ以上余計な火種を抱え込む余裕など、あったとしても歓迎すべきではない。
「もし許可がもらえたら、どんな研究をしてみたい?」
「そうだね……魔力が術者の意思を経て、魔法としての効果を発動させるまでに至るプロセスの解明とか、あとは王都のカーター博士の研究に付随するところなんかも魅力的だね」
「カーター博士っていうのは? 有名な人なの?」
「六年前、平民出ながら弱冠二十二歳で教授に選定された天才魔導学者さ。彼がもし貴族の出身だったなら、十代半ばで教授の座に就いたとも言われてる。その研究内容は世界中の学者や研究者達から注目の的になっているんだ」
フレシュの質問に答えるオームの口調が若干熱を帯びる。
今までフレシュとの間で話題に上がることのなかった専門の領域ということもあるのだろう、オームは逸る気持ちを抑えようと努めているようにも見えた。
「へえ、凄い人がいるんだね。その人はどんな研究しているの? もしかしてオームはその人を目標にしていたりする?」
「ぐいぐい来るね。フレシュ、本当に今日はどうしたの?」
「何よ、そんなにおかしい?」
「いやだって今までフレシュが僕の研究に関心を寄せることなんて、一度たりともなかったからさ。今日僕を呼び出したのってこの話をするためじゃないよね?」
ドキリ、と心臓が一つ大きな音を立てる。
動揺が表情から漏れ、矢庭に額には汗が滲み出す。
「聞いてるよ。何か大きなことをしようと協力者を集めているんだってね。そのことでしょ?」
明確ではないがフレシュの行動は既にオームに伝わっていた。
自分から切り出すつもりはなかったが相手から話を振られたなら仕方ない。忠告をくれたマリアンとリチャードに心で詫びて、フレシュは話を始める。
「えっとね……孤児院をね、新設したいの。南西居住区には今もたくさん……そう、たくさんの子供達が、辛い日々を送っているの。私はそれを放ってなんておけないから」
胸に手を当て、一言一言をゆっくりと、感情をこめてフレシュは言葉に紡いでいく。自分の想いがしっかり相手に伝わるようにと。
「孤児院か……。真面目で優しいフレシュらしい考えだね」
「手伝って……くれるかな?」
遠慮がちにオームの顔を窺い同意を求めるが、フレシュは既にその是非を感じ取っていた。
オームの瞳に溶け込んだ申し訳なさそうな色合いから。
「新しく孤児院を建てれば多くの子供達に居場所が出来る。良いことだと思うよ。……だけどごめん、僕にはそれを手伝うことは出来ない」
不承知となることを詫び頭を下げるオーム。
その惜しむような声音から、謝絶は彼の本意ではないことも読み取れて、フレシュは悟る。
(ああ、やっぱりオームは知っていたんだね)
オーム本人にとってフレシュに協力することはやぶさかではないのだろう。しかしオームはフレシュの申し出を断った。そこにオームの意思は介在しない。
ならばそれは、ルーパス伯爵家の人間として、受容出来ないということなのだろう。
つまり、オームはルーパス伯とベレスフォード候の対立を知っていながら、今までフレシュと接していたというわけだ。
当たり前だ。オームは家の跡取りだ。そんな重要なことを知らないわけがない。
わかっていた。姉達の話を聞いた時から。
だけど、それでも。
(嘘であってほしかったなぁ……)
目を背けていたというわけではないが、否応なく現実と向き合わされオームとの友人関係に決定的な隔たりが入ったことを感じて、フレシュはただ寂しく微笑むことしか出来なかった。
「そっか……残念。無理言ってごめんね」
そんなフレシュの様子に疑問を持ったのだろう。オームは片眉を上げて問う。
「理由を、聞かないのかい?」
「え……? うん、無理強いはしたくないしね」
「ええ? 随分あっさりと引き下がるんだね。いつもならもっと食い下がるのに……。何か、今日のフレシュは、そう……」
オームはフレシュの対応に驚き戸惑い目を白黒させる。
オームにとってフレシュという少女は、頼みごとを断られたら真っ先にその理由を聞き出して、問題となることを解決した上で改めてもう一度同様の頼みごとをするという、そんな行動力に溢れる女の子という認識だ。
一度拒否した程度で諦めるはずがないのだ。普段の彼女であれば。
「……らしく、ないよ」
気遣うように、案じるように、オームはいつもとはまるで別人のようなフレシュを見つめる。
「そう、かな……?」
フレシュはオームと視線を交わすことが出来ず、ぐっと拳を握って目を伏せる。
今の自分がらしくないことは、自身が一番よくわかっていた。
「そうだよ。いつもなら頼みごとなんてあれば最初にその話をするのに、それとは関係ない話ばかりで僕が切り出すまで触れてこないし、一体、どう……して…………ああ……」
フレシュの態度が理解出来ないというオームの様子が、言葉を続けると共に次第に変化していく。
無意識に体に入っていた力がゆっくりと抜けていき、それとは対照的に目は徐々に見開かれ紺碧の瞳が絞られる。
「……そうか……知っちゃったのか、フレシュ……」
力なく、寂しげな声。
きっと今のオームは自分と同じ気持ちなのだろうとフレシュは皮肉に感じ取り、瞳に哀愁を宿して小さく「……うん」と頷く。
「そうか……いつかこの日が来ることはわかっていたけど……」
静かにベンチから腰を上げ、オームは空を見上げ一度深呼吸する。そしてゆっくりと数歩ばかり足を動かして振り返った。
「やっぱり、残念だよ」
「……うん」
気落ちして儚げな表情を見せるオーム。
心情を同じくするフレシュは、相槌を打つことしか出来ずに唇を噛む。
「怒ってないんだね、僕が黙っていたこと」
「怒るわけないじゃない。話せば……こうなっちゃうんだから……」
「そうだね……」
暫しの沈黙。
脳裏をよぎるのは友達として過ごした思い出の数々。
笑いあった。喧嘩もした。喜びを分かち合った。悲しみを共有もした。そして……知りたくないことを知った。
互いに望んでいないが、避けることの出来ない現実を見つめ、受け入れる。
どうにもならない寂寥感に囚われ、フレシュが何も言葉にすることが出来ずにいる中、オームが再び口を開く。
「これは信じてもらえなくても構わないけれど、僕がフレシュと友達になったことには、特に裏があったわけじゃないんだ。家とか、派閥とか、そんなしがらみ抜きに、ただ普通に……」
「信じるわよ。そんなこと……信じるに決まってるじゃない。……信じたいもの」
人は信じたいものを信じるという、どこかで聞いた話を身をもって体験する。相違ない。
これに抗えるのは余程の精神力を備えた者か、自分を客観視出来るような者くらいだろう。フレシュはそのどちらでもない。
「あはは、ダメだよフレシュ。そんな簡単に敵方の話を信用したら」
感傷的な雰囲気を軽口で払おうとするオーム。
そんなオームの口から出た一つの単語にフレシュは気を取られ、我知らず反芻する。
「敵……」
オーム自身、意識して発したものではなかった。
自然と口をついて出たそれは、オームが自分の境遇を認識し、受け入れ、しかと心得ていることの証明だった。
ぽつりと呟かれたフレシュの言葉に、オームは空気を変えることを諦めて瞑目する。
「そうだね。僕はオーム・グローヴナー・ベルグレイヴ。ルーパス伯ベルグレイヴ家の後継。フレシュとは対立する派閥の中心となる家に身を置く者同士。これ以上無いほど明確な敵だね」
声に出して確認する二人の立場と現状。
オームの声が低く変化し、口調は僅かに重くなる。表情は引き締められたものとなり、意を決したことを窺わせた。
「だけど、今までフレシュと過ごして来た時間は楽しかったよ。……本当に、楽しかった」
「うん、私も……楽しかった」
フレシュも立ち上がり、オームと視線の高さを合わせ見つめ合う。
友達として過ごす時間が終わりに近づく。
友達として交わす言葉が終わりに近づく。
「ありがとう、フレシュ」
感謝の言葉。
それは今までの相手への想いを集約させた、濃密で深遠な一言。
フレシュとは対照的に、声に、瞳に、迷いを見せないオーム。事情を察したのがつい今しがただということを感じさせる気配もない。
フレシュは思う。
きっとオームはこの日に備えてずっと前から覚悟をしていたのだろうと。
――この、最後の言葉を紡ぐために。
「さよなら」
別れの言葉を残して背を向け、金髪の青年はフレシュの前から去って行った。
フレシュは彼の姿が見えなくなった後も、感傷に浸り胸元のペンダントを握りしめその場でしばらく立ち尽くす。
広場を吹き抜ける風が、今は心なしか冷たく感じられた。