27 貴族間の関係
「これで三人目、と。うん、順調ね」
ベレスフォード侯爵家エプスノーム別邸の一室。
フレシュ・アンリ・ベレスフォードは日々の生活を過ごしている私室のデスクにつき、指を絡めた両手を大きく前に伸ばし満足げに頷いた。
ベレスフォード侯爵領はエプスノーム地方から西方一帯を占め、本邸は港湾都市ファーストマーケットへと続く街道の袂に構えられており、当主と夫人、そして長男は普段はその本邸で暮らしている。
このエプスノーム別邸ではフレシュの兄が一人、姉が二人のほか、多数の使用人が寝食を共にしている。
「首尾はよろしいようで、何よりです」
「リチャードが手伝ってくれてるおかげよ。ありがとう」
フレシュは座ったまま上半身を振り返らせて上機嫌に専属の侍従、リチャード・バレットへにっこりと笑顔を向ける。
「フレシュ様の行動力あってのことです。度々驚嘆の思いに駆られますよ」
「大げさねえ。そんな大したことしてないわよ、私」
リチャードからの耳障りのいい誉め言葉を苦笑して受け流す。
目標を定めてから五日。フレシュは新たな孤児院の設立を目指し、行動を始めていた。
まず始めたのは協力者を募ることだ。孤児院設立という一大事業をフレシュとリチャードの二人だけで行うことなど到底不可能であり、協力者は欠かすことの出来ない存在だ。
当主であるベレスフォード侯爵ならば孤児院一つなど何の支障もなく建ててしまえるだろうが、これはフレシュが自ら取り組んだ課題であり、たとえ家族であろうと一人の権力者に甘えることは許されない。
「次はどうなされるおつもりで?」
「そうね、次はオームにも協力を仰いでみるわ」
オームという名前を聞いて、リチャードはピクリと表情を動かした。
「オーム、と言われると、ルーパス伯ベルグレイヴ家の?」
「そうよ。私と仲良いの知ってるでしょ?」
どうということもなくさらっと答えるフレシュにリチャードは僅かに顔を顰め、その目に消極的な光を宿す。
「それは、私は賛同しかねます」
「? どうして?」
フレシュの無垢な疑問にリチャードは少し考えを巡らす。なぜ、何を考えているのかフレシュには見当もつかなかったが、その上で発されたのはあまりにも粗雑な出まかせだった。
「……オーム様は今ご病気を患って療養中と――」
「もう連絡を取って明日会う約束を取りつけてるんだけど?」
「いつの間に! ……あ、いえ、私の勘違いでした」
「勘違いぃ?」
矛盾点を鋭く打ち返されリチャードは焦りの色を隠そうとするが、ひきつらせた表情をすぐに戻すことは難しいようだ。
即刻発言を撤回する怪しさ満点のリチャードにフレシュは怪訝な視線を送る。どうしてそんなすぐわかる嘘をついたのだろうと。
「えー……確かご自身の研究が行き詰まっておられる様子で、当面はご迷惑になられるでしょう。明日の予定は取りやめた方がよろしいかと――」
「この間論文が仕上がって今査読待ちだっていうのをマーシュ兄様から聞いてるんだけど……。というか、あなたちょっと言動がおかしいわよ?」
魔導学者の兄は同業のオームの研究に関心を寄せていたこともあり、彼の研究に関連する情報も閲覧していた。
話が二転三転し語るに落ちるリチャードに、フレシュは不審を口にして下から顔を覗き込む。
「何か隠してるんでしょう、リチャード」
「…………」
フレシュの追及にリチャードは左手を顔に伸ばし下半分を掴むように覆う。視線はフレシュから外れ、後方斜め下で静止。
何事かを真剣に考え込んだ後ゆっくりと顔から手を放し、しっかりとこれから話す内容を吟味するように口を開く。
「仕方ありませんね、お話しするしかなさそうです」
「……何を?」
いつになく神妙なリチャード。その様子を見て、フレシュはこれからされる話に対し、心の準備をする。
「実は、ベレスフォード侯爵家とルーパス伯爵家は、対立関係にあるのです」
「え……?」
しかし予期していたところとは全く違うベクトルの情報に意表を突かれ、目をしばたたかせて声を呑む。
「普段から表立って対立しているわけではありませんが、それぞれが派閥を持ち、軍事や行政の主導権や都市の権益などを巡って日々水面下でのせめぎ合いが続けられています」
「嘘……それが本当なら私が何も知らないのっておかしいでしょ」
フレシュが予想して覚悟していたのは自分自身に関することだった。心当たりもある。周知でもある。
しかしそうではなかったことへの安堵は、家同士の対立という自分の手に余る大きな問題に上書きされ霧散してしまっていた。
「皆知っていたの? この家にいる皆。兄様も、姉様達も」
「はい、この家に暮らす者全てが知るところです」
「じゃあどうして私だけ!」
自分だけ知らされていなかったという疎外感に焦燥し、フレシュは椅子を蹴って立ち上がりリチャードに詰め寄って問いただす。
「それはフレシュ様とオーム様の友好関係を、皆が知っているからです」
優しい口調だった。気を揉むフレシュを安心させるようなリチャードの微笑みに、フレシュは理解が追いつかず問うことしか出来ない。
「……どういうことなの?」
「最初はサッチェル様でした。お二人の友好関係を知ったサッチェル様は、家同士の対立をフレシュ様が知ってしまわれた時にその関係が崩れてしまうことを憂い、マーシュ様、マリアン様と話し合われた結果、フレシュ様にはそのことを伏せておくようにと皆に呼びかけられたのです」
「サッチェル姉様が……?」
「はい、フレシュ様にいらぬ気苦労を背負わせまいとお考えになられたのでしょうね」
「そうだったの……」
自分の知らないところでそんな姉達の気遣いがあったということに心が温められ、フレシュは足の力を抜いてとすんと椅子に腰を落とした。
自分は本当に恵まれている。
「まあ、お二人の関係を下地に、ルーパス伯爵家との争いを有利に運ぼうという政略的な思惑も多分にありましたがね」
「台無しよ! 私の感動を返して!」
ほっこりする家族愛からドロドロした貴族間の謀略へと蹴り転がされ、詐欺にあった気分のフレシュは大きく口を開けて抗議する。
「何よー、リチャード、話しちゃったのー?」
ひょっこりと会話に加わって来たのは真っ赤なショートヘアの女。貴族らしからぬ軽装で装飾品も身に着けてはいないが、それが自然体のいつも明るくさっぱりとしたフレシュの姉。
「マリアン姉様! もう、またノックもせずに」
「むくれ顔のフレシュもかわいー! さっすがあたしの天使!」
ベレスフォード家の次女、マリアン・ハーシュ・ベレスフォードはフレシュの不平を調子よく笑ってかわし陽気に戯れる。
「またそうやって茶化す……。そのうち本気で怒るからね!」
フレシュはそんな姉に諦め半分に文句を飛ばす。似たようなやり取りを何度も繰り返しているこの姉に反省など期待出来ないし、してもいない。
実際この抗議も口だけのもので、心の内では姉にはこのまま変わってほしくはないと思っていた。……ノック無しで部屋に入って来られるのは正直とても困るが。
「独断での勝手な行い、マリアン様方のフレシュ様への思いやりを無にしてしまい、このリチャード申し開きのしようもございません」
「あーいいわよ、頭上げなさい。どっちみちそろそろ頃合いだったかもしれないし」
深々と頭を下げて謝罪するリチャードへ煩わしげに手を振って、マリアンは気にする必要はないと態度に示す。
「そ・れ・でー、二人は私達に内緒で何をしてたのかなー?」
「別に内緒にしてたわけじゃないんだけど」
秘密のいたずら現場を見つけた子供のような悪い笑みを浮かべて、フレシュに体を寄せるマリアン。顔が近い。
吐息がかかるほど接近され、フレシュは顔を引きつらせて背中を後ろに引く。
「孤児院新設のために協力者を集めてたの。南西居住区にはまだまだ施設に入れない子供達がたくさんいるから」
「ふーん、孤児院……そんなことしてたんだ。やっぱりフレシュは心の根っこから天使ね。でも何で一番にあたしを頼ってくれないのよー! お姉ちゃん寂しい」
距離を置こうとするフレシュに構うことなく再び体を寄せ、腕を背中へ回しハグして耳元で悲しみを訴えるマリアン。今度は逃げられない。
「わかった、わかったから離れて!」
「もー、フレシュのいけず!」
じゃれつくマリアンを何とか体から引きはがす。名残惜しそうに右腕で自分の身体を抱きしめ、左手は口元へ持っていき指を咥えて頬を膨らませる赤毛の姉。
普段からこの姉は積極的にスキンシップを図ってくる。すこぶる距離感が近い。愛情表現の一つだと理解は出来ていても、こうまで大胆だと流石に拒否の反応が自然と出てしまう。嫌ではないのだが。
「姉様達を頼らなかったのは、壁にぶつかるまでは自分の力で取り組むべきだって考えたからよ。別にマリアン姉様のことを使えないとか役立たずだとかなんて、これっぽっちも全然思ってないわよ」
「……うん、フレシュはたぶん悪気無く本心でそう言ってくれてるんだろうけど、そういう言い方されるとお姉ちゃんとってもへこむからやめてほしいなー」
「? どうして?」
生気のない声音でフレシュに今後の言動の修正を求めるマリアン。目が死んでいる。
姉がなぜこんな要求をしてくるのか理解出来ずに、フレシュは首を傾げて問いかけるが、姉から返ってきたのは「あはは……」という乾いた苦笑いだけだった。
「それでさっきの話からすると、協力を求める人の中にオームが含まれるわけね」
話題の転換と同時にさっきまでの軽い態度を一変させ、マリアンは珍しく真剣な目でフレシュを見つめる。それだけ大事な話なのだろう。
「うん……マリアン姉様も、やめた方がいいと思う?」
「あたしはルーパス伯爵家との対立に深く関わってないからそれほど詳しくないけど、まあ当然接触は避けた方がリスクは低いでしょうね」
マリアンは腕を組み天井を見上げて、「うーん」と少ない知識で説明出来るよう言葉を探す。が、半ばで諦めの表情に変わった。
「孤児院の新設でルーパス伯の利権が一部脅かされるようなら、何らかの対抗措置も取って来るでしょうし。ここら辺はパパやサイクス兄に聞ければ一番なんだけど……お姉とマーシュ兄でも代わりにはなるかな。あたしはダメね。リチャードもフレシュ専属だし、知ってることはあたしと大して変わらないんじゃない?」
「そうですね。私が言えることは、オーム様に協力を仰ぐことは、フレシュ様にとってもオーム様にとっても、良い結果を望むのは難しいだろうということだけです」
「そう……」
二人からの否定的な意見に目を伏せるフレシュ。
いつかは知ることになる事実。マリアンの頃合いかもしれないという言葉。ふつふつとその実感が湧いてくる。
「フレシュ……」
そんなフレシュの様子に、マリアンとリチャードは瞳に物憂げな色を湛え顔を見合わせる。
フレシュはオームから孤児院新設への協力が見込めないことなどよりも、友達との関係に楔が打ち込まれたような感触に気持ちが沈んでいくのを止められなかった。
(サッチェル姉様は、これを案じてくれていたのね……)
姉のしたことは、言ってしまえば問題の先送りに他ならない。だが少なくともその先送りにした間だけは、穏やかにオームと普通の友達としての関係を繋いでいられた。
束の間でも、その時間を与えてくれた姉にフレシュは目を閉じて感謝する。
「……うん、大丈夫。姉様、ありがとう」
心に訪れた失望感を姉兄の情愛で振り払い、フレシュは明日を見据える。
「それでも、約束はしたから明日オームには会うわ。孤児院の話をするかどうかはまたその時に決める」
「そう、わかったわ。でも何かあった時はお姉ちゃんを頼りなさい。あたしだけじゃない、この家の皆、フレシュの味方なんだから」
マリアンの優しく暖かい言葉に背中を押され、フレシュはしみじみと再び抱いた思いを噛みしめる。
自分は本当に恵まれている。
家族皆が、養子である自分に偽りのない最高の愛情を注いでくれるのだから。