26 特務の二人
宿の客室は簡素なものだ。
寝台と一組の小さな丸い机に椅子、荷物置きの籠と衣文掛け、あとは照明用のランプがあるくらいのもので、装飾品の類は見当たらない。
窓は一つ。シンは窓にかけられた厚めのカーテンを少しだけ捲り、夜の帳が下りた街の空から月明かりを控えめに招き入れる。
「夜遅くまでご苦労なこった……」
近くの路地からこちらの部屋を窺う人物がまだそこに居ることを確認し、シンは若干萎えた様子で嘆息交じりに独りごちる。
「へー、まだお家帰ってないんだ、お仕事大変だねー」
その呟きに反応した小さな妖精が、シンの肩越しに僅かに開いたカーテンの隙間から窓の外を覗いて他人事のように言う。実際他人事だが。
「いやたぶん交代で見張ってるんだろ。というかこの状況で相手の心配とか、余裕ですねフェアさん」
「大丈夫大丈夫、いざとなったら何とかするから。シンが」
「わー、丸投げいただきましたー」
相手の動向に気づいたのは昼過ぎ、図書館にいた時だった。
監視者への対応策として常時張り巡らせていた接続魔力逆探知の魔法が反応し、捕捉した対象がそれだ。確かめてみたところ王国軍の兵士だった。
やはりグレイとの調査協力中での発言が疑いを呼んだのだろう。悔やまれる。
相手は隠密魔法行使も同時に使用してはいたが、その魔法はシンの隠密魔力看破の前に用をなさないものとなっていた。二者の圧倒的な魔導力の差によって。
一瞬で監視魔法を遮断されてもめげることなく、人の目による直接的な監視を続けている。対象が監視に気づいていることを知った上でお構いなしに。
(まあ、それだけ重要な案件だってことなんだろうけど)
異変の当事者の並外れた魔導力は誰もが知るところだ。この監視で不興を買い、危険に晒されるとは考えないのだろうか。
(……いや、それも覚悟の上ってことか)
覚悟の程度がどれくらいのものかはわからないが、厄介なことに変わりはない。
今後の相手の出方によっては、名前と容姿を変えるかこの街を出るか、或いはその両方を迫られる事態に陥る危険性も出て来る。
「とりあえず、しばらく目立つような行いは控えて大人しくして、相手が穏便に済ませてくれることを願うしかないか……」
「長期戦だねー」
「短期戦で俺が勝てる筋書きが見えないからなー」
言うまでもなくこの場合の勝利条件とは疑惑の払拭である。
だがこちらからのアプローチはどう転んでも藪蛇になりそうなので、控えるほか選択肢がない。逃げるにしても相手は国家規模だ。一度撒いたところでこの街に居る限り再度捕捉されるのは目に見えている。その場合疑惑をより深めるだけでデメリット以外何もない。実力行使など論外だ。
「向こうがまた接触してきた時の対応も考えとかないとな……」
今度は失敗しないように。考えておいたところであんまり自信ないけど。
とても楽観出来ない今後の見通しに辟易して、シンは大きくため息を吐く。と、不意に身体に圧力のようなものが繋がるのを感じ取った直後。
『おう、シンか?』
ここ数日で聞きなれてきた男の声が、頭の中に響いてきた。
『デオ? 相識交信か。どうした? 何か用事か?』
南西居住区で別れたデオは用事がまだ済んでいないのか、こちらに戻って来てはいなかった。
様子の変化にフェアが正面に回り込んで来て「なあに?」と聞いてきたので「デオから交信だ」と答えておく。
『いや、用事ってほどのもんじゃないさ。ちょっとばかり小耳にはさんだ情報があるんだが、一応、お宅にも知らせておこうと思ってね』
『……何の狙いがあるんだ、それ』
どんな思惑があって取得したばかりの情報を流してくるのか。デオが自分だけで解釈するには視野が足りないと判断し、他者の捉え方も参考にしようとしているのだろうか。多角的な視点が有用であることは言うに及ばない。
『いやいや、単なる親切心だって。もう少しくらい信用してくれてもいいんじゃないか?』
『無理言うな。二日三日で信用出来るか。……まあ、色々と世話になってるから蔑ろには出来ないけどよ』
むしろデオが見返りも求めずに色々と恩を売ってくるのは、それを元に引け目を感じさせ、後々都合よく扱おうとしているのでは。などという、過ぎた猜疑心までもが頭を巡っていく。
ここまで来るともう疑心暗鬼の域ではないか、とシンは自分の小胆さへの苦笑を噛み殺す。
『そうかい、ままならないねえ。でもこいつはお宅にとって見過ごせない情報だと思うぞ。王都から異変調査に腕利きが派遣されて来たらしいとのことだ』
『王都から? ……おい、それってもしかして銀髪の男じゃないか? えらく感情の薄い。名前は確か……グレイ・バンダービルトだったかな』
どさりと寝台に腰を下ろし、昼間の軍人の姿を思い出す。確か紹介の時、所属するところにロイスコットと入っていた。王都の人間だろう。
『何だ、もう接触済みだったか。流石王国の精鋭。仕事が早いねえ』
『いや感心されてもな……』
幾分吃驚と称賛が混ざったデオの声に脱力し、シンはポリポリと頬を掻いて呻く。
『もう一人とは会ってないのかい?』
『……もう一人? え、腕利きが二人来てんの?』
知りたくなかった情報に思い切り顔を顰める。この後更に本隊とも呼ぶべき王都の臨時調査隊がやって来ることをシンは知らない。
『ああ、王国が誇る精鋭を二人も呼び寄せるなんて、お宅、大物だねえ』
『うわあ、嬉しくねえ……』
デオの皮肉を利かせた文言に気力を削がれ、吐く言葉に力が全くこもらない。
そんなシンの反応を楽しむような間を置いて、デオは二人目の王国の精鋭の情報を落としていった。
『もう一人の腕利きは愛想に欠ける女。名前はサイリ・キトラスだ』
◇◆◇
交易都市エプスノーム南東区画――軍用区。
駐屯地としての軍事基地と兵士の訓練を行う広大な演習場、さらには将来有望な人材を預かり未来の将校を育成するための士官学校まで備えた大規模な軍事施設である。
大規模ではあるが、ブライトリス王国において四大都市と呼ばれる他都市にはさらなる規模の軍事施設が存在する。
港湾都市ファーストマーケットは北西の海峡を越えた先の島イーリッシュのドラゴンに威圧されぬように。南部の城塞都市ユークは周辺国家よりもむしろフレンテの樹海の凶悪なモンスターに対抗出来るように、それぞれ軍拡が進められた。
この二都市は周辺が穏やかで平和なエプスノームと比べ戦力の増強が必要不可欠であり、結果として軍事施設がより大規模なものとなっていることに疑問を挟む余地などない。
早朝。
遠く東の空に眩く輝く日輪を迎えた軍用区内、舗装された道に等間隔で硬い音が響いていく。
コツコツと靴が鳴らす音を従えて落ち着いた足取りで進んで行く影が一つ。栗色の髪をボブにした女だ。
目つきは穏やかなものとはほど遠く、どことなく近寄りがたい雰囲気を纏った王国の機密部隊『武傑特務』の一員。
サイリ・キトラスは異変調査の命を受け訪れたエプスノームの軍宿舎で旅路の疲れを癒した後、基地内の庁舎へと向かっていた――お偉方への挨拶は到着時に済ませてあり、それとは別件である。
庁舎内へ足を踏み入れ廊下を進み、ほどなくして目当ての小さな部屋に辿り着く。談話室。
部屋には既に一人の男が座してサイリが来るのを待っていた。サイリと部隊を同じくする銀髪の男だ。
グレイ・バンダービルト。彼の力を知る人々からは銀妖という二つ名で畏怖され、所属する部隊は同じでもサイリとは比較にならない実力を持ち合わせている。
しかしそれを以ってサイリが劣っているという話にはなるべくもない。
サイリは王国の精鋭が集う部隊内でも指折りの実力者であり、この男が異端とも形容出来る傑物なだけなのだ。
「疲労はないか?」
顔を合わせての第一声でそんなことを聞いてくる。その余裕ぶりがサイリを刺激する。
命を受け王都を発ったのは同日同時刻なのだが、サイリが要した半分以下の時間でこの男はエプスノームまで辿り着いていた。
「無駄な気遣いなんてしてないで、さっさと用件を済ませてもらえる?」
サイリは苛立つ心に蓋を被せ、手早く終わらせるために話を促す。
ここでの用向きは情報の共有だ。相識交信では受け渡すことの出来ない情報もあるということなので、直接会う必要があった。
そんな理由などなくとも、集合が可能な状況下で重要な情報のやり取りを相識交信の魔法のみで済ませることは基本的にはありえない。
だが武傑特務という特殊部隊においては単独行動が常であり、今回のように複数人で任務にあたることは異例である。従ってグレイもサイリも任務中の情報共有自体が馴染みの薄いものとなっていた。
「そうしよう。エプスノームの先行調査隊と共同して調査を行い、これまでに判明した事実を照らし合わせた結果、術者の目星はついた」
グレイはサイリがエプスノームへ向かっている間に調査を始め、既に術者の特定にまで辿り着いていた。
「そう。誰?」
「〈空間投影〉」
サイリからの愛想の欠片もない催促に応える形でグレイが魔法を唱える。
目の前の空間の一部を楕円形に切り取るようにして、静止画が映し出された。波打つこともノイズが走ることもとりわけない、凪の平面。
これだけの魔法制御を集中することもなく使い慣れた道具でも扱うような手際であっさりとやってのけるのだから、サイリは胸中穏やかではいられない。
中空に浮かび上がった静止画に映し出された人物を目で示してグレイが続ける。
「シンという名の男だ。妖精を連れている」
中肉中背、黒髪黒目の男。年の頃は二十ほどだろうか。外見に特筆すべき点はないが、見た目のわりに大人びた気配を漂わせているところが特徴と言えなくもない。
ただそんなところを特徴とするよりも、大抵の人間なら男の隣にいる妖精の方が強く印象に残るだろうが。
「そ。で、その結論に至る経緯は?」
「男は異変発生当時、現場付近に居たことが確認されている。次いで既に行われていた聞き込みから、彼がエプスノームを訪れたのはここ数日の間である可能性が非常に高いことが判明した。更に本人に直接会い話をしたところ、私の個人的な見解ではあるが、異変はこの男に因むものであると推測した」
冷めた口ぶりで髪の毛を弄り他人が見たら関心ゼロと受け止められそうな態度のサイリ。
そんな隔意をもった女に対し、グレイは眉一つ動かすことなく事務的に淡々と説明を続ける。
「根拠となるのは、男の異変に対する姿勢だ。あまりにも落ち着きすぎている。未曾有の異常事態を至近距離で体験しておきながら、その気配に動揺の欠片すら感じさせることはなかった」
「ふうん。上への報告はそうなるわけね」
無愛想に口を開くサイリに対し、初めてグレイが間を開ける。サイリに変化があったからだ。
変化があったのは態度でも、口調でも、雰囲気でもない。
発言内容だ。
それはブライトリス王国軍のサイリ・キトラス大尉ではなく、別の立場の人間としての発言だった。
「……今のところはな。しばらくは様子を見る必要がある。報告の内容はその期間の彼の行動に依る」
「手間ね。元から持っていた情報をさも初めて得るように行動するなんてのは。馬鹿らしくなってこない?」
それは必要なことであり仕方のないことだ。そんなことはサイリにもわかっている。
要するに、グレイに毒を吐きたいだけなのだ、この女は。
それを知っているグレイは、質問に答えるかわりにサイリの発言によって確定した事柄を口にする。
「やはり、君達も知ってはいたか」
元よりグレイにも予想出来ていたことではあった。
「当たり前でしょう? その程度のことさえ掴めないような無能に思われていたわけ? まるで眼中にないのね、私達のこと」
グレイがそんなつもりで言ったことではないのはわかっているが、苛立ちを抑えることが出来ずにサイリは悪態をつく。
「まさか、そんなことはない。しかし――」
言葉途中でグレイが言い淀む。理由は一つ。
その先を言葉にすることは、サイリの逆鱗に触れることを意味するからだ。
「しかし……何?」
――「オブザーバーの代役は誰が務めた?」
サイリは憎悪を抱いている。
それはグレイの傑出した力に対する羨望や嫉妬に由来するものなどでは断じてない。
サイリの憎悪の源はただただ純粋な悲嘆である。
怨恨。
許しはしない。
大切な仲間の命を奪った彼らのことを。
諦めもしない。
彼らにその報いとなる罰を下すことを。
「……いや、いい。最後に、もう一つだけ伝えておくべきことがある、サイリ」
「気安く――」
話の流れを変え終わりに持って行こうとするグレイだったが、その馴れ馴れしい態度に対し腹に溜めていたサイリの怒りが、低く凄みを利かせた咆哮となって噴出する。
「――私の名前を呼ぶんじゃないわよ!」
ブライトリス王国軍にあってサイリは大尉、グレイは少佐。階級はグレイの方が上であり、サイリのこの態度は通常許されるものではない。
だが武傑特務という特殊部隊においては個々の持つ力量がより重視されており、階級が大した意味を持つことはない。無論、公の場では弁える必要があるが。
またグレイはサイリが抱く自分への殺意と呼べるにまで至る敵意を把握している。その所以となる自らの罪も。
そういった背景もあって、グレイがサイリを咎めたり上層部へ不心得を訴えるなどの行動は、まず取りえないのである。
「……では、キトラス大尉」
サイリのどす黒い感情に満たされた視線を浴びても顔色一つ変えることなく、グレイは淡々と話を続ける。その姿にサイリは更に苛立ちを募らせる。
どれほど濃密な悪意を言葉に込めようとも、どれほど鋭利な敵意でその目を睨みつけようとも、この男の感情を表に引きずり出すことは出来なかった。
「昨日、現場での調査中に発覚したことなのだが――」
そして話の終わりにグレイは、何一つ変えることのない仮面のような表情と、人間味の薄い起伏の乏しい口調を保ったまま、まるで片手間の用件でも伝えるかのように。
「――紫竜がこの件について興味を示して来た」
怖気をふるう破滅的な凶事の予兆を、ごくあっさりと告げてきた。