勲章
久々の短編です
一気に書き上げました
「お父さん、これなぁに?」
息子の貴志があるものを拾って、俺に渡してくれた。
「おっと危ない。これがないと行く意味がなくなってしまうな。拾ってくれてありがとう」
俺は拾ってくれたものを巾着に入れた後、しっかり鞄に入れた。
あいつに送るもの。俺を救ってくれた大切なあいつに。
(あの人、危ないなぁ)
大学の帰り道、なんとも不快な曇り空の大都市の中を、誰と共に歩くわけでもなく、一人トボトボと歩いていた。
そんな時に見えた一人の女性。その人は焦点の合わないような虚ろな目をして、車道向きに佇んでいた。その女性に対して、俺はそこはかとない危険を感じ取っていたのだ。今すぐにでも飛び出して行ってしまいそうな危なっかさがその人にはあった。
(ボーッとして、轢かれても知らないぞ)
まあ、本気で死のうなんて思っているのかなんて知らないから、俺はただその人の様子を眺めていた。
何分、今日は気分が悪かった。大学の実習中に実験道具を大量に破壊してしまい、こっぴどく叱られた帰りだったからだ。他の人たちにも白い目で見られ、気分は最悪の一言に尽きた。だから、人が危ない状況だとわかっていても、声をかけてやる親切心なんか、この時はあいにく持ち合わせていなかった。
しかし、これがいけなかった。その女の人は、明らかに車が来てるだろというタイミングで車道へ飛び出して行った。
「おいっ…!」
何自殺しにいってんだ。と、反射的に身体が動いていたが、間に合わなかった。弾け飛んだ彼女の身体は、真っ赤な血液と共に中を舞い、無気力のまま車道へと落ちて行った。
ああ、俺のせいだ。思ったのはそのことだけだった。他の人が「何してんだこの女は!」とか「馬鹿じゃねぇか」とか言おうが、これは完全に俺のせいだ。
まず、急がなければ。彼女の元へ急ぎながら、救急に電話をかける。
「もしもし、事故です。〇〇町の大交差点です。女性が自動車に轢かれました。出血多量、意識は…」
女性の肩を叩いたり、身体を揺すったりする。
「ありません」
「すぐに向かいますので、止血等応急処置をお願いします」
言われた通り、応急処置に取り掛かる。呼吸は…ある。気道を確保。次に止血。出血部分は主に頭。後頭部に大きな傷があり、そこから大量の血が出ていた。頭からいっちゃったか…と不安に思うも、とにかく止血に集中した。自分の服だけでは足りない。バッグからありったけの布を取り出し、彼女のざっくり開いた頭部に当てる。
「お、おいあれ…」
「俺たちも手伝わないと…」
人手が欲しかった頃、ちょうど通りかかった人が手助けをしてくれた。その人たちは、他の出血部位の止血をしてくれた。
(頼む、意識戻って来てくれ…!)
その時だった。
「う…、嘘でしょ…」
彼女の目が、うっすらと開いた。意識を取り戻したのだ。「大丈夫だ!もう少しで救急車が来る!」と彼女に言うと
「こんなことって、ある…?」
と虚ろな目をした彼女は、目に涙を浮かべ出した。今泣かれてしまっては困る。完全に助かってから泣いてほしいものだ。
「いいから、喋るな!もう少し、もう少しなんだ…!」
彼女の涙を、布の血のついていない部分でふき取る。すると彼女は
「もう、いいよ…嬉しい。最後に名前…教えて…?」
「小田 秀だ。最後なんて言うな!」
希望は捨てないでくれ…。頼むから…。
「秀…君…ありがとう…」
そう言い残した彼女は、再び目を閉じてしまった。
「おい!しっかりしろ!おい!」
何回も身体を揺する。すると、遠くからサイレンの音が聞こえた。音の方を見ると、赤いランプが点滅した、白の車がこちらへと向かって来ている。
「ここです!」
大声で救急隊員を呼ぶ。担架を持った二人組は、その上に彼女を乗せ、救急車の中へと乗っていった。
ヘナっとその場に座り込む。あれは完全に俺のせいだ。俺が一声「危ないぞ」と声をかけてやれば済んだ話だった。周りの人は「よくやりましたね」とか、「素晴らしい応急処置でした」と褒めてくれるが、そんな優しいものは別にいらなかったし、欲しくもなかった。それよりも、後悔の念が強すぎて、俺はこの場から動くことなどできなかった。
またやってしまった…。また、俺は人の死に大きく関わってしまった。まだ死んだとは確定していないけれど、彼女は多分、最後に「ありがとう」と言って、死んだ。人を殺すのと同義なことをしてしまったのは、これで二回目だ。
俺は、反省できてなかったのだ。この十年ちょっとで何も。
やっと動きだした俺は、天候が変わって降り出した大雨の中、さっさと家に帰ろうと突っ走っていた。とにかく早く家に帰って、手のひらに重くのしかかる彼女の血痕を洗い流してしまいたかった。
ずぶ濡れのまま家へと入り、着替えやタオルなんかを取る。そしてそのまま風呂場へと向かった。
温度を高めに設定したシャワーを浴びる。雨で濡れて、冷えた身体は温まったけれど、冷え切った心は温かくなんかならない。手に付いた血や、雨や汗なんかは流せるが、罪の意識は流せない。
流せなかったものは、ダイレクトに俺の心を襲って来た。一秒、そしてまた一秒と進む度に、じわじわと強くなっていく打撃。それは、その一秒を生きていることに対する罰のように感じてしまい、シャワーを浴びている時でさえ、落ち着いていることはできなかった。
しかし、風呂場から出ても全然スッキリとした気分にはならない。それどころか、全然落ち着かないのだ。急に騒ぎ出したくなったり、急に黙ってみたり、ものを投げて暴れてみたり、部屋の隅で小さくなっていたり。側から見れば狂気としか取れないような行動をとっていた。
「なんでお前は生きている?」
ずっとそうやって問われているような気がして、居ても立っても居られない。頭の中によぎってくるのは、意識を失った時のあの女性の顔と、死んだ時の弟の顔。
もう後悔はしないと決意したはずなのに、俺はまた過ちを犯してしまったのだ。
十三年前。夏の暑い日のことだった。公園で遊んでいた俺と弟は、砂場で遊ぶのに夢中になっていた。
その時は確か、小さな街を造ろうとしていたのだ。一本の長い道路に、トンネルやら脇にビルやらを作って楽しんでいた。小学生が作っているものなんて拙くて、言われなければこれが何なのか分からないくらい酷いものだったろうけど、それでも楽しくて、周りが見えなくなるくらいに熱中していた。いや、熱中し過ぎてしまった。
一緒になって造っていた弟が、俺の横で
「お兄ちゃん、お水飲みたい」
と言ってきた。小学生になりたてだった俺の弟は、何するにも俺と一緒じゃないとダメで、一人で水を飲みに行く、という考えがまだ無かったのだ。あいにく、前もって準備していた水筒は兄弟共に空になっていて、水道の水を汲みに行くか、そこで飲まないといけなかった。
しかし、俺が言った言葉は、
「もう少しだから、早く完成させて、それから水飲もうぜ!」
だった。今思い返すだけでも寒気がする位の、最悪の一手。考えれば、俺と同じくらい熱中して、喉が渇いたのなんか気にならないくらい周りが見えなくなっていたはずだ。なんせ、俺がそうだったのだから。その位になっていたのに、喉が渇いたと訴えてきたということは、かなりの緊急事態だったのだ。
にも関わらず、俺はそんな馬鹿みたいなことを言って、弟のことをないがしろにしていた。汚い砂のオブジェなんかに気を取られ、唯一無二の弟のことを目に入れていなかった。
それでも弟は頷いて、再び作業に取り掛かったのだ。
確かに、「お水飲みたい」と言われてからオブジェの完成まではそれほど時間はかからなかった。しかし、「じゃー水飲みに行くか!」と言って俺が立ち上がった時、弟は立ち上がれなかった。それどころか、その場にコロン、と倒れてしまった。倒れ方は起き上がりこぶし人形さながらであったが、起き上がりこぶし人形のように起き上がることはニ度と無かった。
慌てて親を呼びに行った。家と目と鼻の先にあるところの公園だったので、呼びに行って戻ってくるのにさほど時間はかからなかった。
しかし、ここでも俺は悪手を指していた。弟を炎天下に晒したままだったのだ。救急で近くの病院に行ったが、時すでに遅し。弟は息を引き取っていた。
その晩、俺の両親は俺には何も言わなかった。もちろん、それからも何も言うことは無かったが、両親は俺のことを恨んでいることだけは分かった。弟が息を引き取った晩、いつもなら俺がすっかり寝てしまている時に母親は泣き崩れ、父親は頭を抱えながら弟の名前を呼び続けていた。
トイレに起きてきた俺が見たあの光景は、今でも鮮明に覚えている。弟に対する、母と父の愛。その愛するものを奪ったのは、他の誰でも、何でもない、俺だ。その後は怖くて怖くて、眠れなんかしなかった。
「奪った」ことへの恐怖。愛するものを奪った恐怖。日常を奪った恐怖。受けるはずだった愛を奪った恐怖。それで頭がグチャグチャになっても、耳の奥で響く、母親の嗚咽と父親が呼びつづける弟の名前。
それからというものの、俺は必死に勉強をした。俺の中に、目標ができたからだ。
「医者になる」
俺は弟を救えなかった。救えなかったからこそ、救わなければいけない。救えなかった分、いやそれ以上に救えば良い。奪ったまま生きるだなんて、人間失格だ。と心に誓い、今までの何倍も勉強した。そして確実に、医学の道を歩んで行った。
そして、勉強より意識したことは、親の手伝いだ。奪ってしまったことへの償いをと思い、頼まれた以上の仕事を毎日やってのけた。その経験が功を奏したのか、俺は周りから「気遣い上手」の称号を得るまでになっていた。
しかし、俺が大事な時に指した一手は、あの時並みに酷い悪手だった。
過去のことを考え過ぎても気は紛れない。罪のナイフは俺の胸を貫いたままだ。
不意につけたテレビから、あるニュースが流れてきた。
「今日午後、〇〇街の大交差点で起きた交通事故。被害者の女性は、意識不明の重体で病院へ搬送されましたが、その後、死亡が確認されました」
死亡。その単語が俺の胸に突き刺さったナイフを更に押し、中を抉ってきた。
痛い。痛い。痛い。胸の奥にとてつもない痛みを感じる。そしてその痛みは言葉となって、意志になった。
「俺は生きていてはいけない」
俺は一目散に、ある場所へと駆けて行った。
俺は泉の前に立っていた。見た目こそ美しいが、俺にとってはトラウマを植え付けられた場所。
昔弟が亡くなる前、この泉で遊んでいたことがあった。俺は親の「あんまり遠くへ行っちゃダメ」という注意を忘れて、溺れてしまい、死にかけた場所だ。それからニ度と近寄りたいとは思わなかった。しかし、今は違う。いくらトラウマがあろうとも、俺は今からここで死ななければいけないのだ。
「じゃあ、行くか」
最後の償い。その一歩を踏み出した。だんだんだんだん、深くなっていく。水が顔の近くまでくる。その時スッ、と足場が消えていった。突然来たそれに、当然俺は対応できない。俺はそれでも呼吸をしようと藻搔いた。せめて、走馬灯くらいは眺めたかったのかもしれない。思惑通りだ、と思いながらも、俺は藻搔いていた。望んでいた走馬灯も見えてきた。
弟と仲良く遊んだ日々。亡くなってから必死こいて勉強した日々。手伝いをして、親から「ありがとう」と笑顔をもらう日々。最後の最後に言ったあの女性の「ありがとう」。綺麗なものだけが切り抜かれて、まとめられた俺の人生。
綺麗なことだけが、世の中じゃないんだよ。
目の前が暗くなる。夜の闇ではない。もっと近くの意識というもの。暗くなる。暗くなる。
何も、見えなくなる…………。
うっすらと目を開ける。太陽の光とも、蛍光灯なんかの光とも違う、優しくてそれでいて力強い光。その光に包まれて、誰かが俺の顔を覗き込んでいる。
ここが天国というものなのか?では覗き込んでいるのは女神か?と呑気なことを考えていると、腹部に何かがのしかかってきた。
「うっ…」
水を吐き出す。飲み込んでしまっていた水を、全て。
「良かった…。生きてた…」
俺の濡れた身体に、更に降り注ぐ雫。それは、俺の隣にいる女性の涙。同い年くらいの、黒髪の女性。顔はその長い髪に隠れていてよく分からなかったが、その答えを俺は知っているような気がした。
「君、もしかしてあの時の…」
俺がその女性に話しかけると、急に頭を持ち上げられ、頬に平手打ちを食らった。間髪入れずに、その女性は続ける。
「あなたみたいな人が、こんな簡単に死のうと思わないで下さい!」
彼女の言葉は、俺の心に大きな刺激を与えた。先ほどまでの、刺されるような、抉られるような刺激ではなく、もっと重い鉛のようで、俺を取り戻してくれるような、どこか優しさを感じる刺激。
「あっ…えっ…ごっ、ごめんなさい…」
って、あれ?今度は俺の頬に雫が滴り落ちてきた。止まらない。とめどなく、溢れてくる。今まで抉られていた心が、開いた穴を埋めていく。埋めさせられる。
彼女は何も言わずに俺から溢れる涙を手で拭い、身体を寄せる。優しいような、ぎこちないような手つきで、俺の身体、頭や顔を撫でる。
俺は泣いた。彼女の腕の中で。嗚咽した。いい歳になっても、いくら相手が初対面の女性だとしても、優しさには抗えない。冷たくて気持ちの良い彼女の身体。その奥から感じる、温もり。
しばらく身を委ねていると、俺は疲れてしまったのだろうか、木のふもとですっかり寝てしまっていた。
身体を起こし、あたりを見渡す。すると彼女の姿は、俺の目の前にあった。
「頭、スッキリしましたか?だったら今日はもう遅いから、家に帰ってゆっくり休んで下さい。そして明日、ゆっくりお話ししましょう。この木の下で待ってます」
色々と聞きたいことはあったが、それは明日聞けばいい。彼女から救ってくれた明日に。
「ありがとうございます」
その一言を言って、俺はゆっくりと、月明かりで照らされた家路についた。
その日の夜は、暴れ回った後のすっちゃかめっちゃかな部屋の中で、沈んでいくかのようにゆっくりと、ゆっくりと眠った。
「私ね、嫌気がさしてたの。この世の中の人間関係に。」
次の日。あの木の下で彼女は待っていた。昨日はよく見えなかったが、やはり見覚えのある顔つきをしていた。それは頭にこびり付いて離れなかったあの女性の顔そのものだった。
「気付かれてたか…」
笑いながら話す彼女。こんな笑顔、できるんじゃないか…。なんで、あんな虚ろな目をして車道に飛び出していったのか、聞いてみることにした。
「嫌気がさしてたの」
つまりは、こういうことだった…
私は、嫌気がさしていた。ネチネチと汚くまとわりつく人間関係に。
高卒で会社務めを始めた私は、それなりに希望や夢を持って入社した。覚えなければならないことも沢山あったが、一つづつ、丁寧に、そして確実にできることを増やしていった。
職場の先輩とも着実に交友関係を深めていったし、仕事における成果も出しつつあった。最初の一年、滑り出しの時期を成功し、うまく軌道に乗れたまま、次の年も、また次の年も着実に成果を挙げていった。
そんな中だった。ある時ふと、嫌な噂を耳にした。
「奥山先輩と新垣先輩、ヤったらしいよ」
奥山先輩―それは私のことだ。全く身に覚えの無い噂話。それに、その相手はあの新垣先輩。
私が入社したての頃、私の教育係に付いてくれて、それからちょっとずつ仲良くなっていった先輩だ。それからというものの、一緒に呑みに行ったり、同じ仕事を一緒にやったりと、一緒に何かをする、ということが多くなっていった。
確かにだんだん慣れてきて、お互い下の名前で呼びあったり、どちらかが残業なんかしていたら手伝ったりと、側から見たらかなり深い関係になっているようだったかもしれない。
しかし、私たちは男女の仲、というよりはただの仕事仲間、いい友達という認識でしかなかった。
それ故に、冗談半分のスキンシップなんかあっても、なんの違和感も無ければ、性的欲求が刺激されるようなことも無かった。例え飲み会の席で、先輩が抱きついてくるようなことがあっても、それには冗談という意味しかないのだ。
それなのに、ヤった、などと変な噂を立たれてしまっては、先輩も私も、確実に会社に居ずらくなる。
おまけに、その新垣先輩は、社内の女性陣の注目の的だった。仕事もできればコミュニケ―ションも取れる。甘いマスクの超イケメンということで、社内で人気を勝ち取っていた。
前々から嫉妬の目を向けられることはあったが、別にやましいことをしている訳ではないので、特別気にしてはいなかった。
気にしてはいなかったとはいえ、ここまで変な噂を立たされては困る。弁解しようと試みたら、それこそ相手の思うツボだと思って、全力でスルーしていた。
しかし、放っておいたのは悪手だった。それこそ相手の思うツボだったのだ。瞬く間にそのガセネタは広まっていき、社内での私に向けられる視線はどんどん冷たいものになっていった。
更には、いじめまで起き始めた。初めはものを隠すとか、わざと聞こえるように悪口を言うなどの些細なことだったが、それはどんどんエスカレートしていった。
ものを隠す行為は、悪化して財布や大事な書類になっていった。後から見つかった財布には、入れてきたはずの紙幣は無くなるし、書類に関しては見つかることはなくて、その度に上司にこっぴどく叱られた。もちろん、後ろからは外野がケタケタと笑っていた。後にシュレッダーのゴミを捨てる際に、見覚えのある書類が千切り状態になっていたのを見たときは、さすがに耐え切れなかった。
私は退職願いを出した。こんな扱いを受けるために入社したのではないのだ。せっかく軌道に乗っていた仕事を手放すのは、勿体無い気もしたが、それでも私の決意は揺らがなかった。
「雪乃ちゃーん」
会社から出る直前、私はある男性に声をかけられた。私は申し訳ないと思い、その場で頭を下げた。
「すいません、雅也先輩」
一番迷惑をかけてしまったであろう新垣先輩が、走ってこっちまできてくれた。
「どうして…、やっぱり、あのせい?」
彼も噂の存在は知っていたようで、気に病んだのか、私に頭を下げてきた。
「ごめん、ずっと誤解を解こうと思っていたんだけど、一度根付いたものって中々離れなくて、しまいには『何で庇うの?』って馬鹿にされて、結局、何もできなかった。本当にごめん。結局、僕も君も辞めることになっちゃったし…。僕たち、どうすればいいんだろうね」
笑って話された最後の言葉。私にとっては笑い事ではなかった。許しがたいことだ。根も葉もないデマを流されただけで、私だけならともかく、仕事を卒なくこなせる彼まで辞めることになってしまうだなんて。
何も言えないままの私の頭を、先輩は撫でてくれた。ミスしたときに慰めてくれた時のように、仕事が大成功した時に褒めてくれた時のように、先輩は撫でてくれた。耐え切れず、嗚咽する私の頭を「ごめん」と言いながら撫でてくれた。
「私、私許せないです…。この職場の人たちも、何も言わずにほっといた私のことも…。
本当に悪いことをしてしまったのは私なんです。私がいたから、みんなで先輩を辞めさせたんです…。本当に、すいません。すいません…」
ずっと、見ていてくれた先輩。そんな先輩に、本当に申し訳ないことをした。
そんな時、不意に遠くから声が聞こえてきた。
「ほら…あれが噂の二人よ…」
「まだあんなことしてるの…。よそでやってくれないかしら…」
さすがに居づらくなってきたので、再び先輩に一礼して、玄関に向かう。その途中だった。
「新垣さんだって、あの人と離れられてせいせいしているはずよ」
えっ…。振り返ると、そこに先輩の姿は無かった。私はここで、あることに気付いてしまった。
あの人は多分、辞めてない。
多分、あくまで多分だが、あの人はずっと、良い人を演じてきたのではないのか?良い人ぶって過ごして、寄ってきた私のような人をたぶらかして、その気にさせてきた。
思えば、あの人が愚痴を吐いているのを、見たことがない。今までは、素晴らしい人だから、と考えてきたが、良い人を演じていたのなら?
更に私は気付いてしまった。あの人は、私がいじめを受けている時期に、一回も声をかけてくれなかった。あの人も大変なのだな、と割り切っていたが、一緒に仕事をしていた仲だ。
変な噂があったのを耳にしていたくせに、何も気遣ってはくれなかった。それも、私一人に良い人を演じるくらいだったら、他多数に対して演じていた方がよっぽど利益はあるだろう。
もし、辞めたということが嘘だったら、この話はほぼ本当と信じて間違いないだろう。
それでも、信じていたいと思いながら玄関を出て、会社の周りを歩いていると、ふと、嫌なものが目に入ってきた。上の階の廊下の窓から、書類とコーヒーを持った先輩が、女性社員と親しげに歩いていた。やっぱり、辞めてなんかいなかったのだ。ついでに、新たな相手との交友を深めていったのだ。多分、今度こそ彼はあの子とヤるのだろう。
途方にくれた私は、自殺を試みようと、大交差点の車道側を眺めていた。
誰も私のことなんか見てくれやしなかった。それだけで十分、死ぬ理由にはなった。
自動車の運転手には迷惑をかける。他の通行人にも、迷惑をかける。そんなことは分かっていた。でも、もう無理なんです。許してください。下賎な目でも、何でも良いので、最後に私を見てください。
なるべく自然に、そして確実に車とぶつかるように、私は飛び出した。
宙を舞う私の身体。飛び散る血。最後らしく、美しく、私は散った。
無くなっていく、私の意識。嗚呼神様、転生するなら、大事な所で悪手を指さない、騙されない人にして下さい…
――
―――ーー
(頼む…、意識だけでも…、戻ってきてくれ!)
私の脳に、誰かの思いが響く。それはとっても強くて、必死だった。
私は、その必死な思いに応えるかのように、うっすらと目を開けていた。
私の目に映っているのは…、一人の男性。同い年くらいのまっすぐな目をした人。
「う…、嘘でしょ…?」
思わず声に出していた。するとその男性は私の目を見て、
「大丈夫だ!もう少しで救急車が来る!」
と言った。こんな状況で悪いが、私はこの男性の、このまっすぐな目に、心惹かれてしまった。
こんなにしっかり、私の目を見てくれた人なんていただろうか…?
「こんなことって、ある…?」
感激のあまり、口から言葉が漏れる。こんな時に、私は恋をしてしまった。嬉しかったのだ。見てくれたことが。必死になって、こんな自殺志願者を助けてくれたことが。
「いいから、喋るな!もう少し、もう少しなんだ!」
絞り出すような彼の声。それでも私は逆らえなかった。恋をしてしまった女の子の、「好きな人と喋りたい」という本能に。こんなわがまま、生きている中で一回もしたことないはずだ。
私は、この一瞬が生きていることのできる最後の時間だと分かっていた。あくまで勘だけれども、そう感じた。だから、無駄にしたくなかった。
「もう、いいよ…。嬉しい。最後に名前、教えて?」
最後のわがまま。好きな人の名前は知っておきたかった。彼は私の諦めとは裏腹に、まだ必死に頭部の止血をしていたが、ちゃんと、答えてくれた。
「小田 秀だ。最後なんて言うな!」
秀君、か…。立派な名前。この立派な男の子は、名前の通りにこれからも生きていくんだろうなぁ。
「秀…君…。ありがとう…」
プツッ。何かが落ちた。もう何も聞こえない。見えない。あの子には、悪いことをした。目の前で人が死んだのだから。
最後まで、人に迷惑かけちゃった。ごめんなさい。
でも、できれば、できるならば、あなたの隣に居たいなぁ。
もう死んだっていうのに、わがままな奴だ。なんて、自分でも思った。でも、恋しちゃったんだから。しょうがないよね。でも、そんな願いは叶わないな。きっと。でも、私はきっと、天からあなたのことをずっと見ているよ。嫌だなんて言わせないからね。
元気に過ごすんだよ。
「なんて思ってたらさ、あなた死のうとしてるんだもの。私、飛び出してきちゃった。説教してやんなきゃって」
彼女は、ニカッと笑ってこっちを見た。
俺はどうしてやったら良いのだろう。俺のために霊になってくれた彼女を、俺は成仏させてやらないといけない。強い意志を持たないと、霊という存在はこの世に存在できない。それを俺は果たしてやらないといけないのだ。
「なぁ、俺は、お前に何をしてやれば成仏させてやれるんだ?」
彼女に聞いてみる。すると彼女は急に頬を膨らませた。それだけで、答えは返ってこなかったので「おーい、お前、どうした?」と肩を叩く。
「ん?ん〜っとね…
出来れば名前で呼んで欲しいな…なんて…」
あっ。俺は気付いた。俺に恋してくれた女性に、失礼なことをしてしまった。改めて、俺は言った。
「じゃ、じゃあ、雪乃…の意志って何だ?」
雪乃は、パアッと顔を明るくさせた。が、恥ずかしがって、それを隠すように俯いて、
「しゅ、秀君の決意を叶えるまで側に居ること…かな…」
と呟いた。林檎のように顔が真っ赤になっていることは、雪乃が俯いていてもハッキリと分かった。可愛い。更にちっちゃくなった姿は小動物さながらで、思わず撫でたくなるくらいだった。
「そっか…。俺の意志か…」
呟く俺のことを、急に顔を上げた雪乃は見つめた。
「結構長くなると思うけれど、ついて来てくれる?」
雪乃は少しタメを作って、それからとびきりの笑顔で
「うん!!」
力強い返事をした。
冷たくて、気持ちの良い彼女の頭をそっと撫でた。
彼女と約束してから一週間、俺は大学の帰りに、泉に寄っていこうとした。
「おい、小田。ちょっと」
級友の安藤に話しかけられる。そいつは級友というほど親しくはなかったし、俺は正直こいつのことが嫌いだった。いつも、少しだけ人を小馬鹿にしている感じが鼻についていた。しかし、学科が同じということもあり、なんやかんやでこいつとはしょっちゅう関わっていた。
「なんだよ…」
ため息を混じらせながら、手招きされた方へと向かう。
安藤は、何か試すような、若干腹たつような表情をして言った。
「この間の事故、どうだった?」
はっ?この間のってことは、間違い無くあの事故のことだろう。ニュースで事故のことは知ってたとはいえ、俺が関わっているとは知らないはずだ。
「どうだったって、どうした?いきなり」
安藤は目を細めて、俺の目を睨みつける。気味の悪いその表情に、目を背けてしまいそうになるが、平静を装うために、俺はなんとかして奴の目を見続けた。
「救えなかったんだろ?結局。分かってんだよ」
フン、と鼻を鳴らし、いつもの小馬鹿にするような表情に変わった。
「残念だったなー、その女性。お前のせいで死んじゃったんだからな」
安藤は、うろたえる俺の隙を突いて、ここぞとばかりに攻めてきた。
「う、うるさい。お前に言うことは、何もない。じゃあ、またな…」
俺は走って、その場を離れた。
俺は走った。ひたすらに走った。泉に行くつもりだったが、それはやめた。こんな状態で、俺は雪乃に会えない。あってはいけないのだ。
(あんなこと言わなくたっていいじゃないか)
知っていても、スルーしていてくれれば良いのに。改めてそんなこと言われたら、耐えられないの分からないのかよ!
あー!悔しい!あの笑顔!あの雪乃の笑顔!生きてる時に見せて欲しかった!可愛いことに変わりはないけれど、それでもやっぱり俺は見たかった!生きている雪乃の笑顔を!
救えなかったのは、俺だ!見れなかったのも、俺のせいだ!なんて罪深い奴なんだ!俺は!
一目散に家へと駆け込んでいった俺は、すぐさまベットに横になった。頭を抱える形で、丸まりながら布団に包まる。ぐゎんぐゎんに揺れる頭は、押さえていないと暴走を止められなさそうで、そうしないとやってられなかった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。一緒に遊ぼ…?」
どこかから弟の声が聞こえる。あたりを見渡すと、そこには何もない無の空間。その中に、弟がぽつんと一人立っていた。
「お兄ちゃん、助けて、助けて…。辛いよ…。早く、お水が飲みたいよ…」
弟は急に、コテンと倒れてしまった。俺の手には、たっぷりと水が入ったコップが握られていた。
「お兄…ちゃん…、また…なの…?」
弟はそう言って目を閉じた。そして再び目を開けることは、無かった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」
叫び声をあげながら、身体を起こす。いつの間にか寝てしまっていたようだ。
俺の脚は急に歩み始め、ある所へと向かい始めた。俺の目からは、無気力な雫が滴り落ちてきた。俺の手はそれを拭くことはせず、ただ歩みに合わせて振るだけ。俺の耳は外界の音を全てカットし、俺の鼻は鉄臭い匂いしか受け入れなくなった。
俺の脚は、夜の街を進んでいく。ただ、まっすぐに、向かうべき場所に向かっていく。
俺の脚は急に止まる。あの泉の前で、急に止まる。そして、力が抜ける。俺の身体は、その場に崩れ落ちる。
俺の胸は打ち震える。俺の喉は、吐き出したいものをこらえて、震えている。声帯を揺らし、「ギッ…ギギギッ…」と声にならない声をあげ始める。
やがて、その声は、はっきりとした嗚咽となり、目からは大粒の雫がとめどなく溢れてくる。
俺の身体は、冷たくて、気持ちの良い何かに触れる。俺の耳は、外界の音を受け入れ始め、
「秀君…。あなたは頑張ったよ…。私は、あなたに殺されただなんて思ってない。私は、あなたに救われたの。一人ぼっちの私を救ってくれたの。だから…辛くなったら、いつでもここにきて良いの。私も、あなたを救いたいの。ボロボロになって、崩れそうなあなたを。」
という言葉を感知した。
俺の心は、狂気を忘れ始める。そして俺は、雪乃の身体を抱きしめて、思いっきり泣いた。
「弱くて、ごめん…」
「謝らなくて良いよ。強がってる方が、みっともないよ。人間はみんな、壊れやすいの。傷ついちゃったら、修復するのが難しいくらいボロボロになっちゃうの。
でも、これだけは言える、あなたは決して弱くない。でも、強くもない。だから、今日はずっとこうしていよう。ね?」
涙が枯れるまで、俺は雪乃の腕の中に包まっていた。部屋の布団より、その腕は暖かかった。
「雪乃…。俺、いっぱい人を救うから…。奪ってしまった以上に、たくさん救うから…」
燻っていた心に、再び火が灯ったような、そんな気がした。
あれから結構経った。泣き崩れた日から、当分の間、泉には顔を出していなかった。
(起こってるかな…)
なるべく急いで、俺は泉へと向かった。今日は大事な報告があるのだ。誰よりも早く、雪乃に伝えたかった。
泉のほとりの入り口に入る。
「おーい!秀くーん!」
来るのを待ちわびていたかのような高らかな声で、俺のことを呼ぶ声があった。
「雪乃―!!」
ぴょんぴょんと手を振っている方に、俺も負けないくらい大きな手振りと声で返事をする。
いつもの木陰で、俺と雪乃は勢いよく抱き合った。
「雪乃〜、俺はやったぞ〜!」
「秀君会いたかった〜!」
各々、言いたかったことを耳元で叫ぶ。あまりにもバラバラなことを言っていたので、離れてお互いの顔を見つめ合った俺たちは、大声で噴き出した。
「それでそれで?何をやったの!?」
興奮冷めやらぬまま、雪乃はまだぴょんぴょんと跳ねながら俺に尋ねてきた。
「おう!〇〇病院で研修医として勤めることが決まったんだ!」
「うんうん、それでそれで?」
俺はわざと長いタメを作って、
「しっかり勤務すれば、あと二年で完璧な医者になれるんだ!」
「やったーーーー!!」
雪乃はさっきより高くぴょんぴょんと跳ねた。つられて俺もぴょんぴょんと飛び跳ねた。俺はこの時、喜びを分かち合える人がいることのありがたみを噛み締めた。
やっと落ち着いた頃、雪乃があるものを木のふもとから取り出した。
「しゅ、秀君、これ…あげる」
俺は、葉っぱや木の実なんかでできたバッジのようなものを貰った。
「雪乃、これって…」
「く、勲章!私を救ってくれた英雄に贈る、栄誉ある勲章だよ!あ、ありがたく受け取って!」
雪乃は照れ隠しのつもりか、怒ったようなふりをして、俺に言い放った。
形の整った、色取り取りの勲章。見れば見るほど美しく見えるそれに、感激し、思わず目から涙をこぼしていた。
「ちょ、ちょっと、秀君!そんなに嬉しがられちゃうと、私困っちゃうよ!」
さっきまでの怒ったようなふりはどこかへ行き、俺の涙を拭おうとしてくれた。
「いや〜、ごめん。あまりにも嬉しくて、つい」
顔を上げた拍子に、雪乃と目が合った。すると雪乃は顔をすぐに真っ赤にして、拭おうとして出した手をしまってしまい、下を向いてしまった。
俺はもう一度、貰った勲章を見る。きっと一生懸命作ってくれたんだろうな。簡単に崩れてしまわないように工夫された跡が、それを物語っていた。
(やっぱり、今日話してしまおう)
決心のついた俺は雪乃の肩を叩く。
「雪乃、俺、当分ここには来れないかもしれないんだ。ここ最近だってずっときていなかったし、本当に申し訳ないと思う。それでも、やっぱりここから大事な時期になるんだ。もちろん、来れる時は絶対に来る。それでも、君には寂しい思いをさせてしまうと思うんだ。だから、また少し待っててくれないか?必ず立派になるから」
雪乃は一瞬、悲しげに俯くが、すぐに顔を上げて
「うん、待ってる」
と言ってくれた。しかし、寂しさを包み隠すことはできていなかった。
「私のことは気にしないで…。あなたが頑張っていることは知ってるk…!?」
俺は、我慢している雪乃の唇を奪った。
あっけにとられて何も言えない雪乃。一度唇を離し、今度は強く抱きしめてもう一度口付けした。
柔らかい、その一言に限る雪乃の唇。それを深く味わっていると、突然、俺の口内に「ん〜〜っ!」という声が響いた。
唇を離すと、雪乃はさっきよりも顔を真っ赤にして、
「ちょ、いきなりすぎない!?私にも心の準備ってものがあってだね〜っ!って聞いてるの!?」
と色々騒ぎ出した。
「フンッ、もう、分かったよ。いつまでも待っててあげる。知ってたと思うけど、私はここを離れられないから。待ってることしかできないけど、ずっと応援してるからね。ちゃんと頑張ってよ!」
最後の方はやはり照れ隠しか、少し乱暴な言い回しだった。
「もう一回、する?」
照れる彼女にちょっかいを入れてみる。
「も、もういいです!満足です!」
ちょっかいのつもりだったが、俺が物足りなくなったので、最後に頬に一発かまして、俺は泉を後にした。
「ちゃんと頑張ってね〜!」
出口の近くまできた俺に、雪乃は大声で手を振ってきた。
「来れるときは来るからな〜!待ってろよ〜!」
負けないくらいの大声で、手を振り返した。見えなくなるまで俺と雪乃は手を振り合っていた。
三年後―
研修期間を終えてから一年。俺はしっかりと決意を果たしていた。
まだ、多くの人を助けるという直接の仕事には付かせてもらってはいないが、医者としての任務を全うしていた。
少し自慢話になってしまうが、上司の方から多くのお褒めの言葉をもらうようになっていた。手伝いはキビキビと正確にしてくれるし、人当たりが良くて患者さんも喜んでくれている、と。
大きな仕事ではないものの、ひたむきにやってきた成果が出てきたことは、素直に嬉しかった。
あの日から、研修期間中は雪乃とはちょくちょく会うようにしていた。いくら頻度が少なくても、二週間に一回くらいはいくようにしていた。
雪乃は毎回、とびきりの可愛いあの笑顔で接してくれた。それこそ疲れが吹っ飛ぶくらいの元気を与えてもらった。
しかし、ここ最近、というか一年くらいは顔を見せていなかった。正式な医者となってから、急に忙しくなり出して、休みの日も、なんだかんだで潰れてしまった。
珍しく休みをもらえた今日。俺は雪乃に報告をしに行くことに決めた。
あの泉に、雪乃はまだ待っていてくれているだろうか。愛想を尽かして、消えてしまったのではないか、などと心配しながら泉へと向かった。
「秀くーん!こっち!こっち〜!」
あの日のようにぴょんぴょんと飛び跳ねながら、雪乃は手をふっていた。あまりにも変わらない様子に、思わずクスッと笑い
「分かったよ〜!待ってろー!今行くから〜!」
と大声を出した。
「秀君、待ってたよ。きっと大事な報告をしにきてくれたんだよね」
雪乃は、分かってたような表情を見せて、俺の目を見つめた。
ゆっくりと一呼吸。そう、今からするのは、雪乃にとって大事な報告。ちゃんと話さなきゃ。
「雪乃。遅れてごめんな。俺、ちゃんと医者になったよ。研修期間も終えて、今は正式な医者として働いている。まだ、人を救う直接的な仕事はしていないけど、これからもっと実力をつけて、多くの人を救う。必ずだ。でも、とりあえず、医者になれたのは雪乃のおかげだ。ありがとう」
そこまで言うと雪乃は胸を撫で下ろし、大きく息をついた。
「良かった…」
口から溢れたその言葉は、心配から解かれた時の安堵と、役目を終えた時の安心感が入り混じっていた。
雪乃の身体は、なんの前触れもなく透け始める。
「もう、お別れだね…」
雪乃は、俺の胸に手を置く。このどこか暖かい冷たい手を感じることができるのも、これが最後だと思うと、胸に込み上げて来るものがある。
「ありがとう。あなたのおかげで、私は救われた。もう何も思い残すことはないわ。あなただったら、秀君だったらこれからだって大丈夫。きっと多くの人を救えるよ。後悔した分以上に救うことだって、きっとできちゃうよ。だって、秀君だもん。
だから、ね?最後にもう一つ、『勲章』をあげる」
雪乃は俺を抱き寄せると、俺の唇に、唇を重ね合わせてきた。
「フフッ、あの時のお返しだよ!」
無邪気に笑った雪乃は、幻想的な泉の世界に消えていった。
「雪乃!雪乃!俺も、君に救われた!ずっとずっと、救われていた!だから……ありがとう!」
泉や、木々の他には何も見えない空間に向かって俺は叫んだ。そしてそのまま、溢れる涙をこらえきれず、一人で嗚咽した。雪乃は、こんな俺の涙をいつも拭ってくれたっけ。雪乃の顔が、笑顔が、俺の頭を駆け巡った。いくら嗚咽しても、雪乃には届いていないのだろう。最後に、涙を拭って欲しかったなんてわがままだ。
するとふと、風が吹き抜けていった。何かを運んできてくれたようなその風は、溢れ出る俺の涙を拭っていった。
「雪乃…」
俺は風の吹いた方を眺め、いつも雪乃を呼ぶ時より大きな声で
「雪乃!俺!精一杯生きるから!ちゃんと役目を果たすから!だから…、それまでそっちで待っててくれ!」
もう一度、風が強く吹いた。今度の風は、俺の声を遠くへと、俺の見ることのできない遠くの世界まで運んでいった。そんな気がした。
七年後―
俺は努力の甲斐あって、周りから凄腕内科医と呼ばれるまで実力をつけていった。
今では一病院の院長を務め、確実に成果を出し続けている。
「しかし、あなたはすごいわね。ほとんどの部分に欠点がない。手術、診察、アフターケア、そして患者への接し方。何をとってもパーフェクト。周りからの評判も高いし、気分を悪くして帰る患者さんなんて、見たことないわ」
同業者で妻の美香子が、そんなことを言う。俺が「だからなんだよ。おれはまだやれるぞ」
と聞き流すと、
「唯一の欠点は、面白味のなさね」
と付け足してきた。
「まずいいから、行くぞ」
変な冗談はよせ、と二人の息子の手を引きながら、真夏の暑い中、ある場所を目指して歩いた。
「ほら、着いたぞ」
俺たちは、例の泉のほとりの、あの木陰に立った。四十度近くある気温の中、この木陰だけはとても涼しくなっていた。
(この木も、成長してきたんだな…)
そんなことを思いながら、俺はバッグからお供え用の花束を取り出す。
そう、ここは雪乃のお墓。いつも一緒に話して、一緒に笑いあったこの思い出の場所に、俺は小さいながらも雪乃のお墓を建てた。
「ここがお父さんの『はつこい』のばしょ〜?」
子供達が俺の頬をつねってくる。
「こら〜!茶化すな!」
「あー、お父さんニヤニヤしてる〜!」
「本当だ!ニヤニヤしてる!」
息子たちにいじられながらも、お供えを続ける。
花束、果物(俺の好みで、桃)、ここらで採れた木の実、そして…
「あ、お父さん、それさっきの!」
息子が俺の手にしているものを指差す。気になったのか、それを取ろうとするが
「大事なものだから、触っちゃ駄目だぞ」
という俺の制止は素直に聞いてくれた。
「ようやく仕事を全うできるようになったぞ。これも、やっぱり君のおかげだ。
ありがとう」
静かに手を合わせる。
「これ、君のだからな」
俺は雪乃への「勲章」をお供えする。
「じゃあ、行こうか」
俺たちは泉を後にする。
不意に風が吹く。
「ありがとう」
そう言った気がした。
涼しげな木陰に建てられた雪乃のお墓。その周りには色とりどりの花と、あざやかな色をした木の実。薄いピンク色をした桃。そして「勲章」が飾られていた。
『Even distance cannot keep us apart 』
ありがとうございました
拙い文章の中に、何か感じるものがあれば幸いです