黒薔薇姫視点
優しい笑顔…しかし、幼い頃の無邪気な笑みではなく周囲との調和を図るような計算されたその微笑みを見た時、メリッサは違和感を感じたー
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メリッサ・カルティエ公爵令嬢は総てに恵まれた少女だった。宰相を務める父と傾国美女と謳われた母の間に生まれ、父の頭脳と母の美貌をそのまま引き継いだ彼女は齢十歳にして公爵家の学習過程を終了していた。
自分の置かれた環境に奢る事なく真摯に自らを磨く彼女は他人にも同様に厳しい。
同年代の貴族子女や子息に畏れられ、メリッサの容姿の特徴である艶やかな黒髪と赤みの強い煉瓦色の瞳から『孤高の黒薔薇姫』と呼ばれるようになった。
周囲に恐れられて尚もメリッサは自分を変えようとはしなかった。それは彼女自身のプライドというより、婚約者の為にそうせざる負えなかったのだ。
***
婚約者、レイナード・ウォルターとの初めての出会いは王城の庭園であった。
婚約が決まり、顔合わせと言う事で王太子であるレイナードに挨拶をと両親に連れられて行ったのだ。普段は勝ち気なメリッサも緊張のあまり前を見られず、下を向いたままドレスの裾を握り締めていた。
「どうしたの?何も怖いものなんてないから大丈夫だよ…?」
舌っ足らずながらも優しげな声に励まされ前を向くと黄金色の髪を風になびかせ、暖かみのある琥珀色の瞳を細めて柔らかに微笑む天使のような少年がいた。
「メリッサ、僕が『こんやくしゃ』です。お会い出来て光栄です」
(なんて可愛い方なの…!!)
年齢は同じはずだが、一回り自分より小さく拙く話すレイナードは兄弟がいないメリッサの保護欲をかき立てた。
「レイナード様、これからお願いしますわ」
そう言うと目の前の少年は頬を紅く染め満面の笑みを浮かべた。
今までメリッサの周囲には綺麗に微笑む者は居ても幸せそうに微笑む者は居なかった。
笑顔とは思惑があって作るものであると宰相の父に教えられていたし、実際会う人間もどこか作り物めいた笑顔を向けてきていた。
(私がこの笑顔を守って差し上げなければ)
メリッサの中に初めて灯った感情であり、彼女が恋に落ちた瞬間だった。
最初は可愛いだけだったレイナードだが、穏やかな彼は婚約者であるメリッサに優しかった。一週間に一度は顔を見せてくれ、会えない時は花や髪飾り、時にはドレスなど贈り物を届けてくれる。
「僕のお姫様」
「可愛いメリッサ」
彼にそう囁かれると心が踊った。
レイナードと会う度に、話す度に、メリッサに暖かい感情が湧き、それは蜜のように広がり彼女の心を甘やかに染めていく。
レイナードには、天真爛漫のまま無邪気な笑顔でいて欲しい。しかし、王太子に求められているのは一国に相応しい統治の力と外交能力。
大きすぎる負担は近いうち彼の性格自体を変えてしまうかもしれない。
国王となるには今のままというのは難しいだろう。メリッサが国の醜い部分を引き受ける事で少しでも助けたい。
自分が畏れられた方が都合が良い。侮られる事などあってはならない。美しいその姿と対象に知性と言葉の棘を纏う…黒薔薇姫の名は皮肉にも彼女自身が求めた姿であった。
似合いだった二人の姿は歳を重ねる事に正反対の容貌に変化していった。
闇に咲く大輪の毒の華。
光に輝く麗しの春の君。
隣に立つには似合いの姿ではなくなってしまったけれど、レイナードは変わらずにメリッサを大切にしてくれていたので、彼女は構わなかった。
彼に認められている事が…メリッサにとって一番大切な事であった。
しかし…変化は唐突に現れた。
十八歳を迎えたメリッサは社交界に於いて中心に君臨するまでに掌握していた。
側近である令嬢達に囲まれ、華やかな彼女は更に咲き誇る。流行は彼女が発信していると言われる程であった。
そんな中、異質な令嬢が社交界デビューを果たした。男爵家の養女である少女は元々、平民の出であった。だが男爵家、現在の当主に様々な事情から引き取られたという。
メリッサは、事前に耳にしてはいたものの貴族の中でも末端に位置する男爵家の話題である為に聞き流していた。
しかし、すぐにそれは間違えだったと後悔する。
男爵令嬢マリルは至極可憐な女性であった。野に咲く花のような親しみ易い雰囲気は周りの者を無意識に安心させ、作法が覚えきれていない為に失敗をするのさえ可愛らしく映る。
最初は些細な変化だった。
騎士団長の若い男が彼女の前で屈託なく笑うようになった。他人と話さない魔導長も彼女には話すらしい。
そうやって次第にマリルは様々な地位を持つ男性に取り囲まれるようになった。
それは極めて異質な事で、節操の無い事だとメリッサは窘めた。
「メリッサ様…申し訳ありませんわ」
涙を浮かべて謝りはするが改善する気は無いようで次の夜会では直ぐに男性を侍らせる。
身分の低い者の集まりならメリッサも見逃せたが、マリルを囲むのは国を動かす立場の者ばかりである。
貴族達の見本とならねばならない彼らの醜態にメリッサは頭が痛くなる思いだった。
厳重な注意をする為にレイナードにも近々相談しなければならない。メリッサはそう感じていたが、自身の結婚準備で忙しくなってしまいそのまま先伸ばしになってしまった。
***
その日、メリッサは王妃主宰のお茶会に呼ばれ城に参上していた。
「メリッサ、庭園の薔薇はご覧になって?今年は特に美しくてよ」
「いえ、まだ拝見させて頂いておりませんわ。王妃様が仰るならさぞ美しいのでしょうね…帰りに寄らせて頂きますわ」
大小様々な庭園は季節によって違う景色を見せてくれる。王城の庭園は一部を除いて開放されていてある程度の身分のあるものなら入れるようになっていた。
お茶会もお開きになり、折角なので王妃に進められた薔薇園に向かった。
確かに、今年の薔薇は一段と華やかだ。庭師のセンスも良いのだろう。色も大きさも違う薔薇が一面に咲いているが華美になりすぎず、品の良さが出ていた。
あまりにも見事だった事もあり、いつも回る場所よりも奥に来てしまった。問題は無いがあまり奥に行くと迷路のように入り組んでいる庭園では迷子になる恐れがあった。
引き返そう。そうメリッサが心に決めた時、ふと、聞き慣れた人間の声が聞こえた。
(こんな奥に…何かしら…)
メリッサは不思議に思い声の聞こえた方向へと歩いていった。
(あれは…!?)
男性を侍らせ中心にいたのはマリルだった。それだけならメリッサもこの場をそっと離れたかもしれない。
しかし…マリルが潤んだ瞳で必死に話し掛けているのはレイナードだった。
「我慢出来なくて…申し訳ありません…メリッサ様は私を目の敵にしていて…」
「マリル嬢が可哀想だ」
「メリッサ様は他の者に対しての態度が酷いと思うがね」
(何もしていないじゃない…)
確かに何度か態度を改めろと注意はしたが、それは貴族を代表する者として当然の事だと思っている。
「大体…黒薔薇姫は畏れられて従う者はいるが人望は薄い。更に気も強い…王太子殿下、考えられた方が宜しいのでは?」
自分が仕向けた印象とはいえ…そこまで思われていたとは。
メリッサは目眩のする思いでマリル達の言葉を聞いていた。
マリル達の視線の先にはレイナードがいつものように微笑んでいた。
それは、自分に向けるのと同じ綺麗な笑顔で。
無邪気なままなその笑みはこの場にはあまりにも不釣り合いで。
「私に何を求める…?」
キョトンと頭を傾けて彼らに訪ねる姿は不気味な程に美しい。
「婚約者殿との関係を考え直されたらと言っております。王太子殿下はメリッサ様をどの様に思われていますか?」
彼らを代表して騎士団長がレイナードに疑問をぶつけた。
「どの様にって…君達が思うそのままだよ。畏れられる孤高の黒薔薇姫。気位が高く、貴族の頂点に君臨する…名の通りだと思うけど?考え直せって…」
思わず耳を塞ぐ。
そこまで聞いた所でメリッサの精神は限界だった。自分の事を想って周りを諌めてくれると信じていた。まさか同調するとは思わなかったのだ。
何も考えられず、そのまま走って庭園から抜け出し、帰宅した。自分の邸宅に戻った頃になって涙が零れ落ちる。
(レイナード様だけは分かって下さっていると思っていたのに…)
しかし…自惚れでしかなかったのだ。
周囲が思うそのままと言った。
自分の印象など分かっている。傲慢で、気位が高く、女性としては決して可愛くない。
分かってはいても、どこかで期待していたのだ。レイナードは常に自分を淑女として扱ってくれたから。きっと大切に想ってくれているのだと。
現実にはそうではなかったのだ。
婚約者だから彼は大切にしてくれただけで。
思えば、今までやってきた事はレイナードに頼まれた訳ではない。
自分は何を頑張ってきたのだろうか。
ただの自己満足でしかなかったのに。
メリッサは何もする気がおきず、自分の部屋から出る事も殆ど無くなった。
(どうしようかしらね…)
窓の外を眺めながら何度となく溜め息がもれる。
結婚は間近に迫っており、本来ならやらねばならない事は山程ある。けれども、両親は落ち込む娘に無理を言うつもりは無いらしく何も言わないでいてくれる。
毎週のように訪れてくれるレイナードにも会う気がおきず、体調を理由に断っていた。手紙も、見舞いの品も送ってくれていたが義務で送っている物だと思うと悲しいだけで内容を確認する気持ちになれなった。
日々を重ねるに従って減っていくと思っていたが、送られてくる頻度が増えている。
義務の為にそこまでするレイナードにメリッサは自分の想いの分だけ憎く思うようになっていた。
こんなにも好きだったのに。
そう思うだけで、心に黒い染みが広がる。今まで甘い蜜に満たされていた彼女の心は段々と仄暗い毒に満たされていく感覚がした。
そんな時だった。
「お嬢様、王城に参られよ。と王太子殿下からの命令です」
執事が無機質にメリッサに伝えた。
「体調が優れないのだけれど…」
「典医を付けると仰っています。命令になるので…断るのは困難かと存じます」
「そう…」
(いい機会かもしれないわ…)
このまま逃げ続けられない。
婚約者である以上責任はある。全てを放り出してしまいたいという心のままに行動してはいけないのだ。
けれど、今まで通り婚約者で居続けるのは無理だと心が叫んでいる。
(相応しい令嬢を薦めて婚約解消をお願いしてみよう)
その想いを胸に王城へと向かった。
***
命令で呼ばれているので謁見の間だと思っていたが間違いだったらしい。いつもと変わらない部屋でそっと息を吐いた。
レイナードと会う時には王城にしては小さめな部屋に通されている。薄桃色を基調としたその部屋は女性が好む曲線的な家具が置かれ、レースや花柄の布で統一されていた。
幼い頃からこの内装なので、王妃の趣味なのかもしれない。
キィィ…
ゆっくりと扉が開いた。
そこからいつもと同じ柔らかな笑顔を湛えたレイナードが現れた。
「呼び出してごめんね?体調は…良さそうだね」
「邸宅に籠っておりまして…申し訳ありませんわ」
「心配したんだよ…とても」
「ありがとうございます、レイナード様。ところで今日の呼び立ての理由は何でしょうか?」
「体調が良くなっているのは君の家の者から聞いていたからね…どうして僕に会ってくれないのかなって」
キョトンとしたまま首を傾げるレイナードは年齢よりも幼く見えた。メリッサは深く呼吸をすると意を決して答えた。
「その事でお話しがあります。レイナード様、私との婚約は解消して頂けませんか?私以上に適任な令嬢も多くおります…私は女宰相としてレイナード様を支えたく思います」
辛い。
離れたくない。
愛しているのに…。
言い淀まずに伝えられて安堵した。しっかりと顔を見なければと思いレイナードに瞳を向ける…
彼は美しく微笑んでいた。
やはり、政略の上での結婚だからなのかとメリッサは肩を落とした。
そこで違和感を覚えた。何故だろうかともう一度顔を見つめる。
感情が無いのだ。能面のように笑顔を張り付けているだけで普段のように暖かみが一切無い。
美しいだけに怖い位の笑顔。
「ねぇ、メリッサ。何を言っているの?」
口調はいつものままだか、冷たく心に響く。
「ですから…」
「逃がさないよ。絶対に」
「…だって…言ったじゃない。マリル様達に囲まれていた時に。皆が思うそのままが私だって。婚約も国の為なのでしょう?それなら私の頭脳だけあれば良いじゃない。私には表面だけの貴方なんていらない…いらないの。レイナード様の事…愛しているから感情がなければ隣になんて立てないわ!!」
泣かないと決めていたのに視界が霞む。メリッサが瞬きをすると大粒の涙がポロポロと流れた。
「黒薔薇姫。そのままでしょう?」
先程とは違い、レイナードは穏やかなまま言葉を続けた。
「僕の為に棘を纏い、僕の為に美しく咲く。黒薔薇そのものでしょう?」
いつものように首を傾げた。
「…ねぇ、メリッサ、この部屋…どう思う?」
「部屋…?いつも可愛らしいと思っておりましたが…私の家は格式を重んじてあまり淡い色は使わないので…」
突然の質問にメリッサはどの様な意図だろうと不思議に思った。
正直に言えば、メリッサは可愛らしいものが大好きだった。花柄もレースも。しかし、自分に似合わないと分かっていたのでドレスも自身の部屋も落ち着いた色合いの物で周囲を固めていた。
「メリッサの宝物はくまのぬいぐるみと…珍しいガラス細工のオルゴールだよね。本当は紅茶には砂糖とミルクをたくさん入れないと飲めないし、本は少女向けの恋愛小説が好きでしょう?」
「な、なんで知ってらっしゃるの?」
「気づいてなかったの?いつも僕のプレゼントは可愛らしい意匠の物を選ばせてたのに。この部屋はね、僕が君に合うように作らせたんだよ。幼い頃から君だけを見ていたから。仕草も視線もひとつひとつ可愛いと思っていた。メリッサは表面だけなんて言ったけれど…僕にとってはいつまで経っても可愛いお姫様だよ?」
メリッサは送られていた品々を思い出した。いつも疑問ではあったのだ。自分は着ないのにフリルがふんだんに使われたドレスや少女趣味なプレゼントばかりだったから。自分の好みの物を把握していたとは…
「頭脳だけではないのね…」
「分かってくれた?僕はメリッサの事を出会った時から愛してるよ?」
そう言うとレイナードは幼い頃のままに満面の笑みを浮かべた。
その笑みは黒く染まっていたメリッサの心を溶かし、甘く塗り替えていく。
昔通りに笑う彼の腕の中、深く深く甘い蜜に染まっていく。