第六十二話 熱戦
その後は特に何事もなく、昼休憩は終わった。鬼無流の連中はあの後もぐずぐずとしていたが、結局何もしては来なかった。さすがに、これ以上のもめごとは危ないと判断したらしい。挑発的だが、最低限の引き際はわきまえているようだ。
「さて、腹も膨れたしもうひと暴れすっか!」
「ええ!」
俺が同調すると、白泉先輩は一瞬呆れたような顔をした。
「お前はもう試合終わってるだろうが!」
「ああ、そうでしたね」
「言っとくけど、場外乱闘は御法度だぜ。いくら腹が立ってもよ」
「嫌だなぁ、さすがにそんなことしませんよ!」
先輩は「本当かぁ?」とからかうように言うと、俺の方をバンバンっと軽く叩いた。彼女はガハハッと豪快に笑うと、そのまま自身が戦うEのリングへと歩いて行く。肩で風を切って歩くその姿は、まさにアニキ。実に頼もしいことこの上ない。どこからか、先輩風が吹いているような気さえする。
「先輩はまあ、大丈夫そうだな」
「腕は確かだからな。安心だろう」
うんうんと頷く俺と小夜。問題は、小夜の次の試合だな。相手はあのラーチュン、小夜と言えど油断はできない。俺は顔つきを険しくすると、改めて気を引き締めた。応援しか出来ないけど、そのぶん気合を入れなければ。
「全力で応援するからな」
「任せておけ」
そう言うと、小夜は右手を差し出してきた。俺はその手をガッシリと握ると、目を見据える。紫の瞳は、深く澄んでいた。強い意志が感じられる。この分なら大丈夫だろう。俺がそう確信すると、俺と小夜の間に竹田さんがひょこっと顔を出す。
「……あの。私も一応、応援お願いしますね」
「あ!」
「忘れてましたよね? 今完全に忘れてましたよね!? 何二人だけの世界に入ってるんですか!」
「い、いやだな……」
頬を赤くして、どこか言いづらそうな顔をする小夜。何だかんだで、こいつは人が良いからな。はっきりとは言いづらいのか。俺はやれやれとため息をつくと、もじもじする小夜と竹田さんを引き離し、きっぱりと言ってやる。
「俺と小夜はそういう関係ではないからな。絶対ないから、安心してくれ!」
「絶対ないとは何だ、絶対ないとは」
「え? 俺とおまえはただの幼馴染だろ? それ以上でもそれ以下でもない」
「な、お前は私に興味ないのか!?」
「そりゃあ……ない」
俺がそう言うと、たちまち小夜の顔が真っ赤になった。肩が、ブルブルと震え始める。え、何? もしかして、行ってはいけないことを言ってしまった? また? 俺はひとまず、助けを求めるべく竹田さんに視線を振った。すると彼女は、額に手を当てて、ふうっと大きく息を漏らす。
「そりゃ、女の子に向かってはっきり興味見ないなんて言っちゃ駄目ですよ。特に疑われるような関係でなくたって、そこはちょっと恥ずかしそうにしてあげるのがマナーってもんです! 塾頭だって、女の子なんですから!」
「……だってとはなんだ、だってとは?」
小夜はギロリと目を輝かせた。その視線の冷たさに竹田さんはたちまち震えあがり、その場を緊急離脱してしまう。
「で、ではまた後ほど!」
「あ、こら! ……まったく。タクトもタクトだぞ、少しはデリカシーってものを考えろ」
「うん、そうだな」
「何だその渋い顔は、お前は前々から私に対してだな……」
「そんなことより試合だ! そろそろ時間だぞ!」
そう言って、俺は壁に掛けてある時計を指差した。時刻は一時二十五分、あと五分で試合開始だ。俺の言葉に、小夜は渋い顔をしつつも気分を切り替える。
「そうだな。よし、気合を入れていくぞ!」
「おうッ!」
こうして、リングへと向かう俺たち。するとすでに、その脇でラーチュンが待ち構えていた。彼は顎ひげを擦りながら、小夜の顔をまっすぐに見据える。一触即発。先ほどまでの和やかな空気が一変し、一気に張り詰めてしまう。嵐の前の静けさ。そう形容するのがふさわしい、不気味な静寂が周囲を漂い始めた。二人はそのまま何も言わず、リングへと上がる。それを追いかけるようにして、審判がトットと小走りで入場した。
「では、ただいまより試合を開始します! 始め!」
審判の男が、高く掲げた手を一気に振り下ろす。それと同時に、小夜とラーチュンは互いに距離を詰めた。だが、そこからは動かない。互いに隙を見つけようと目だけは盛んに動いているが、身体の方はほぼ静止していた。無音。汗の滴る音さえも、聞こえるようである。
「ハァッ!!」
先に仕掛けたのは、小夜であった。彼女は姿勢を低くすると、そのまま居合抜きのような要領で、ラーチュンへと斬りかかる。衝突。小夜の木刀とラーチュンの構えた寸鉄が、激しく軋みを上げる。互いに木製であるのに、一瞬、火花が散ったように見えた。
「さすがだッ!」
小夜は刀を押し出すようにして一回転すると、今度は足でラーチュンの身体を狙った。ラーチュンはそれを左手で受ける。が、威力を完全に殺し切れなかったようだ。彼は顔しかめて身体をよろめかせると、一旦飛びのいて体勢を立て直す。
「おうおう、可愛いおなごなのに大した力じゃのう」
「そちらだって、良くその老体で受け止めたものだ」
「なーに、鍛えておるからの。まだまだ本番はこれから」
「私だって!」
互いに改めて構えをとると、乱戦が始まった。小夜が木刀を繰り出せば、ラーチュンが寸鉄で防ぎ。ラーチュンが寸鉄を振るえば、小夜がそれを木刀で防ぎ。一進一退。ステータスの上では小夜がラーチュンを押しているが、ラーチュンは長年の経験でそれをカバーしているようだった。小夜を剛とすれば、ラーチュンは柔だろうか。小夜の猛攻を、上手く勢いを殺して凌いでいる。
だが、さすがに高いステータスに由来する超威力の攻撃はきついのだろう。徐々にではあるが、小夜がラーチュンを追い詰め始めた。じりじりとラーチュンは後退を始め、やがてリングの端まで追い詰められてしまう。あと少し。もう少しで押し切れる! そう確信した俺は、思いっきり声を張り上げる。
「いけ、小夜! あとちょっとだ!」
「……違う」
「え?」
小夜のつぶやきに、俺は驚いて目を見開いた。茫然とする俺の前で、小夜は動きを止めるとラーチュンから距離をとる。
「どうして、本気を出さない?」
「見抜かれておったか」
「追い詰めているのに、動きに妙に余裕があった。まだ、何か手があるのだろう?」
小夜がそう尋ねると、ラーチュンはニッと目を細めた。一見すると人懐っこい笑みだが、底が見えない感じだ。何を考えているのか全く読めない。ある種の気味の悪さに、俺は身体をぶるるっと震わせた。これが本当の達人という物なのだろうか。壮絶な凄味がある。
「良く見抜いたの。油断したところで噛みついてやろうかと思ったが、甘かったか」
「か、噛みつきはルール違反ですぞ!」
ラーチュンの言葉に、慌てる審判。それに対してラーチュンはにこやかにほほ笑むと、まあまあと手を振る。
「言葉の綾じゃよ。落ちつきなされ」
そういうと、彼は今まで腕に沿うようにして構えていたL字型の寸鉄を、ひっくり返して外側へ突き出すようにして構えなおした。それを見た小夜は、たちまち目を細める。
「なるほど、それが牙というわけか」
「そうじゃ。それも、ただの牙ではないぞい!」
身体を傾け、疾走するラーチュン。速い! 風を切るその姿は、残像すら残していく。小夜はとっさに回避しきれないと察したのか、その腕の一撃を刀で受け流そうとした。迫りくる寸鉄に刀を沿わせ、その軌道を逸らす。だが――
「クッ!」
小夜の頬を赤い線が走る。血が、たらりと滴った。寸鉄の先端は、安全のため丸く加工してある。それにも関らずだ。あまりに鋭く、あまりに速い。当たりどころが悪ければ死すらもありうるその一撃に、小夜の眼が驚きで丸くなる。
「まさか、これほどとは」
「安心せい、殺しはせぬし顔も傷つけぬ。降参するまで、追い詰めるだけじゃ!」
始まる攻勢。先ほどまでとは一転して、ラーチュンが小夜を一気に追いたてる。その様子は、まさに虎。老獪な大虎が、じわじわと獲物を追いこんでいくかのようである。上手い。小夜の側に立つはずの俺ですら、そう思わずには居られなかった。身体を鞭のようにしならせながら、変幻自在に小夜のガードをかいくぐる。白い道着が少しずつ裂けていき、血が飛ぶ。
「そろそろ逃げられんの。まだ、降参せぬか?」
いつの間にか、小夜はリングの端へと追い詰められていた。完全な形勢逆転だ。さすがの小夜も余裕がなくなり、鋭い眼がさらに細まる。窮鼠。まさにそういうのがふさわしい。それまでその他大勢と一緒になって応援していた俺は、ここで思わず、一歩前へと出た。そしてリングの端を掴むと、必死で呼び掛ける。
「小夜! 大丈夫か!」
「何とかな」
「ガンバレ、絶対勝てよ?」
「お前が言うなら、やってやるさ!」
そう言うと、小夜は大きく深呼吸をした。彼女は体をほぐすようにして肩を回すと、ラーチュンを見据える。その瞳は先ほどまでとは違い、酷く落ち着いていた。空気が変わった。その場に居た誰もがそれを実感し、応援の選手たちまでもが押し黙る。その深い静寂の中で、小夜は酷く小さな声で宣言した。
「三秒後、私は倒れるだろう。が、それは勝利の時だ――」




