第六十一話 老師
本来なら、白く清潔感に溢れていたであろう食堂。そのリノリウムの床に、割れた皿と料理が飛び散っている。スープが薄く広がり、その上をゆらゆらとレタスが漂っていた。紅いソースが飛び散り、白いパンがまだらに染まっている。混沌。元は美しかったであろう料理が混然一体と混ざり合い、何とも醜い物へと成り果てていた。
「だ、誰がこんな……!」
「ひどい!」
「せっかくの飯を、許さんぞ!」
食事を台無しにされ、声を荒げる小夜や俺たち。すると、事件の犯人はすぐに見つかった。連中は悪びれる様子もなく、飛び散った料理のそばでへらへらと笑っていたからだ。その揃いの道着を見た途端、こみ上げる怒りに拳が震える。
「また、お前らか……!」
「すみませんねえ。私が取ったスープに虫が入っていたもので、つい」
「虫が入ってた、だと?」
俺の問いかけに、村里は軽い調子で頷いた。そして、親指と人差し指で小さな隙間を作って見せる。
「これぐらいのね、ハエですよ。私の以外には入ってませんでしたけど、念のため全部『捨てて』おきました」
「そんなことで、これをやらかしたのか?」
「ええ。みなさんがお腹を壊したら、大変じゃあないですか」
細い目をわずかに開き、ニタァっと粘着な笑みを浮かべる村里。その顔を見た瞬間、俺は身体が芯から凍りつくような感覚に囚われた。こいつは、俺たちとは何かが違う。狂っている――いや、そんな単純なもんじゃない。もっと複雑で恐ろしい何かだ。
「いい加減にしろ……」
俺のすぐ脇に立っていた小夜が、低い声で呟いた。抑揚のない、機械が出しているような冷淡に過ぎる声だった。そこに含まれたあまりの怒気に、俺はとっさにその肩へと手を伸ばす。だがそれを、竹田さんが制した。
「行かせてあげましょう」
「いや、でも……」
村里へ向かって歩く小夜。その背中から発せられるオーラは、ただごとではない。空気が痺れているようだ。このまま行かせれば、まず間違いなく喧嘩が始まる。もし試合前に騒動が起きたら、最悪出場停止だ。そのことは竹田さんだって分かっているだろうに、何故か手をどかしてくれない。
「止めたって、塾頭は止まるような人じゃないですよ。それに、一度すっきりした方が収まるってものです」
「けど、ここで問題を起こしたら……」
「本当にヤバくなったら、私が止めますから」
そう言うと、竹田さんはバシッとサムズアップをする。力強い、いい笑顔だ。だけど何となく頼りにならなさそうなのはどういうことだろう。俺は胸にこみ上げる不安感を覚えつつも、ひとまずは黙って小夜の方を見る。
「お前らが、これをやったんだな?」
「ええ、そうですよ」
「だったら、自分たちで処理をしろ!」
そう叫ぶと、小夜は近くに落ちていたショートケーキを手にした。そしてそれを、皿ごと勢いよく村里の方へと投げつける。ホイップクリームを飛び散らせながら、一直線に飛ぶケーキ。村里は突然の出来事に、あっけに取られたように目を見開いた。当たる――! 俺は顔面が真っ白になった村里の姿を想像して、争いは避けられないものだと直感した。だがその直後、予想外のことが起きる。
「曲がった!?」
直立していたはずの村里の身体が、あり得ない方向へと曲がった。腰をずらして見せるマジックがあるが、まさにそんな感じだ。腰を切り離してしまったかのように、上半身が大きく左側へずれる。ケーキは何もない空間を突っ切り、そのまま床に落ちた。蛇か、軟体動物か。人間離れしたその動きに、堪らず息を飲む。
「な、バカな……!」
「これが鬼無流柔術です。なかなかのもんでしょう?」
「クッ、ならこれでどうだ!」
小夜は落ちていた皿を二つ手にすると、それらを上下に分けて一気に投げた。二つの軌道で迫る皿。足元と肩のあたりを狙ったその一撃は、さすがの村里でも回避はできないように思えた。だが、彼はまたも嫌味な雰囲気の笑みを浮かべると、ひょいっと軽やかに飛び上がった。そして空中で身体をコの字型にまで曲げると、皿を見事に回避しきってしまう。熟練の軽業師か、はたまた超人か。とにかく、並の人間には出来ない芸当だ。その見事さに、俺たちは一瞬、怒りを忘れて見入ってしまう。
「武術の技を、下らんことに使いおって……! 許さんぞ!」
「私たちの技です。どう使おうが、勝手でしょう?」
「もう、我慢できん!」
さらに足を前に踏み出し、村里の方へと歩み寄ろうとする小夜。その手を竹田さんがガッシリと掴む。
「待ってください! これ以上は行かせません!」
「そこをどいてくれ。私はどうしてもあいつを殴らないと、気が済まん!」
「でも!」
「いいから!」
「わ、わかりました! 好きにしてください!」
小夜の気迫に、あっけなく押し切られてしまう竹田さん。お、おい!? 私が止めるんじゃなかったのか? 俺がそう思う間もなく、小夜は腰に携えていた木刀を引き抜いた。刹那、疾走する刀。切っ先が直線を描き、村里の頭へと吸い込まれていく。再び曲がる腰。だが、小夜の放った木刀はその有機的な軌道を見事にトレースした。猟犬のように、動きまわる村里の身体に喰らいついて行く。彼の細められた瞳が、おやっと見開かれる。これは、入った――! 俺は小夜に叩きのめされる村里の姿を想像して、グッと拳を握った。だが、その直後――
「これこれ、ほどほどにせんか」
小夜の木刀が、寸鉄のような物で止められた。受けたのはもちろん、村里ではない。ラーチュンだ。いつの間にか姿を現した彼が、小夜と村里の間に割って入ったのだ。全く予想外の人物の登場に、二人の顔が硬直する。
「な、なぜ!? あなたには関係ないはずだ!」
「関係ないことはないじゃろう。わしはそなたの対戦相手じゃからの。ここでそなたに居なくなられてはつまらん」
「居なくなる……?」
「そうじゃ。このまま争いを続けておったら、出場停止になっていたじゃろうて」
目をカッと見開き、重々しい口調で告げるラーチュン。彼は小夜の顔から視線を逸らすと、食堂の端の方を見た。するとそこには、いつの間にか黒服の男たちが集結していた。ラルネと四条院先輩の姿も見える。騒ぎを聞きつけて、主催者側の人間も集まってきていたようだ。このままここで争いを始めて居たら、まず処分は免れなかっただろう。間一髪、だ。
「ここはこの年寄りの顔に免じて、引き下がってはくれんかの」
「……わかった」
「そなたも、良いな?」
ラーチュンは後ろへ振り向くと、村里の顔を見た。彼は参ったなと頭を掻くと、こくんと軽い調子で首を振る。その様子は、さながら親に叱られた意地悪坊主のようであった。亀の甲より年の功、さすがの村里も年長者の意見には簡単に逆らえないらしい。
「よし。では、神凪殿じゃったかの。次の試合、楽しみにしておるぞ」
「は、はい!」
小夜が返事をすると、そのままラーチュンはどこかへと立ち去ってしまった。それと入れ替わるようにして、黒服たちが部屋へとなだれ込んでくる。その先頭に立った四条院先輩は、会場を広く見渡すとはきはきと指示を出す。
「料理についてはすぐに取り換えさせていただきます! なお、それに伴って休憩時間を三十分延長と致しますわ!」
「おう、そりゃありがてえ!」
「なお、今回の件を起こした鬼無流柔術の方々は厳重注意と致します。代表の方は、後でこちらまでいらしてください」
「はいはい、わかりましたよ」
数名の黒服によって瞬く間に食堂は綺麗に清掃され、再び料理が並んだ。あらかじめ用意していたのでは? そう思ってしまうほどの、手際のよさだ。さすが四条院家、伊達じゃないな。作業を終えて食堂を出ていく黒服たちを、俺たちは半ば茫然と見送る。
「さてと、料理も戻ったし食うか!」
暴れるタイミングを逃したせいか、やや消化不良といった様子の白泉先輩。彼女は皿を手にすると、一目散に料理の方へと走って行った。ナイフを肉に突き刺し、物凄い勢いで吸いこんでいく。さながら、どこぞの大食い選手権のような勢いだ。フードファイターとでも言った方が良いかもしれない。
「俺たちも、早く飯にするか」
「すいません、止められなくて」
申し訳なさそうな顔をする竹田さん。俺は一瞬ムッとしたが、その顔を見て怒るのをやめた。美少女が顔を下に向けて、目を潤ませているのだ、怒るに怒れない。哀しい男の性だ。代わりに、俺はその頭をわしゃわしゃと撫でる。
「反省してるならいいさ。今度からはしっかりしてくれよな」
「もちろんです!」
「さて、そのことは置いておいて……小夜は何を食う?」
「ん?」
俺の言葉に、小夜は心ここにあらずと言った様子で返事をした。食い意地の張った小夜らしくもない。
「なんだ、まだ収まらないのか?」
「いや、そのことじゃなくてな。あのラーチュンって爺さんのことだ」
「あの人がどうかしたのか? 止めてくれたし、いい人じゃないか」
「そういうことじゃない。その、なんだ。止めに入る時、気配が全くなかったんだ。こんなこと今までなかった」
緊張した面持ちで呟く小夜。その表情は強張っていて、額からは汗が落ちていた。小夜がこんなにビビっているところを見るのは、生まれて初めてだ。
「あいつ、強いのか」
「恐らくな」
「勝てるか?」
「自信はある。だが正直、断言はできない」
小夜は珍しく不安をあらわにした。いつになく小さく見えるその手を、俺はがっしりと握りしめたのだった――。
宇宙一偉いモヒカン神+砂漠のロンリーウルフ=竹田さんの性格です。
……この説明で分かる方、どれぐらい居るんでしょう。




