第四十六話 ロココと新聞配達
翌日。眼が覚めると、何か柔らかな物が顔を塞いでいた。布団ではない。人肌ほどの暖かさのそれは、さながら特大のマシュマロのようだ。手で触れると指がどこまでも沈みこんでいく。たっぷりとした重量感と、頬に伝わる心地よい感触。これはもしや……俺は、普段使っているマウスパッドの感触を思い出した。あれにそっくりで、両手でも持て余す大きさ。考えられる物は一つしかない。
「おっぱい……!?」
「お、目が覚めたか」
「何だと……!!」
道着を着た小夜が、布団にもぐりこんで俺に抱きついていた。胸元が肌蹴て、谷間が覗いてしまっている。深い渓谷が、瞬く間に俺の視界を埋めた。ど、どういうことだよこれ! あ、ありえねえェ!! 俺はすぐさま跳ね起きると、小夜を強引に引っぺがした。すると、彼女の眼がニタァっと猫のように細まる。
「一発で目が覚めただろ?」
「普通に起こせ、普通に! 朝から心臓に悪いわ!」
「さすがに興奮させすぎたか。理想のシチュエーションだもんな、これ」
そう言うと、ベッドの下をがさごそと漁り始める小夜。やがて彼女が取りだしたのは、ゲームのパッケージだった。……うん、エロゲだ。俺秘蔵のお宝エロゲである。ネットに流せばプレミア価格がつくこと間違いなしの名作「幼馴染は七人居る!」だ。よりにもよって小夜にこれを発見されるなんて、ついてないにもほどがあるぜ……!
「感謝しろよ、割と原作に忠実に再現してやった」
「バカ、お前にされても嬉しくないわ! そういうのは『ただし美少女に限る』なんだよ!!」
「人がせーっかく快適に目覚められるようにしてやったのに! なんだその言い草は! だいたい、今の私は美少女だろ」
「自分で美少女と言うな、自分で」
これだから、何か違うって感じがするんだよな。俺は小夜の行動に呆れつつも、ゆっくりと伸びをした。そうしてあたりを見渡すと、まだ部屋の中は薄暗く、ひんやりとした空気に満ちている。朝になれば日が差し込んでくるはずの窓も、ほとんど真っ暗な状態だ。枕元の時計に目をやれば、時刻は五時ちょうど。早い、あまりにも早い。小夜のとてつもない行動のおかげで眼はすっかり冴えているが、いつもならグースカ寝息を立てている時刻だ。
「おま、なんつー時間に起こすんだよ」
「言っただろう? 今日から道場に来いって。朝練の時間だ」
「待った待った、そういうのは普通学校から帰って来たからじゃないか……?」
「全くこれだから素人は……一日の基本は朝だぞ朝。朝練をしないでどうする」
そういうと、小夜は俺の肩をガシッと掴み、強引に引っ張り始めた。仕方ないなぁ……。俺はよろよろとベッドから起き上がると、一旦小夜を部屋の外に追い出し、急いで着替えをする。道着を持っていない俺は、ひとまずジャージを着込んだ。これで良し。こうして再びドアを開けると、早速小夜が手を引っ張る。
「へえ、意外と気持ちいいな」
外に出ると、ひやりと冷たい風が頬を撫でた。周囲にはまだ人気がほとんどなく、静寂に満ちている。薄暗い空のもと、街灯がぼんやりとした灯りを投げかける風景は独特の雰囲気があった。最近はほとんど七時以降に起きているので、普段はなかなか見ない町の一面だ。俺は清々しい空気を肺いっぱいに吸い込むと、ふーっと大きく息をつく。こういうのも、たまには悪くないかもしれない。
「さ、まずはジョギングからだ。ここから町内を一周するぞ」
「まて!?」
俺たちの住んでいる町は、何だかんだ言って結構広い。一周すれば十キロ近くはあるんじゃないだろうか。とても、朝から走るような距離じゃない。自慢じゃないが、俺は千五百メートル走で必死になる程度の体力の持ち主だ。十キロ走ったらどうなるのか、想像すらしたくない。それにまだ、学校と放課後を残しているんだぞ……!
「そんなに走ったら死ぬ!」
「大丈夫、死ぬって言って実際に死んだ奴はいない! いざとなったら背中ぐらい押してやるさ、な?」
「いやいや、そうは言ってもな……」
「行くぞー!」
「お、ちょっと無視すんな!」
颯爽と走り始める小夜。置いてきぼりになるわけにもいかないので、俺もその背中を追いかけて走り始める。朝の穏やかな景色がぐいぐいと加速を始めた。さすが小夜、ジョギングと言っている割にかなりペースが速い。おばちゃんがゆっくりと自転車を漕ぐぐらいのスピードだろうか。もたもたして居たら置いてかれてしまう。俺は改めて気合を入れると、タッタとペース良く地面を蹴る。
「小夜、駄目……!」
出発してから、どれぐらいの時間が経っただろうか。周囲が夜から朝へと装いを変えていく中、俺はフラッフラになりながら走っていた。自分がどれだけ走ったのか、あれから何分経ったのかすらわからない。感覚的には、生まれてからずーっと走っていたような気さえする。筋肉はパンパンで、肺は焼けつくようだ。
「まだやっと半分を過ぎたところだぞ! 頑張れ!」
「嘘……だろ……?」
これだけ死にかけておいて、まだたったの半分だと……? 「私はあと二回変身を残しています」と、ラスボスに言われた勇者のような気分だ。絶望感。人生最大級のそれが、俺の豆腐ハートを潰そうとしている……! ク、こうなったら最後の手段を使うしかあるまい。出来れば、後でつらそうだから使いたくなかったんだが――
「体力アップ!」
「なッ! お前、それじゃ鍛錬にならんだろ!」
「うるさい、勝てば官軍なのだよ!」
知能と器用、そして容姿をそれぞれ削り、体力へと注ぎ込む。するとたちまち、全身に気力が満ちてきた。これが、体力があるということか……! 俺はほとばしる力の赴くまま、一気にアスファルトを蹴る。先ほどまで金属で出来ているかのように重かった身体が、羽根のようだ。ホップ、ステップ、ジャンプ! 軽やかに足が動く動く!
「ヒャッハー!! 最高! ……のがッ!」
入り組んだ路地の先にある小さな交差点。調子に乗ってろくに前を見ずにそこへ飛び込んだ俺に向かって、猛スピードで自転車が走ってきた。やべッ、避けられない……! 俺はとっさに腕力へとポイントを注ぎ込む。衝撃。響き渡るブレーキ音。自転車のカゴに満載されていた新聞紙の束が、バッと宙を舞う。衝撃の大きさに、俺も相手も路上に倒れてしまった。そんな俺たちの方に、すぐさま小夜が駆けよってくる。
「大丈夫か!?」
「ああ、俺の方はな。そっちの方は、大丈夫ですか?」
「私も何とか、大丈夫ですわ」
そう言って起き上がった新聞配達員は、大きなマスクを顔に付けていた。しかも、周囲はまだそれほど明るくはないと言うのにサングラスもしている。変装の下手な芸能人のようなスタイルだ。さらに女性のようだが、口調も妙にお上品である。一体何だ、この人……? 不審に思った俺と小夜は、その場で一瞬固まってしまった。そうしていると、彼女は飛び散った新聞紙をそそくさと片づけ始める。
「あ、手伝いますよ!」
「別にいいですわ……じゃなかった、別にいいです! 一人で出来ますから、手伝わなくて結構。……痛ッ!」
アスファルトに擦りつけてしまったのか、白い手の皮膚が痛々しくめくれて赤くなっていた。傷は浅いようだが、範囲が少し広い。血も軽く滴る程度には出てしまっている。俺はすぐさま持っていたハンカチを取り出すと、彼女の方へと差し出した。
「これ使ってくれ。そのままじゃまずいだろ」
「受け取れないです、こんなの!」
「いいから使ってくれ、悪いのはこっちなんだから」
そういって、少々強引に差し出すと新聞配達員の少女は渋々ながらも受け取った。彼女はハンカチを手に巻きつけると、ぎゅっと縛って止血をする。そうしている間に、俺と小夜は飛び散った新聞をすっかりカゴの中へと戻した。ついでに緩んでしまっていた荷台の紐もしっかりと締め直して、新聞の山を整えてやる。
「ではまた、ごきげんよう……じゃなかった、また今度!」
「ええ、また」
「怪我、大事にしてくれ」
自転車をかっ飛ばし、再び猛スピードで走り去っていく新聞配達員さん。朝から強烈な人に会ってしまったな。けどまあ、お互いに大した怪我がなくて本当に良かった。俺はやれやれと胸をなで下ろす。するとその瞬間――
「ゲッ、ステータスが……!!」
「へえ、それで朝から死にかけてるのか」
「まあな、酷いもんだよ。限界だーって言ってるのに、帰りもしっかり走らせたんだぜ」
「いいじゃねえかよ。小夜さんだったら、どれだけいじめられても俺なら幸せだぞ」
朝のHR前。いつもより早めに学校へ着いた俺は、同じく若干早めに学校へ着いていた佐伯と駄弁っていた。佐伯の方は、何でもエロゲ攻略のために徹夜したら逆に朝から眼が冴えてしまったんだとか。重度のオタには良くある話だ。良くある話なんだが……今日の俺にはつらい。何と言うか、殴りたくなる。俺は能天気にしゃべりまくる佐伯に少し辟易しながら、窓の外を見ていた。すると校門の前に、一台の黒いリムジンが止まる。人が重い足を引きずってえっちらおっちら学校へ来たと言うのに……! けしからん!
「四条院先輩は今日もリムジンかよ。羨ましいなーッ!!」
「ははは、しょうがねえよ。ロココ先輩は財閥令嬢なんだから。むしろ、何で俺たちの学校へ来てるのってぐらいの話だからな」
「そうは言っても、ここまで住む世界の違いを見せつけられるとさあ……。よし、こうなったらガツンと言ってやる!」
「そうだ、言ったれ言ったれ!」
窓から身を乗り出すと、俺はリムジンから下りてきた四条院先輩に向かって思いっきり怒りをぶちまけようとした。だがその時、予想外の物が目に飛び込んでくる。ハンカチだ。四条院先輩の手に、俺のハンカチが巻き付けられている。渡した時は気にもしていなかったが、後から「あれ、一番クジの限定品だったー!!」と激しく後悔したので、その絵柄を俺ははっきりと覚えていたのだ。間違いない、場所もぴったり同じ。けど、どうして……?
「ありゃ……!?」
ガツンと言ってやるはずだった俺は、そのあまりにも衝撃的な出来事に、ただ茫然とつぶやくことしかできなかった――。




