第三十二話 ドリル
小夜の身体が、以前の状態に戻ってしまった。線の細い肢体はきれいさっぱり消失し、代わりに筋骨隆々とした巨体が鎖に繋がれている。その顔は、鬼とゴリラを足して二で割ったような厳めしいことこの上ないものだった。鋭い三白眼でこちらを見下ろしてくるその姿は、まさしく「オーガ♀」と称するのがふさわしい。……嘘だろ、小夜が昔に戻りやがった! 焦った俺は、急いでステータスを開いた。すると、135もあったはずの小夜の容姿が5にまで低下してしまっている。
「一体何が……」
「これがこの子の正体なのよ。神凪さんをどこかに隠して、密かになり済ましてたんだわ!」
「えッ?」
成り済ますも何も、これが元々の小夜の姿なんだが……そう考えたところで、俺は思い出した。小夜が元々オーガ♀だったことを覚えているのは、俺と小夜だけなのだ。先輩や周りの人々は、小夜が「最初から美少女だった」と思い込んでいる。そう考えれば今の小夜が小夜ではないと考えても不思議ではない。これはまずいぞ……! 直観的にそう思った俺は、慌てて先輩に説明を始める。
「先輩、あのこれは……」
「あなた、何か知ってるの?」
「はい。実は……」
俺はこれまでの経緯を、出来るだけわかりやすく先輩に説明した。すると彼女は、訝しげな顔をしながら小夜に近づき、その身体を上から下まで念入りに確かめる。やがてその白い手が小夜の喉元に伸び、その逞しい肩から首のラインを撫でた。
「あなた、本当なの?」
「…………はい」
銅色の頬を赤くして、首をすくめるようにして頷く小夜。その仕草に先輩は顔をひきつらせつつも、低く唸る。やはり、そう簡単に信用出来ないようだ。無理もない、俺も事実を受け入れるのにしばらく時間がかかったからな。
「うーん、信じられないわね。そもそも、どうしてこんなことになったのよ。一度上げた能力値は、二度と戻らないはずでしょう?」
「それはそうなんですけど……。小夜、一体何があったんだ?」
「私はただ……先輩に貰ったドリルを使って勉強していただけだ。そしたら昨日の夕方あたりから、急に身体の具合がおかしくなってな……」
「それで、包帯を巻いてたわけか」
小夜は黙って小さく頷いた。なるほど、それでこの間小夜の家を訪れた時も、必死でドリルを隠してたんだな。というか、あのときの幽霊ってもしかして……。
「お前、まさかあの幽霊って」
「…………一時的に戻った姿が、窓に映って勘違いしたようだ」
「自分で自分を幽霊扱いしたのか」
しかもあの時、小夜は「恐ろしい男」と言っていたはずだ。自分の目で見ても、男にしか見えないのかよ。まあ俺が昔、兄貴と呼んでいたぐらいだから、下手な男よりもよっぽど男らしい姿なんだけどさ。さすがにそれは酷い。いくらなんでも酷過ぎる。
「お前なぁ……」
「ストップ」
呆れのあまり、小夜を問い詰めようとした俺を先輩が制した。彼女は冷静な眼差しで小夜を見据えると、今ひとたび問いかける。
「とりあえず、あなたが本物だと言うことを証明できる方法はある? 証拠がない限り信用できないわ」
「それは……。とにかく、私は本物なんだ! タクトからも何か言ってくれ!」
「ええ!? ああ、そうだな。俺もこの小夜は間違いなく本物だと思います!」
「それだけじゃ、証拠にはならないわよ」
やれやれと草臥れたような顔をする千歳先輩。その眉間に刻まれた皺は深く、そう簡単に疑念は晴れないようだ。俺の証言だけでは、これを覆すことは難しいな。何とか、この小夜が本物の小夜だと証明しなければ。しかし、物的証拠は……。俺は頭の中をひっくり返してみるが、なかなか良いアイデアが浮かばない。仕方ない、ここは消去法で行くしかないか。
「あの先輩。そもそも小夜が化け物だと思った理由は何ですか? これだけ準備してたんですから、今の変化が理由じゃないですよね?」
「ええ。昨日、私が人形を使って神凪さんを尾行したことは覚えているわね?」
「はい、もちろん」
「あの後、人形を回収して見知った出来事を報告させたの。そしたら神凪さんと白泉さんが大喧嘩して、途中で神凪さんが鬼に変化したって言うじゃない。そこから疑い始めたのよ」
「なるほど……」
俺はうんうんと頷くと、小夜の方を一瞥した。すると小夜は「ん、ああ……」とどもったような声を出すと、ゆっくりと頭を縦に振る。こいつ、まだ何かを隠しているのか? 俺はその煮え切らない態度に、たまらず詰め寄る。
「小夜、知ってることは全部言ってくれ。白泉先輩のところへ行った時から、お前ずーっと何か隠してるだろ!」
「…………それは、そのだな……」
「良いから言え。さもないと……」
俺は右手を高々と掲げると、指先を細かく動かし始めた。一時間に一万文字タイプできる俺の黄金の指先が、眼にもとまらぬ速さで動き始める。テクニシャン。この動きを見せた男は、必ず俺のことをこう呼ぶ。蠢く指は、さながら骨のない触手のようだ。
「お前、まさか……!」
「見せてやるぜ、俺のテクニックを!」
俺は抵抗する小夜の服の中に、素早く腕を差し入れた。小夜は身をよじって抵抗するものの、鎖で身動きが取れない。そして――
「アッーーーー!!!!!!」
「はあ、あはは……話す、話すから!」
苦しげな表情をしつつも、笑いを堪え切れないと言った様子の小夜。まさに腹筋崩壊といった状態の彼女をくすぐっていた指を、俺はすぐさま止めた。ゴリラさながらのごついなりをしているが、こいつは昔からくすぐりに弱い。もっとも、こうやって動きを止めた状態でなければくすぐるなんてことできないけどな。……一応、女を相手にしているはずなのにどこかヤバい雰囲気だったのは気のせいだと思いたい。俺はノーマルのはずだ。
「さて、話してもらおうか」
「……わかった。実はな、私が使っていたドリルはもともと白泉先輩が例の塾からかっぱらって来た物らしいんだ。一昨日、塾のチラシを見たときにおかしいと思って先輩に確認したんだが、その時は上手くはぐらかされてな。だけど昨日、塾へ行って同じ物を見つけたからもう一度確認してみたんだよ。そしたらってわけさ」
「それで喧嘩したわけか」
「ああ。いくら先輩でもドリルを盗んでるなんて思ってなかったからな。てっきり、誰かから貰った物だと思っていた」
これで小夜の行動に大体の説明がついたな。一昨日の外出は先輩に事情を聴くため。幽霊騒動は、窓に映った自分の姿を幽霊と勘違いしたため。昨日の先輩との喧嘩は、先輩が物を盗んでいたから。全てが矛盾なく説明できる。だけど、おかしいな。先輩は何でそもそも、塾のドリルなんて微妙な物を盗んだんだ? あの人の性格なら、金かバイクだろう。
「なんでドリルなんて盗んだだろ。先輩、わかります?」
「さあ。成績で私に勝ちたかったからかしら。そうだとしても、いろいろと疑問が残るわね」
「うーん……」
「とりあえず、問題の塾へまた行ってみたらどうかしら。何か分かるかもしれないわよ」
「……俺一人でですか?」
俺が恐る恐るそう尋ねると、先輩は小夜の方をチラリと見た。そして、申し訳なさそうに告げる。
「まだ完全に神凪さんのことを信用したわけじゃないわ。だから、私はここを離れられない」
「ということは、他に頼りになるのは……居ないですね」
この手のことで先輩の他に頼りになるのは、竹田さんと美代さんぐらいだ。けれど今の竹田さんはとても戦える状態ではないし、美代さんはその世話で手が離せない。二人とも無理な状態だ。そうなると、頼りになるのは俺自身だけ。俺は自分の身にのしかかってきた責任に、身体が重くなるのを感じる。けれど、頑張らなくては。この間は、結局先輩や竹田さんたちに頼ってしまっていたからな。今回ぐらいはしっかりしないと! 俺は縛られた小夜の姿を改めて見ると、拳を堅く握りしめる。大丈夫、俺にはステータス再割り振り能力がある――そう、自分で自分に言い聞かせた。
「わかりました、行ってきます」
「気をつけてね。あ、そうだ」
先輩は制服のポケットに手を突っ込むと、小さな瓶を取り出した。掌にすっぽり収まるほどのそれは、腹が太く両端の窄まった形をしている。やや蒼みを帯びたガラスの中には、透明な水のような液体が入っていた。これはもしや、聖水か何かだろうか?
「聖水ですか?」
「いえ、富士山の天然水よ。箱で買ったら余ったの、喉が乾いたら飲んで」
「何でただのミネラルウォーターをわざわざこんな凄そうな瓶に!」
「その方がおいしそうに見えるから」
……もう何も言うまい。俺は瓶をポケットに突っ込むと、黙って先輩に頭を下げた。そうして部屋を後にすると、急いで駅前の塾へと向かう。そうして、急ぎ学校を出て歩くこと十五分。俺は真剣塾のある雑居ビルの前へと到着した。するとテスト明けにもかかわらず、多数の生徒がビルのドアへと吸い込まれていく。さすが、金持ちのエリートたちはテスト期間など関係なく勉強していると言う事か。俺は感心したように息をつく。
しかし、これだけ人が多いと厄介だ。万が一荒事になった場合、一般人の生徒たちまで巻き込んでしまう。何か生徒たちをビルの外へと追い出すいい方法は無いか……。そう思ってあたりを見回すと、俺の目に一人の男の姿が飛び込んできた。植え込みの縁に腰掛け、年季の入ったギターを掻き鳴らす二十代後半ほどの若者である。バンドマンらしく洒落た格好をしているが、頬がこけて眼がやや虚ろなその様子は現実に負ける寸前の夢追い人そのものだ。これは……いいかもしれない。俺はすぐさま、彼の残りポイントを確認した。すると驚いたことに、60ポイントもポイントがある。やっぱ、苦労してるんだなこの人。
「あの、すいません!」
「……なんだい」
「あなたは、スターになりたいですか?」
「ハア、スカウトか? そりゃ、なれるもんならなりたいが……」
「決まりですね!」
俺は男の持っていたポイントのうち、40ポイントを容姿に、20ポイントを器用に割り振った。微妙に冴えない感じのルックスと、ギターの技術そのものの底上げである。これで上手く行くかどうかは分からないが、まあ今より酷くなることはないだろう。俺がそう考えていると、たちまち男の身体が光り輝き、そして――
「YAaa--!!」
光が晴れると、そこには神々しいほどのオーラを放つ男が居た。




