第二十八話 幽霊騒動
夜も深まった午後十時。俺は、部屋でひとり机に向かっていた。典型的な夜型人間である俺は、これぐらいの時間が一日のうちで一番頭の冴える時間帯である。深夜こそジャスティス。朝はノーサンキュー。世界のエリートは朝方なのが常識らしいが、俺は真逆の駄目人間タイプだな。けど仕方ない、ネットが盛り上がるのが夜なんだから。
とは言いつつも、今日の俺は明日のテストのため、ネットなんてせず無心で勉強をしていた。いつもは机の上を占拠しているデスクトップPCのモニターを端へとずらし、広々としたスペースに参考書を広げている。竹田さん関連でいろいろとごたついているが、かといってテストを疎かにするわけにもいかない。小夜もまだ、勝負を放棄したわけではないだろう。できるだけ、頑張らなくては。
そう思ってすらすらとシャープペンを走らせていると、部屋の端からバイブの音が聞こえてきた。五秒もせずに終わったので、電話ではなくメールの着信のようだ。こんな時間に、メールをしてくるような奴はいたかな? 哀しいかな、それほど友人の居ない俺はメールをしてくる相手にあまり心当たりがない。クラスの連中はテストだろうし、一体誰だろうか。
「家に来てくれ?」
メールの主は小夜だった。タップして画面を開くと、「家に来てくれ」とだけ記されている。もともと小夜は用件を手短にしか書かないタイプだし、顔文字などを使っているのも見たことがないが、ここまで短いメールは珍しい。何かあったんだろうか。何とはなしに嫌な予感がして、額に汗が浮いた。俺は一旦シャープペンを置くと、上着を羽織って部屋を出る。
「暑いな……」
家の外へ出て見ると、夏独特の湿り気を帯びた生暖かい風が吹いていた。それらが肌を通り過ぎていくたびに、産毛が逆立って何とも不快な気分になる。すでに灯りが消えている家もちらほらとあり、周囲はすっかり闇に沈んでいた。俺はこれから向かう小夜の家をちらりと見ると、暗い日本家屋の威容に息を飲む。昼間に見れば立派な屋敷だとしか思わないが、こうやって夜に見てしまうと陰鬱な雰囲気でかなり不気味だ。加えて、朝の早い家なので既に一部――おそらく、小夜の部屋か?――を除いて灯りも消えてしまっている。
「失礼しまーす……」
勝手知ったる他人の家。切妻屋根の門をくぐると、俺は庭を通ってまっすぐに小夜の部屋へと向かおうとする。小夜の部屋は家の西端、ちょうど俺の部屋の真向かいにある。やがて敷き詰められた白い砂利の先に、青いパジャマを着た小夜の姿が見えた。彼女は険しい眼差しで建物の方を睨みながら、腰に佩いた木刀の柄をきつく握りしめていた。漂う緊張感。張り詰めた空気が、こちらにまで伝わってくる。何が起きたんだろうか。俺は足を止めると、ゆっくりと彼女に声をかけた。
「何があったんだ、いきなりメールなんかして」
「静かに!」
小さくも鋭い声でそう言うと、小夜は周囲を一瞥した。そうして何もないことを確認すると、彼女はそそくさと忍び足でこちらに走り寄ってくる。怖いもの知らずの小夜には珍しく、その様子は何かを恐れているようだった。俺は小夜の耳に顔を近づけると、そっと囁く。
「どうした?」
「実はな……出たんだ」
「出たって、何が? ゴキブリか?」
「そんなわけないだろ! あれだよ、その……」
小夜はそう言うと両腕を前に突き出し、手をだらりと下げた。ぶらんぶらんと手の甲が揺れる。口は半開きにされ、眼が死んだ。これは……。
「キョンシーが出たのか?」
「違う! 幽霊だ。部屋で勉強をしてたらな、窓に恐ろしい姿をした男が……」
顔を蒼くして、ブルブルと震え始めた小夜。よっぽど恐ろしい物を見てしまったらしい。俺はオイオイとため息をつくと、ゆっくりと小夜の部屋の方へと近づく。そして部屋の扉に耳を押しつけると、中の様子を伺った。すると、何やらガサガサとした物音が聞こえる。乾いた木か何かを引っ掻いているような音だ。俺は思わずその場から退散すると、小夜の方へと避難する。
「た、確かに……変な音がするな!」
「だろう? き、きっとあいつが何かをしているに違いない!」
「よ、よし! こうなったらいちにのさん!で扉を開こう。何か出てきたら、頼むぞ!」
「ああ、ま、任せておけ!」
俺たちは二人羽織のように寄り添いながら扉の脇まで移動すると、引き戸の取っ手に手をかけた。俺は自分のすぐ後ろに小夜が居ることを改めて確認すると、深く頷く。そして震える手に、一気に力を込めた。重い扉がたちまち軋みを上げて滑り、開いた。月明かりが部屋の中へと差し込み、その闇を白く消し去っていく。
「うあッ!?」
「おッ!?」
バタバタと慌ただしい物音ともに、部屋を飛び出して行った黒い影。でっぷりと贅肉を纏ったその身体は、大型犬にも負けないほどの大きさを誇っていたが――猫だった。それも可愛らしさなどひとかけらもない、ふてぶてしい雰囲気の猫である。口には小夜の物と思しき鉛筆を咥えていて、まさにどら猫といった姿だ。その猫は太った体に似合わぬ素早い動きで庭を突っ切ると、一息で塀の上へと駆け上がってしまった。そしてそのまま塀の上を走り、夜の闇へと消えていく。やれやれ、何かと思えば。俺は安堵と呆れが入り混じった何とも複雑な気分になりながら、小夜の顔を見る。
「猫じゃん」
「いや……本当に、恐ろしい男の顔が見えたんだがな。あの窓だ」
小夜は部屋の一番奥、勉強机の脇にある窓を指差した。見れば、その小さな窓は大きく開け放たれている。先ほどの猫は、この窓の隙間から部屋に入り込んだようだ。側にある机には猫の足跡がくっきりと残されていて、荒らされ放題になっている。俺は可愛らしいの小物一つもない、何とも男っぽい小夜の部屋へ入るとその様子を検分する。
「やっぱり猫だろ。柱に引っかき傷とかあるぞ。……ん?」
机の上に置かれていた参考書。その表紙のデザインに、俺は微かな違和感を覚えた。そう言えば、こんなデザインの物をどこかで見た覚えがあるぞ。えっと、どこだったか……? 俺は顎に手を当て、思索の海に沈んでいく。するとたちまち、小夜が机の上にある参考書をひったくるようにして、背中の後ろに隠してしまった。
「おいおい、何すんだ?」
「そっちこそ、これは私の大事な勉強道具だ! 何を見ようとしてるんだ!」
「だって、そのデザインが気になったから……」
「お前が私に勝ったら、穴があくほど見せてやるよ」
そういうと、小夜は俺を押しのけて参考書を机の棚に押し込んでしまった。怪しいことこの上ないのだけど……約束したことだから、まあ仕方ないのか。俺は渋々ながらも納得すると、もう用もないので小夜の部屋を後にしようとする。だが、部屋を出ようと扉に手をかけた時、小夜が俺の肩を掴んだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「なんだ?」
「一人にされると心細いと言うか、何と言うか……」
頬を桜色に染めて、内股で何やらもじもじとし始める小夜。こいつ、心臓に毛が生えたようなメンタルをしている割に、こういうことには弱いんだな。そう言えば、七瀬を倒した後にも「祟りがあるんじゃないか」とか言っていたような気がする。けど、俺がここに残ると言うのは…………論外だな。俺の頭の中では、小夜はまだ地上最強生物のままのイメージだ。取って食われるような気がしてならん。
「……そういうことなら、爺様に頼んだらどうだ? あの人の方が俺より頼りになるだろ」
「爺様はとっくの昔に寝たよ、寝ている途中だから起こせん」
「あー、そう言えばあの人……」
小夜の祖父、神凪源流は神凪流の総帥にして、最強クラスの武人なのだが……。寝起きの悪い人物である。夜更かしをしているとかそう言ったわけではなく、早寝早起きの規則正しい生活リズムで暮らしているのだが、寝ている最中に起こされることを非常に嫌うのだ。小夜曰く「眠れる獅子」。起こしたら最後、仁義なき戦いが始まってしまう。
「じゃあ、厳造さんと……」
「あれは駄目だ、ウザい」
無難に小夜の父の名を挙げたが、一発で却下されてしまった。確かにあの人は……一言で表現するなら、「うざい」としか言いようがないんだよな。妙にハイテンションで人に絡んでくる上に、日本語がいい加減で聞いていてドンドンイライラしてくるオプション付きだ。一応は年頃の娘である小夜が嫌うのも、無理はない。フレンドリーないい人なんだが、俺もちょっと苦手だしな。
「あ、そうだ。良い物があるぞ」
「……抱き枕とかならいらんぞ」
「誰がお前にお宝を渡すか! 実はな、千歳先輩に作ってもらった俺の分身があるんだよ。あれを置いときゃさびしくないだろ」
「ほう……それはいいかもしれんな。持ってきてくれ」
そう言われた俺は、早速、分身を取りに行くべく部屋の扉を開けた。すると、俺の視界がたちまち筋肉に占拠される。山。そう形容するのがふさわしいほどの大男が、扉の前に立っていたのだ。赤銅色の筋骨隆々とした逞しい肉体。顎の突き出した強面。夜だというのに何故か掛けている、丸型の大きなサングラス。噂をすれば影、そこに立っていたのは厳造さんその人だった。
「はっはっは! 話は聞いたぞ、娘よ! そんなにさびしいのなら、このグレイトダディと一緒に寝ようじゃないか!」
親指をグッと持ち上げると、自分の顎をこれでもかといわんばかりに示す厳造さん。小夜はそんな厳造さんに黙って近づいて行くと――強烈なアッパーブローを炸裂させた。
「ぶべらッ!? と、父さんに何をする!?」
「うるさい、さっさと部屋に戻れ」
「何だその言葉づかいは! さては反抗期だな? よろしい、かかってこーい!」
「言われなくても……!」
先ほどまでのしおれた様子はどこへやら。バトルモードに突入した小夜と厳造さんは、庭先へ出ると同時に激しい戦いを開始した。「ダン!」だの「ドカン!」だの、彼らが拳を交えるたびにバトル漫画の擬音語のような音が響いてくる。よし、この隙に……。俺はそうっと部屋を抜け出すと、縁側を通って屋敷の門の近くまで移動する。そして門をくぐると、敬礼して一言。
「それでは、失礼しました!」
こうして俺は、神凪家を無事に脱出したのであった。けれどその翌日。
「く、くそ……何であの二人は一晩中戦っているんだ……!」
近所迷惑な親子のせいで、俺は昨日に引き続き遅刻の危機を迎えていた――。
いつの間にか「ステ振り!」が十万文字を超えていた今日この頃。
何だかんだ言っても、長く続いた物です。
十万文字というと、文庫本一冊分ぐらいですからね。
ここまで来られたのも、ひとえに読者様の応援あってのことです。
まだまだ続いて行くつもりですが、今後ともよろしくお願いします!




