第二十七話 竹田さんとチラシ
まさかの大爆笑から約三時間、どうにかテスト一日目が終わった。状況が状況だっただけに、英語の大爆笑は軽い注意で済まされたが、点数に与えた影響は深刻だ。楽勝だったはずの英語が、リスニングがほぼ解けなくてまさかの大ピンチである。さすがに平均点ぐらいはありそうだが、小夜に勝てるかどうか……かなり怪しい。しかもその後に受けた現社と生物はいずれも山が外れて、俺にとってはかなりの逆境となっていた。
「風が、風が吹いている。俺とは逆方向に……!」
HRが終わった後の教室で、俺は愕然と頭を抱えた。するとそこへ、満面の笑みを浮かべた小夜がやってくる。どうやら、こいつはずいぶん順調にテスト初日を終えたらしい。大仰な仕草で髪を掻き上げるその仕草から、余裕が滲み出ていた。俺はそのすました顔を、浮かない表情で見つめる。……どこか嫌味な表情をしていても、相変わらず顔だけは完璧だな。
「どうだ、出来たか?」
「……まあな、お前よりは出来たと思う」
「ふーん……」
小夜はからかうように目を細めると、そうじゃないだろと言わんばかりの表情でこちらを見てきた。俺はふうっと息をつくと、手早く荷物を片づける。するとその時、教室の扉が開いた。見れば、険しい表情をした千歳先輩が廊下に立っている。
「どうしたんですか?」
「大変なことがおきた。荷物を持ってちょっと来て」
「私も行くぞ!」
先輩の只ならぬ様子に、小夜も付いてきた。俺たち三人は荷物を持って学校を出ると、そのまま東へと歩いて行く。この方角へ行くと言うことは、満福寺に向かっていると見て間違いないだろう。そういえば、昨日、竹田さんが家出したりしていたが……それ関連なんだろうか。
「先輩、もしかして竹田さんのことですか?」
「ええ、そんなところね。私も詳しい連絡は受けてないけれど」
「竹田の奴、何かしたのか?」
そう言って顔に疑問符を浮かべた小夜に、俺は竹田さんが勉強会から逃げるために家出したことを伝えた。すると小夜は小さなため息をひとつつき、やれやれと肩をすくめる。
「まったく……いろいろとなっとらん。道場でもほとんど修行についてこれてないからな。一度、ガツンと言わねば!」
「お前の家の修行は、付いてこれる方がどうかしてるけどな」
神凪流の修行は、基本的に超人仕様だ。何度か見学したことはあるが、俺がやったら三日で死ぬ自信がある。霊能力があるとはいえ、それ以外は一般人レベルでしかない竹田さんが付いていけるとは思えない。それについては求める方が無理という奴だ。完全なパンピーが梁山泊に入ったところで、最強の弟子でもなければ超人になる前に潰れるのが普通である。
「そろそろね」
小夜と話しながら、すっかり見慣れた石段を上がっていくとそこには美代さんが立っていた。紫の御高祖頭巾を被った彼女は、俺たちの姿を見るや否や深刻な顔で告げる。
「よう来てくれた。月奈が大変なことになってしまっての」
「一体、何があったの?」
「詳しいことは中で話そう。実際に見てもらった方が、わかりやすいじゃろ」
美代さんに連れられて、俺たちは本堂奥の生活スペースへと入っていく。長い廊下をゆっくりと進んでいくと、やがて周囲の雰囲気が徐々に変化してきた。生活感とでも言えばいいのだろうか。静謐な雰囲気に満ちていた『寺』の部分から、実際に人が暮らしている居住空間へと入り込んだようである。やがて美代さんはある襖の前で足を止めると、一気にそれを開け放った。
「ううー! 寒い、美代さんや早く閉めておくれ」
襖の向こうから、ずいぶんと年寄りくさい言葉が響いた。声自体は若々しいが、言い回しや語り口がどうも老いている。その上、覇気がなくどうにも弱弱しい感じだ。言い方は悪いが、声だけ聞いていると今にも死にそうである。俺たちは美代さんの近くに寄ると、襖の向こうに居る人物の姿を確認した。すると、そこに居たのは――
「竹田さん?」
「ん? どちらさんかのう……はて?」
こたつにもぐり、布団を肩まで被った竹田さん。彼女は俺たちを見ると、ポケーっとした間の抜けた表情をした。髪の毛をポリポリと掻くその仕草は何とも年寄り臭く、この間までの彼女とは全く別人のように見えてしまう。これは……どういうことなんだろうか。俺と小夜、そして千歳先輩は揃って美代さんの方を見た。
「美代さん、これは一体?」
「良くわからんのじゃが、生気を抜かれておるようなのじゃ。それに――」
「美代さんや、そう言えばご飯はまだかえ?」
美代さんの言葉を遮り、竹田さんが割って入ってきた。彼女はこたつの天板をパンパンと叩くと、「ごはんごはん!」と請求する。
「月奈、飯ならさっき食べたじゃろ」
「あん……そうだったかの?」
「そうじゃ。五分前のことを忘れるでない……とまあ、こんな具合になっておるのじゃ」
「はあ……」
「美代さん、腹が減ったのう……」
呆れる俺たちの横で、その後もご飯を食べたか食べないかの問答を続ける竹田さんと美代さん。今の竹田さんの行動は、完璧にボケ老人のそれだ。俺たちは肩をすくめると、互いに顔を見合わせる。一体どうしたら、まだ十代半ばの少女がこんなことになってしまうのか。俺はすぐさま竹田さんのステータスを開き、彼女の状態を確認してみる。すると、他の能力は特に問題ないものの、知能が15にまで低下してしまっていた。
「そんな、知能が15にまで……! 美代さん、昨日何があったんですか?」
「それがな、夕方になって返ってきたと思ったら既にこの様じゃった。おそらく、出かけている間に何かあったんじゃろうが詳しくはわからんの」
「ちょっと、私に確認させて」
そう言うと、千歳先輩は竹田さんの手を取った。彼女は目を閉じると、ぶつぶつと早口で呪文のような物を唱え始める。やがて、人差し指で五亡星の形を切ったかと思うと、その眼をカッと見開いた。その時、黒いはずの瞳が一瞬だけ赤みを帯びたように見えた。
「わずかだけど、異質な魔力の反応があるわ。ただこれだけだと何とも……他に手掛かりはない?」
「手掛かりというほどでもないが……そう言えば、こんなものを持っておったな」
美代さんは懐に手を突っ込むと、一枚の紙を取り出した。A4サイズほどに見えるそれは、くしゃくしゃになってしまってはいるが、ツルツルとした材質で何かのチラシのようだ。彼女はその皺を丁寧に伸ばすと、俺たちの方へと差し出す。
「無料体験学習……?」
受け取ってみると、その青いチラシには赤文字で『無料体験学習!』と大きく打ちだされていた。その下には、この塾の講師と思しき女性の写真がこれまたデカデカと貼られている。胸元がこれでもかと言わんばかりに飛び出し、パンパンに張り詰めたブラウス。赤いタイトスカートからは、黒のストッキングに包まれたむっちりとした脚が伸びている。靴はハイヒールで、ただでさえ長い脚の長さをさらに強調していた。肝心の顔はやや年増のように見えたが美しく、深い紅の唇といやらしく細められた眼、顎から頬にかけてのシャープなラインが色っぽい。
うわ、すげえェ……! 写真を見た俺は、思わず唾を飲み込んだ。青少年のイメージする「Hな女教師」のイメージを、ドーンと詰め込んだような人物である。俺は顔と股間が一気に熱くなるのを感じた。こんな人に授業してもらえたら……まさにエロゲの世界だ。男の夢、理想郷……! どんな言葉でも言い表せないような楽園が、そこにはある!
「タクト、それ……」
小夜が手を伸ばし、俺の手からチラシを持っていってしまった。やべえ、こんなの見て鼻の下を伸ばしていたことがばれたら、ぶん殴られるぞ! 小夜の鉄拳が飛んでくることを覚悟した俺は、とっさに歯を食いしばった。……だが、しばらくたっても衝撃は来ない。俺は恐る恐る閉じた瞼を開くと、小夜の方をみて見た。すると、小夜は何故かチラシを手に固まってしまっている。ピタッと動きを止め、瞬き一つしないその姿は彫像か何かのようだ。
「……どうした?」
「……ん? ああ、いや何でもない。何でこんなチラシを持っていたのかと、考えていたんだ」
「お前が考え事をするなんて、ずいぶんと珍しいな」
「うるさい、人のことを言えた義理か! いつもエロで頭がいっぱいのくせに!」
「そっちだって、いつも剣道のことで――」
「静かに! 今はそんな場合じゃないわ!」
一喝。普段は声を荒げない先輩のそれに、俺たちはたちまち押し黙った。そうだ、先輩の言うとおりである。今は竹田さんが何故こんなことになってしまったかの原因を突き止めることが、何よりも先決だ。くだらない言い争いなどしている場合ではない。俺と小夜は、揃って先輩の言葉にうなずく。
「とりあえず、このチラシを出してる真剣塾とやらに行ってみましょう。そこへ行けば何か分かるかもしれないわ」
「そうですね。行ってみましょうか」
「ちょっと待った、それはまだ早い気がするぞ」
歩き出そうとした俺たちを、小夜がずいぶんと慌てた様子で止めた。その顔は青ざめていて、額には大粒の汗が浮いている。何をそんなに焦っているんだろう。不審に思った俺たちは、首を傾げる。
「どうして止めるの?」
「もし敵が強かったらどうするんですか。しっかりと準備をしておかないと」
「でも、今はそれよりも……」
「だ、駄目です! また死ぬようなことになったら……」
そう言って、顔を伏せる小夜。そう言えば、前回の事件でこいつは蘇ったとはいえ一度死んでるんだよな……。心臓に毛が生えたような性格をしているとはいえ、慎重になるのも仕方ないか。間接的にとはいえ、小夜を死なせた原因である俺たちは、何も言うことができずにやれやれと頷く。
「わかったわ。じゃあ明日、準備が出来てからにしましょう。それでいいわね?」
「はい、もちろん」
「了解です!」
「わしもそれで良い」
こうして俺たちは、事態の大きさを噛み締めつつも、一旦それぞれの家へと戻ることにした。明日へ備えての準備期間である。だがその日の夜――。
「家に来てくれ?」
夜の十時を過ぎた頃。小夜から一通のメールが届いたのであった――。




