新約 桃太郎伝説
よく晴れたある日、鬼造は猪を狩りに行こうと思い立った。
思い立ったが吉日。普段愛用している鉈を手に取る。
使い込まれて滑らかになった柄が、掌に吸い付くようだ。
鬼造の行動に、妻のさえが自分よりも頭二つ分ほど高い位置にある鬼造の顔を見上げて、
「おまいさま、おでかけかい?」
と訊ねた。
鬼造はうむ、と答える。
「腹が減った」
自分と同じ、年をとってはいるが昔の面影を色濃く残す妻に言葉少なに云う。
「猪かえ?」
「そうだ。山へしばきにな」
「気をつけてな」
「うむ」
鬼造は鉈を背負った籠に入れた。
むん――と力瘤を作る。
若かりき頃に鍛えた身体は、歳のせいでだいぶ皮が垂れてしまっているがまだまだ現役だった。
「今夜は猪鍋だ。用意をしておけ」
「あい」
さえは素直に頷いた。
鬼造はのっしのっしと歩き、家の外にでる。
外は快晴だった。小鳥が空を飛び回り、蝶が花を相手に踊っている。
鬼造が山に入っていくさまを、さえは外に出てきて見送った。
それが終わると中に引っ込み、汚れた衣服を入れた桶を手に出てくる。
そのまま家の近くの小川へ向かった。
少し歩くと上流から細い川がそよそよと流れている場所に出た。水底には大小様々な石が転がっており、魚が気持ちよさそうに泳いでいる。
さえがいつも使用している大きな石の上に立つと、驚いた魚がぱっと散った。
さえは石の上に洗濯物をぶちまけ、時折川で注ぎながら擦り洗う。
細い眉を吊り上げ、昔に比べ弱った腕に力を込める。額にはびっしりと汗が浮かんでいる。
「……おや。あれはなんだろう」
息切れし、一休みと面を上げたさえの視界に妙なものが入ってきた。
川の上流から、大きな丸いものがどんぶらこーどんぶらこーと流れてくる。
じっと凝めていると、まるで図ったようにさえの手の届くところに流れてきた。
さえはつい手を伸ばし、それを押し止めてしまう。
「これは――」
さえは目の前の丸い物体をまじまじと観察した。
これは果実だ。桃色で丸い。一本の筋がすっと流れるように通っており、細い産毛がびっしりと生えている。表面は硬いようでいて、力を込めると指がずぶりと沈み込んだ。
硬くて――柔らかい。
「まあまあ、これは桃ではないかえ。こったら大きな桃なんて初めてだあ」
さえは迷うことなく桃を持って帰ることにした。鬼造は肉が大好きだが、甘いものも好きだ。きっと喜ぶに違いない。
さえは洗濯物を横に片付け、筋の浮いた両の手で桃に掴みかかった。
「はああああああああ!」
十本の指を食い込ませ、がばちょっと持ち上げる
頭上に持ち上がった桃から、雨のように果汁が流れ落ちてくる。
ぼたぼたと落ちる汁はさえの顔にも降ってきた。
さえの赤い舌がそれを舐めとる。
どろどろとしていて甘く濃厚なそれは、老いた身体に染み入るようだった。
「おうおう。これであたしも桃娘々だぁ」
さえはずしりとしたそれを掲げたまま家に戻った。
とりあえず土間に置く。そして再び川へ。急いで洗濯を終わらせると、家に戻る。
洗濯物を干し、家の掃除をする。薪を補充し、水を汲んで壺の中を満杯に。
その後、囲炉裏に燻っていた火を強くし、水を入れた大きな鍋をかけると、家の横にある小さな畑から野菜を回収した。
仕込みが終わる頃になるといい感じで鬼造が戻ってきた。
大きな猪を肩に担いでいるが、足がわなわなと震えていた。
さえは悲しい気持ちでそれを見た。あんなに強かった鬼造も、今では猪を担ぐのがやっとだ。若かった時は猪など片手で持ち上げたものだった。
「お帰りなさい、おまいさま」
内心を押し隠し、さえは花のような笑みを浮かべて夫を迎える。
「うむ」
鬼造は猪を入り口の外にどさりと落とした。
「いい――戦いだった」
猪を家の横に生えている大木に吊し上げ、木の棒を構える。
「むん!」
思い切り横に殴りつけた。
「はああっ!」
今度は縦だ。
「ぬりゃあ!」
猪がぼろぼろになるまで棒を振るう。
「おまいさま、そんなにしたら……」
「さえ、桶を持ってこい」
鬼造は両手で皮を掴み、力任せに剥ぎ取る。
桃色に染まった肉を前にし、
「う、う、うまそうじゃあ」
気がつけば鬼造は猪に食らいついていた。歯を突き立て、首をぶんぶんと振って肉を引きちぎる。
「おまいさま、ちゃんと切ってから食べなっせ」
「うむ。うむ」
切った肉と内臓を桶が溢れかえるまで入れる。
「そういえばおまいさま、川で珍しいものを拾っただ。後で食べような」
「うむ。うむ」
二人は一緒に家に入る。
中に入った鬼造は土間においてある大きな桃に気がついた。
「これは……桃か」
「そうだあ。川で拾ったんだ」
鬼造は桃をぽんぽんと叩いた。
硬くて――柔らかい。
鬼造は桃を力一杯殴りつけた。
拳がずぶりと沈む込む。
「さあ、肉を食べようかね」
「うむ」
仲良く囲炉裏を囲んだ二人。さえは桶の中身を、ぐつぐつと煮えたぎる鍋にどんどん入れていく。
鬼造は入れる側から食う。
さえが肉を入れ、鬼造が食う。
「おまいさま、あたしの分も残しておくれよ」
「うむ」
鬼造は口に入れた肉を鍋に戻した。
「食え」
「あい」
さえは嬉しそうにそれを食べる。
鬼造は桶に手を突っ込み、内臓を取り出す。
鍋にさっと泳がせ、ずるずると啜った。
「さえ、酒だ」
「あい」
さえが酒の入った壺を持ってくる。
受け取った鬼造は、片手で壺の縁を掴み、一気にあおった。
「――ングッ。ングッ。ングッ」
と、喉を鳴らして飲む。
そして壺を下ろすと、さえに手を伸ばした。
「おまいさま――」
手繰り寄せたさえの口を、自分の口で塞いだ。
口に含んでいた酒を口移しに飲ます。
顔を離すと、さえの顔は上気していた。
「やはり肉はいい」
「野菜も食べなせ」
「野菜はいらん」
鬼造は良いことを思いついたと、手をぽんと打ち合わせた。
「明日も猪にしよう。いい感じに腐っているはずだ」
「野犬に食われて残らないさあ」
「ならば野犬にしよう。中の猪も食える」
「気をつけてなあ」
「うむ」
桶の肉がなくなると、鬼造は立ち上がった。
「桃を食うぞ」
「あい」
さえは包丁を持って桃のところへ行く。
「はああああああ!」
そして包丁を突き刺した。
刺した包丁を下に滑らせるが、大きくて二つには割れなかった。
「さえ、そこをどけ」
背後から鬼造が声をかける。
振り向いたさえ。鉈を装備した鬼気迫る表情の鬼造が目に入った。
「おまいさま――」
「儂がやる」
「でも――」
「一撃でケリをつけてくれるわ」
鬼造はさえを手で下がらせ、鉈を両手で振りかぶった。
「儂の一撃。とくと味わえ、桃よ」
しみの浮いた腕に、筋肉が盛り上がった。
「どっせらあああああああ!」
――次の瞬間、飛び散った汁が鬼造とさえを濡らす。
鉈は桃の半ばまで埋没していた。
「ぬ――」
鬼造は愕然とした。桃すら切れぬほど、儂の力は衰えたのかと――
「あと一撃だあよ、おまいさま」
健気なさえがそう云って手を叩く。
鬼造は気を取り直した。夫たるもの、妻の前で情けないところを見せるわけにはいかない。
もう一撃を加えようと、鉈を引く抜く。しかし――
「おまいさま!」
地面を指さしたさえが叫んだ。
見ると、桃の下部から真っ赤な汁が流れ出ている。
「桃の――内臓か」
鬼造は笑みを浮かべた。先の一撃は確かに致命傷を与えていたのだ。
「おまいさま、桃には内臓はないぞう」
さえはそう云って桃に手をかけた。
おそるおそる中を覗き込む。
「――ああっ」
さえの驚いた声。
鬼造はすぐに駆け寄り、
「どうした、さえ」
「………」
さえは応えず、両の手を突っ込んで桃の中から何かを取り出す。
「めんこい子じゃあ」
取り出した何かは赤子だった。
ふっくらとした、餅のような肌の赤子がさえの腕に抱かれている。
赤子は文字通り真っ赤に染まっていた。
頭がぱっくりと割れているのだ。
「桃の――赤子か」
鬼造は笑みを浮かべた。先の一撃は確かに致命傷を与えていたのだ。
「これはもう助からんなあ」
さえは残念そうに云った。
「鍋にしよう」
伸ばされた鬼造の手を、さえはぴしゃりと叩く。
「ちゃあんと埋めてやるんだ。そうすれば桃の木が生えてくるだよ」
「うむ。うむ」
物云わぬ骸を、二人は庭に埋めた。
両手を合わせ、祈りを捧げる。
「立派な桃の木が生えますように」
それが済むと家に戻った。
「さて――」
無残な姿になった桃を前にして鬼造は服を脱いだ。
「食うぞ」
裸になった鬼造は全身で桃に食らいつく。
両腕を桃に回し、がっぷりと組み合う。開いた割れ目に頭を突っ込んだ。
苦しくなると、
「ぶほおおっ」
と、頭を抜き、息継ぎをする。
そしてまた突っ込む。
「ぶはあああ」
苦しくなるとまた頭を上げた。
「おまいさま、あたしの分も――」
「ぜはああ。ぜはあああ」
激しい息遣いの鬼造はさえに桃を譲った。
さえが小さな口で桃を齧り取る。
さえが桃を食べているのを眺めている鬼造は、己の身体に生じた異変を感じ取った。
全身のむず痒さ。早鐘のように脈打つ心臓。
何か悪いものでも食ったか――鬼造は自問した。
心当たりは――ない。
立ったまま全身の神経を研ぎ澄ませていた鬼造は、バランスを崩して尻もちをついた。
むず痒かった感じが、いつしか針で刺されているような激痛に変わる。
悶える鬼造の目に、自分と同じようにのたうつさえの姿が入る。
「さえ――」
鬼造は妻の方へ手を伸ばした。
さえの方も、鬼造に手を伸ばす。
――それが届く前に、鬼造の意識はぷっつりと途切れた。
しばらくして、鬼造は目を覚ました。
目を覚ましてすぐ、己の身体に起こった変化に気づく。
身体が――軽い。
節々の痛みが消え、常に纏わりついていた気怠さもなくなっている。
起き上がった鬼造は自らの腕をまじまじと凝めた。
皺も、しみもない。日に焼けた赤銅色の肌がそこにはあった。
「おお……」
鬼造は腕を曲げ、力を込める。
盛り上がった瘤が、皮膚をぱんぱんに押し上げた。
「う……ん……」
寝転がったさえが目を覚ます。
さえも鬼造と同じように身体に生じた変化に気づいた。顔に手をやり、胸に手をやる。
「お、おまいさま。これは――」
「うむ」
鬼造は力強く頷いた。
そしてじっと己の妻を眺める。
さえは美しかった昔を取り戻していた。さらさらとした黒髪、切れ長の目、小さな唇と鼻。滑らかな肌に、白魚のような指。
鬼造は股間が硬くなるのを感じた。
「お、おまいさま――」
鬼造の状態を見たさえが目を見開いて呆気にとられる。
さえの、桃色の唇の下が汁でてらてらと光っていた。
桃のような唇と、汁。
鬼造は、
「ぐふふふふ」
と笑い声を上げた。
両手を前に出し、さえに躙り寄る。
「お、落ち着いて、おまいさま。ここは土間――」
尻もちをついたまま後ろに下がるさえ。
めくれ上がった裾から柔らかそうな太ももが覗いている。
「う、う、うまそうじゃあ」
鬼造は肩を掴んで着物を引き剥がした。
年とともに柔らかさしか残らなかった胸が、弾力を取り戻しているのがわかる。
「あれっ」
「よいではないか、よいではないか」
鬼造はさえにのしかかる。
その夜、二人はかつてないほど激しく求め合った。
「う、ん……」
さえは火のような温かさを持ったものが、自分の横から消えたことで目を覚ました。
代わりに朝の肌寒い空気が侵入してくる。
「おまいさま……?」
上半身を起こしたさえは、鬼造を求め、家の入口へと目を向けた。
戸口に、鬼造が全裸で立っている。
鬼造は新鮮な朝の空気を一杯に吸い込み、大きく胸を膨らませた。
その身体は若々しく、昨日の出来事が夢ではなかったのだとさえは悟った。
「さえ」
と、鬼造は振り向きもせず云った。
「山を、下りる」
「え……? 山を?」
「うむ」
鬼造は頷き、
「故郷へ――鬼ヶ島へ、帰ろうと思う」
一体何故、帰ろうというのか。
ここは、どうするのか。
あたしは、どうなるのか。
さえの頭のなかを、様々な思いが渦巻いた。
しかし結局さえは、
「あい」
と、ただそれだけを答えた。
「お前も、こい」
鬼造は顔だけ振り向いた。
「妻は、夫の傍にいるものだ」
「あい」
さえは嬉しそうに表情を綻ばせる。
すると鬼造は再び外を向き、
「ぐふふふふ」
と、満足気な笑い声を上げた。
朝日を浴びた鬼造の裸体は自ら光を発しているように輝き――
引き締まった尻が、まるで桃のようだと、さえは思った。