七話 アドバイザー
制服に着替えた後、すっかり冷めてしまった朝食を麦茶で流し込むように胃に収めると、甲は双子に「ちょっと出てくる」とだけ声をかけて家を出た。
焦った様子で向かうは自身が通う月ヶ岡高校。徒歩で二十分ちょっとという距離を自転車で駆けていく。
ものの十分もかからずに月ヶ岡に到着すると、甲は駐輪場に自転車を置き、正面玄関へと走り出した。
靴を履き変え、足早に下駄箱を横切る。教室棟から特別教室棟、特別教室棟から部室棟への二つの渡り廊下を抜け、階段を一気に三階まで駆け上がる。
左右に分かれた廊下を右に曲がると人気が感じられない部屋をいくつか素通りして、三一〇号室へとたどり着いた。
『げんえいぶ』と書かれた扉のドアノブを握る。
(…………?)
甲はしんと静まり返った部室を不審に思い、躊躇いながらノブを捻った。
扉を開くと、中には片山以外の現映部メンバーが長机の前になぜか一列に座っていて、一同困ったような表情を浮かべ、視線をきょろきょろさせていた。
机を挟んで、彼らの対面には現映部顧問の桜庭ササラが腰かけていた。普段から笑みを絶やさない彼女が、伏せた顔を両手で覆って泣いている。
甲はその異様な光景に驚きながら、部室へと足を踏み入れた。
彼に気付き、助けを求めるような表情で見つめる現映部員達の傍へと歩いていく。
「……どうしたんだコレ?」
そう言って、机の向こうのササラを指さす。すると、咲子が口を開いた。
「今朝、ササラちゃんから電話が来てな。例の動画の件について怒られた。詳しい話をするから部室へ部員達を呼ぶように言われ、来てみたら……これだ」
咲子はやれやれ、と言うかのように首を振り、ため息をついた。
甲は釣られて出そうになったため息を呑み込み、ササラに振り返った。
「えーと、桜庭先生? まだ怒ってます?」
様子を覗うように甲がそう聞くと、ササラはびくっと肩を震わせて指の隙間から甲を見つめてから口を開いた。
「あ、当たり前だよ!! み、皆があんなことするなんて、せ、先生は、先生は……うわぁぁぁん!!」
時折小さくしゃくりを上げながらそう言って、ササラは大声で鳴き出した。
「昨日の夜……ぐす、たくさんの生徒から、せ、先生はやっぱりドジだねって……い、いっぱい、いーーっぱいメールが来たんだよ!!」
甲は、自分を責めたくなった。例の動画を撮った時、ササラがどう思うかをちゃんと考えていなかった。事実、部員達は誰も咲子の行動を止めようとしなかった。それがこんな結果を生み出したのだ。
甲は腰を九十度に曲げササラに頭を下げた。
「桜庭先生……すみませんでした!! 先生がそこまで傷つくとは思ってなくて。本当すみません、考えが足りませんでした」
言うと、ササラは泣く声を押し殺し、上目ずかいで甲を見た。うるうるした瞳が小動物のそれのようで妙に愛らしい。
彼女は推し量るように甲を観察してから口を開いた。
「……どうして、あんなことをしたの?」
「えっと、それは……」
甲は彼女の問いにすぐ答えることができずに視線を彷徨わせた。そんな様子を見て、突然咲子が立ち上がる。
「それは私が説明する。実はだなササラちゃん…………」
それから咲子が、事のあらましを話し終えるまでは五分とかからなかった――――。
「――――と、いうわけだ。盗撮を提案したのも実行したのも私だ。どうか他の連中は責めないでやってほしい」
咲子は言い終え、小さく頭を下げた。最後に部員達の弁護も忘れない彼女に甲は素直に関心した。
ササラを見ると、すでにその瞳からは涙が消えていた。かわりに、弱弱しい笑顔で部員達を見つめている。
「……そう、だったんだ。ごめんね、先生新聞の事も、部費撤廃の話も全然聞かされてなくて……」
そう言って頭を垂れるササラ。珍しく黙っていたチカが口を開く。
「ちょ、別にササラちゃんが気にすることじゃないよ!! 私達が言わなかったのが悪いんだから」
「そうですそうです!!」
チカに続け、と紫衣が頷く。
ササラは、ようやく柔らかい笑顔を見せた。
「ありがとう二人とも。先生昔からドジだ、天然だーって言われるのがコンプレックスなの。だから、あんなメールが来て、少し混乱しちゃってたみたい」
甲は、それを聞き納得した。
正直、ササラが怒るとは思っていなかったし、事実今までもこのようなことはなかった。実際あの撮影時も、彼女なら笑って許してくれる、と誰もが思っていたのだ。
しかし、彼女にも自身のことで気にしている部分はあるわけで、決して常に仏でいる訳ではないのだと痛感した。
ササラは、おもむろに立ち上がると、「よしっ」と口にし腰に手を当てた。
「そう言うことなら先生だって、協力は惜しまないの!! さあ自由に撮っていいよ」
はりきりながらそう言うが、咲子の表情は暗い。困ったように頭を掻いた。
「いや、まあ……その気持ちは嬉しいんだが。あれは素のササラちゃんをだったから意味があって。内容を知られたんじゃ、あんまり意味がないというか」
濁すようにそう言う咲子。
つまるところはこう言いたいのだ。あれは盗撮したササラちゃんの映像だからこそ価値があり、全てを知られた今彼女を撮ったところで、それは生徒の前で気を張っている普段の彼女となんら変わりない、と。
「だから、次からは別の作品を撮っていくよ」
「そっかー。ごめんね、先生役に立てなくて……」
ササラは一瞬暗い表情で顔を伏せた。かと思えば、何を思いついたのか、今度はパッと明るい顔で言い放つ。
「そうだ!! これからは先生も皆の活動に参加します!! 今まであんまり部活に来れなかったけど、明日からはちゃんと顔を出すようにするの!!」
名案、とばかりに豊かな胸を反らすササラに、瞬がたずねた。
「でも、いいんですか先生? たしか先生って卒業した大学から仕事を頼まれてて忙しいんじゃ?」
「いいのいいの。それもあと少しで片付いちゃうし、何より教え子がしっかりとした活動を始めるって言うのに顧問が手伝いもしないわけにはいかないもん」
そう言いきってから、ササラははっと慌てた様子で言う。
「あ、違うよ? 別に今までの皆の活動を悪く言うわけじゃないの。映画を見て学べることだって多いと思うしね。ただ、自主制作映像を作るっていう方がなんだか学生らしくていいなーって……」
「別に、無理しなくていいですよ先生」
甲がそう言うと、ササラは顔を真っ赤に染め上げた。
「無理してないもんー!!」
すっかりいつもの調子に戻ったササラを見て、安心した現映部一同が笑い出した。
それから、彼らはこれからどんな作品を作っていくか、小一時間に渡って話し合った――――。
――――今日はここまでにしよう、という咲子の言葉により、具体的な案が出ないまま部活は解散となった。
途中、玄関口で遅れてやって来た片山を見つけ、「え、もう帰るの? 俺来たばかりなのに」と文句を垂れる彼を無理やりUターンさせ、正門へと皆で向かう。甲と瞬は、途中の駐輪場へ自転車を取りにより、急いで追いついた。
正門をでるとすぐ咲子が部員の顔を眺めて口を開く。
「それじゃ詳しい話は明日するとしよう」
電車通学の咲子、紫衣、片山は甲達の家とは反対にある桔梗橋駅へと向かうため、ここで分かれることになる。
三人が手を振って、歩き去って行ったのを見送り、チカが言う。
「それじゃ私もここで!! それじゃ、甲と瞬、またねー!!」
チカが二人に背を向ける。彼女の家も甲とは別方向にあるため、帰りは別になるのだ。徒歩で三〇分はかかる距離だが、自他共に認める学園一元気がウリの彼女は、その距離を毎日歩いて通っている。
チカが今にも走り出そうとする直前に、甲は彼女に声をかけた。
「送ってこうか? 今日俺自転車だし」
ピタリ、と動きを止めターンするようにチカが振り返る。
「いいよいいよ、甲が遠回りになっちゃうじゃん」
「別に俺のことはいいんだよ。歩きじゃ結構かかるだろ?」
「にはは、ありがとっ。でも本当に大丈夫。それに、私を送ってたら今度は瞬がぼっちだよ? それじゃね!!」
今度こそ駆け去って行ったチカの背中を見送り、甲はそれもそうかと思い、瞬を見た。
「んじゃ、帰るか」
「うん」
甲が歩き出すと、瞬も並んで歩き出す。二人とも自転車なのに、なぜかどちらも乗ろうとはしなかった。
特に変わった会話もなく数分歩くと、唐突に瞬が言った。
「なんだか甲、変わったよね」
その言葉に甲は首を傾げた。
「変わった? 俺が?」
「うん。どこがって聞かれたら、ちゃんと答えられないけど、なんていうか雰囲気がね」
そう言って瞬は苦笑する。
小学校、中学、そして高校まで同じ学校に通う親友に言われ、甲は考えた。自分のどこが変わったというのだろう、と。
しかし自身では答えは分からず、結局頭を振った。
「気のせいじゃないか?」
「うーん、そうなのかな」
そんな会話をしてるうちに二人は、地元で最も賑わうすみれ商店街までやって来ていた。生鮮食品や雑貨を取り扱う店が立ち並んでおり、甲もよく利用している。
古くから二人がよく知るその通りを歩きながら甲はふと思いついたことを口にした。
「……でも、逆に少しも変わらないやつなんているのか?」
そう言うと、瞬は目を点にする。
それから少し悩んだそぶりを見せてから笑顔に変わる。
「いない、かな」
瞬はどことなく晴れ晴れした顔で前を向く。彼が何を思ったのか、甲には分からなかったが、きっと良いことなのだろうと感じた。
すみれ商店街を抜け、大きな道路を渡った先の通りを右に曲がる。まっすぐ歩いていくと、通り沿いにある店が少なくなるにつれ、だんだんと人通りも減っていく。
そんな中ぽつんと建つ喫茶店の前で二人は立ち止まった。店主のセンスを感じさせるおしゃれな看板に『来夢来兎』と書かれたそのお店が、瞬の自宅なのだ。
「それじゃ、瞬。また明日、学校でな」
「うん、それじゃね甲」
分れを告げて、甲は自転車にまたがった。自宅まで残り歩いても数分とかからない道のりだが、一人で自転車を押して歩くのはなんとなく気恥ずかしかった。
「僕も、変われるかな」
ペダルをこぎ、徐々に加速していく甲の耳にそんな瞬の呟きが聞こえた気がしたが、振り返った先にはすでに瞬の姿はなかった――――――。