三話 ティーチャー
数十分後、甲達は部室を出て新校舎へと移動していた。
月ヶ岡高校の校舎は上から見ると、『三』の文字に渡り廊下を足した『王』の字に似た形をしている。その三本線を建物と例えるのならば、両端にあるのが先まで現映部一同がいた旧校舎――部室棟と、全学年の教室が入っている教室棟。そして、その真ん中に位置するのが特別教室棟である。
現在、甲達はその特別教室棟二階にある職員室前の廊下に陣取っていた。一同揃って前かがみになり、扉の隙間から職員室内の様子を眺めている。
廊下には現映部員の他に人影はなく、それがより一層彼らの怪しさを際立たせているが、それに気付いていないのだろうか、誰一人その不審な行動をやめようとはしない。――――否、気付いていないはずがなかった。
「……おい、コレはなんだ?」
唐突に甲が呟いた。
「は?」
そう返すのは、甲の顎の下でさらりとした黒髪を揺らす現映部部長、楠木咲子だ。上目遣いで甲を一瞥するが、それもほんの一瞬のこと。邪魔するな、と言いたげな表情で甲を睨むと、すぐさま自分の手元に構えたカメラに視線を戻してしまった。
「『は?』じゃねー!! コレは一体何をしているんだって聞いてんだ!!」
「おい声が大きいぞハゲ。そもそもさっき説明しただろうハゲ。数分前のことも思い出せんとは、乏しい記憶力だなハゲ」
咲子は、感情のない声でそう告げる。今度は一瞥すらしなかった。
「んなことは覚えてるっつーの!! 俺が聞いてんのは、この行為にどんな意味があるのかってことだ。あとハゲは今関係ないし、俺は禿げてもない!!」
「はぁ、うるさいハゲだ。覚えてるなら分かるはずだろう? アタシは意味も理由もあの時ちゃんと話したぞ」
甲は否定したにも尚、罵倒の言葉を浴びせる咲子に怒りがこみ上げるが、それをグッと呑み込み、彼女に言われた通り先ほど交わした会話を思い出すことにした――――
――――数分前、彼らは部室を出てこの場所、職員室前へとやってきた。事情を知らされず後をついてきただけの部員達が揃って怪訝そうな表情を浮かべる中、部長の咲子だけがやけに上機嫌だ。
「さあて、それじゃ第一回の撮影を開始するか!!」
唐突にそう宣言する咲子に、その場にいた全員がぽかんとした顔で首を傾げている。
「はいっ、部長!!」
「はい、チカ君」
姿勢よく挙手したチカを、咲子がビシッと指す。それはさながら生徒と教師のようだ。咲子に至っては、かけてもいない眼鏡の位置を直すフリまでしていて、完全に役になりきっていた。
「撮影の内容を聞きたいです!!」
「よく聞いてくれた!!」
ヒシッと抱きしめあう二人。たった数秒のドラマだったが、もはやその世界観に付いていけず、若干引き気味の部員達に気付き、咲子は取り繕うようにコホンと咳をして語りだした。
「初めての撮影である今回は、ササラちゃんの観察記録としようと思う!! 」
その言葉を聞き、甲は咲子の考えをなんとなく察した。
桜庭ササラ――この学校において最年少教師で現代映像研究部の顧問でもある女性だ。大学卒業後、研修で月ヶ岡へやって来て2年目のいわば新米教師だが、可愛らしい容姿と優しく温和な性格がウケ、生徒から大変人気がある。
つまり、咲子はその桜庭先生を撮影しようというわけだ。
「お前達も知ってのとおり、ササラちゃんの人気は飛ぶ鳥も落とす勢いだ。隠れファンクラブまである程らしい。彼女の観察記録なら、数字……つまり視聴率が取れるというものだ!!」
どうだ、と言わんばかりに平たい胸を反らす咲子の前で、甲はそっと手を挙げて口を開いた。
「一つ聞いときたいんだが、本人の了承は……?」
「当然得てなどいない!!」
「盗撮じゃねーか!!」
なぜか誇らしそうにする咲子をジト目で見つめ、甲はため息をついた。
「あのなぁ、誰にだってプライバシーってもんがあるんだぞ?」
「当然だ。私的領域の侵害は認められていない。だがその罪をとがめるかどうかは相手次第だ。確実にササラちゃんなら笑顔で許してくれるさ」
それは甲も分かっている。桜庭先生とはそういう人だ。しかし、だからこそ甲は気が進まなかった。なんだか先生の善良な心に付けこむようで……。
しかし、そんな甲の気持ちは無視される形で状況は進んでいった。
咲子はカメラを構えると、職員室扉へと向かっていき、その後を甲含め現映部一同が慌てて追いかけるのだった――――
――――そして時は戻る。思考から戻った甲の視線の先で、ササラは仕事をしていた。
身長は比較的低いものの、モデル顔負けのスタイルを誇る彼女は、黒のパンツスーツを完璧に着こなしている。明るすぎない程度に染めたふんわりとしたロングヘアーが彼女の可愛らしさを際立たせている。
そんな容姿はもちろんのこと、頭も良いし、人当たりの良さにも定評があり、一見完璧に見える彼女だが一つだけ難点もある。彼女の行動を見ていて甲達はそれを改めて認識した。
PCにカタカタと何かを打ち込んでる最中に机上のお茶をこぼし、危うく機械を駄目にしそうになったり。プリンターを使いだしたかと思いきや、用紙と一緒に髪の毛を巻き込んだり。印刷し終わった紙の束を転んで落としたかと思ったら、またその上にお茶をこぼしたり。……とにかく見ていて忙しない。
そう、彼女は……超ドジなのだ。
「ヤバい俺泣けてきた……ササラちゃん超可哀想っ」
片山は、ササラの行動を見ながらそう言うと制服の袖で目元をぬぐった。
片山に同情されることの方が可哀想だ、と甲は思ったが、口には出さなかった。
「だから貴様は甘いのだ片山」
「あ、甘い?」
突然咲子にそう言われ片山が目を丸くする。
「何が『可哀想』だ。いいか、ササラちゃんの場合はな、あのドジな部分さえステータスなんだ。一見完璧な彼女が併せ持つギャップも人気の秘訣じゃないか」
これに関しては確かに咲子の言うとおりだろう。案外、よく人を見ているんだな……と甲は彼女の認識を改める。
「多くの学生がササラちゃんのドジッ娘シーンを心待ちにしてるんだ。ふふふ、コレは売れるぞ」
「売るなよ!?」
「うるさい。言葉のあやだろうが」
そう言って誤魔化す咲子だが、甲は彼女の舌打ちを聞き逃さなかった。軽くため息をつき、彼女を見やる。
(それにしても……)
甲は思う。
(どうして楠木はこんなにやる気なんだろう……?)と。
その時、甲達が構える廊下へと下る階段から足跡が響いた。この時間は基本生徒は特別教室棟に足を踏み入れないので、まず教師が来たと見て間違いないだろう。
「まずいっ」
と口にしたのは誰だったか……。いずれにしろ時すでに遅く、足跡は階段を下りきり、角を曲がって体育教師の橋元が現れた。
橋元は、一部の生徒から『鬼の元さん』と呼ばれ恐れられるほどの強面で、実際に厳しいことで有名だ。
不自然な体勢で固まる現映部員達を見た途端、橋元は眉を吊り上げた。
「逃げろっ」
咲子の声と共に一斉に走り去る橋元の脇をすり抜け我先にと階段を下る。後ろから橋元が何か叫んでいたが、彼らは止まらない。
渡り廊下へ出ても駆けるのは止めず、そのまま部室棟まで突っ切る。
まるで競争するかのように追い抜き、追い越され、結局最後は並んで走った。
「ハハハッ!!」
甲はいつの間にか笑っていた。そして、この時間をとても楽しいと感じている自分に気付く。
部費が撤廃されようと、この部には何の影響も与えないだろう。
甲はそんな予感めいた自信があった。元々、部費に頼らなければならないような活動自体、現映部にはなかったのだ。
しかし、他の活動実績のない所のように、現映部に廃部が言い渡される日が来ないといえるだろうか。いや、むしろこのまま今までのような部の在り方を続けるのであれば、その時は限りなく近いだろう。
甲はふと、隣を走る咲子の横顔を見た。……笑っている。まるで不安を感じさせない、心からの笑顔だ。
きっと、彼女はなにがあっても守り抜くのだろう。この部活を、現映部の仲間達を。
甲は、咲子から感じていた気合の理由と部長としての責任感を垣間見た気がして、なんだか微笑ましく感じた。
そして、同時に強く思った……この部活、現映部の仲間たちとの日々を守りたい、と。