第三幕 入部
教室の窓から茜色の光が差し込む演劇部の部室。
気が付けばもう下校時刻ギリギリの時間を時計の針が指していた。
甲がこの部屋にやってきてから既に一時間以上が経過している。
ほとんど休憩もなしに、台本を読み続けていた倉松だったが、演劇部部長である楠がパンパンと手を叩くと、台詞を止めた。
「チカ、もう時間も遅い。今日はこの辺にしておこう」
楠の指示に、倉松は「はあい」と間延びした声で答えると教室の端に置かれた鞄に向かい、帰り支度を始める。
それを見届けた楠は甲へと振り返り、一冊の小冊子を差し出した。
「これは?」
問いながら甲はそれを受取り、訊ねた。
「演劇部入部の奨め。まあウチの活動内容をまとめたパンフレットだと思ってくれれば良い」
甲は静かに小冊子に視線を落とすと、それをパラパラとめくり、楠の顔を見た。
すると楠は少し頬を赤らめ、それを誤魔化すように顔を逸らして言う。
「……演者が足りなくてな、まあお前さえ良ければどうだ、ウチに来ないか?」
それから数秒の間、部屋を沈黙が支配した。
まるで時が止まった様な空気を打ち破ったのは、甲の小さな溜息だった。
甲は、困った様に頭を掻くと徐ろに立ち上がった。
「ちょっと職員室行ってきます」
そう言って部屋を出ていこうとする甲を見上げてから、楠は不安そうな顔を浮かべていたチカと顔を合わせ、お互いに首を捻る。
二人は訳が分からなかったが、何も口にはしなかった。
甲は扉を開き、一歩廊下に踏み出たところで二人を振り返ると、ぽりぽりと頬を掻き、呟くように言った。
「入部届を提出してから、戻ってきますんで」
それだけを言い残し、後ろ手に扉を占めた。
ーー数分後、自身が放った言葉通り職員室へ行き、入部届けを提出し終えた甲は演劇部の部室へ戻る道すがら困惑していた。
手には今だ楠から受け取った小冊子が握られており、それをパラパラとめくりながら呟く。
「演劇……か」
甲は正直、自分が演劇部の何に惹かれたのかが、入部届けを提出した後になっても理解出来なかった。
あれ程までに、部活選びに躍起となり、妥協しまいとしていたというのに。
それでも、甲に後悔は微塵も無く、それが不思議だと彼自身感じていた。
ちなみに彼が入部すると決意したのは、楠から誘われた後では無く、あの部室の扉から中を覗いた時からだった。
倉松の演技練習を垣間見た瞬間、電流にも似た衝撃が走ったのは確かで、それは他のどの部活を見学しても無かったものである。
それ故、彼は入部する事を決めたのだが、演劇の魅力を知らない。
しかし、それはこれから活動を通して理解していくのだろう。
そんな事を考えていると、甲は気が付けば部室の前まで戻ってきていた。
部屋の前で立ち止まり、甲が扉に手をかけようとしたその瞬間、ガラガラッと音を立て、それは内側から開かれた。
「……ふぇ!?」
唖然とする甲の目の前に、一人の少女が飛び込んできた。
急いだ様子で部屋を飛び出してきた少女は甲と目が合うとすっとんきょうな声を上げ、勢いそのまま甲へと突っ込んだ。
「ぐふっ」
少女の頭突きが思い切り鳩尾に入り、甲がくぐもった声を上げる。
甲は少女共々後ろへ吹っ飛び、床へと激突した。
「痛ててて。何なんだ一体……?」
突然の事に訳が分からない甲は、床にぶつけた頭を摩りながら上体を持ち上げ、状況の確認を行う。
演劇部部室を飛び出し、自身にぶつかった少女は、甲のすぐ目の前で床に両手を付ける事で体制を保っており、怪我などはしていないだろう事が見て取れた。
その事にホッと安心した甲だったが、相手の顔を見て、心臓が跳ね上がった。
「さ、里村……?」
彼女は甲の知人であった。
しかし、それが決して良好な関係上にあるものではないという事実を、彼女の表情が物語っていた。
名を告げられた少女は、ビクッと体を震わし、今にも泣きそうな顔を甲に向けて口を開いた。
「い、石動君。ご、ごめんなさい。私、こんな……その本当にごめんなさい!!」
動揺した様子でそれだけ言い切った少女は、逃げ出す様にその場を去って行った。
甲は、あまりにも突然起きた出来事に呆然とし、しばらく床から起き上がる事が出来ず、たった今対面したばかりの少女の事を思い返した。
彼女の名前は里村紫衣。西洋人を母に持つという彼女は綺麗なブロンドの髪が腰まで伸び、左右には可愛らしい髪飾りがいつも着けられている。
きりっとした眉に、くりっとした大きな瞳の可愛らしい顔立ちの彼女は、小柄ながら健康的でスタイルが良い。
そんな里村と甲は、同じ中学校出身である。
中学時代に起きた出来事により、微妙な距離感が出来ていた二人は本日、数ヶ月ぶりに顔を合わし、会話とはいえない程度ではあるが、言葉を交わす事となった。
それが、この様な形で二人の間で起こるとは微塵も予想していなかった甲は握り締めた拳で殴る様に床に手を付いて起き上がった。
そこで甲は初めて、部室の扉からこちらを心配そうに自身を見つめていた倉松の存在に気が付き、苦笑いを浮かべた。
「悪い、変な所見せて」
甲が言うと、倉松は頭を横に振り、話題を変えるかの様に、努めて明るい口調で言った。
「そ、それよりさコウ君!! 入部届けを出してくるって話は本当!?」
「ああ、うん。今提出してきたよ」
「わあ!! 急な展開で驚きだけど、演劇部にようこそコウ君!!」
満面の笑みで言う倉松に甲は笑顔で返し、二人は部室へと入って行くのだったーー。