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見るに堪えない

お前の顔は見るに堪えない

作者: 弦巻桧

酷いタイトルですが、ほのぼのしてる、はず。


※読了後の感想には個人差があります。何でも許せる方向けかもしれません。

気分が悪くなった時点でブラウザバック推奨。

「お前の顔は見るに堪えない」


 そう言って彼は、顔を背けた。

 忘れもしない、ラッセルと初めて会った時のこと。

 当時6歳だった私は、同い年にもかかわらずとても大人びた、綺麗な容姿をした彼に見惚れていた。見惚れるあまりに、馬鹿面を晒した自覚はあった。

 でも、見るに堪えないというのは言い過ぎだ。

 言い過ぎだ、と思った。その時は。

 それが彼の物言いにしては優しいものであったことを思い知るのに、さほど時間はかからなかった。


     *


 昼休み開始の鐘が鳴ると同時に、後ろにいたラッセルが腕を掴んできた。鞄の中から急いでお弁当を取り出して立ち上がる。強引な彼の腕に引っ張られるまま教室を出て、向かうのはおそらく中庭だ。今日は天気も良いし。

 前を行く彼の顔は見えない。けれどきっと、いつものように顔を真っ赤にして、眉間に皺を寄せた険しい表情をしているに違いない。出会って十年で、私が最も見慣れた表情を。


 彼と一緒に廊下を歩くと、周りの生徒たちが通路を開けてくれる。この学校で最も身分の高い貴族である彼は、私を含む他の生徒たちにとって最も敵に回したくない相手だろう。歯向かうことは、とうの昔に諦めた。


 貴族の子弟たちが通うこの学校は、中庭もだだっ広く、休憩用のテーブルとイスがあちこちに用意されている。その中の一つ、紫のチューリップが一面に咲いた花壇の前に座った。

 無言で促すラッセルの前に、お弁当を広げた。


 普通、貴族の子弟であればここで、自分の屋敷の料理人が作った豪華なお弁当が登場する。あるいは、料理人を連れてきてその場で料理をさせることもある。しかし、零落貴族である我がアシュモア男爵家にはもう、料理人はいなかった。料理人どころか、他の家事・雑用を担当していた使用人たちの大半にも、非常に心苦しいことながら一年前に暇を出した。それ以来、家のことは私たちきょうだいが当番制で担当している。

 今日の私は料理当番で、家族全員分のお弁当を作った。いや、より正確に言えば、家族の人数+一人分のお弁当、だ。


 ラッセルは流れるような所作でスプーンとフォークを操り、私の作ったお弁当を平らげていく。

 どこで聞きつけたのかは知らないが、彼は約十ヶ月前から、私が料理当番の日に限って私にお弁当を要求するようになった。彼は普段は他の貴族たちの例に漏れず、豪華なお弁当を持参しているのにもかかわらず。

 なぜ舌の肥えた彼が、わざわざド素人の作ったお弁当を要求するのか。理由は分かっている。私が彼の召使だからであり、そんな私を彼が馬鹿にしたいからである。


「肉の焼き具合が足りない。もっと火を通せ。それから、全体的に味付けが濃い。俺の好みはもっと薄味だと、何度言えば分かるんだ」


 毎回、食べ終わるなりこうしてケチをつけられる。彼が食べ終わるのを待って食事を始める私は、彼の苦情を適度に聞き流している。

 初めの頃は彼の言うことをいちいち真に受け、苦いランチタイムを過ごしていた。しかしもう開き直った。文句があれば食べなければいいのだから。


 それに今日の私はご機嫌なのだ。デザートには、ご近所さんから分けてもらった初なりの苺が入っている。

 うきうきしながら苺に手を伸ばしたその時、すっと横からフォークが伸びてきた。

 守る隙を与えない、それは見事な手際でたった一個の苺は奪われた。


「あー!」


 はしたなくも食事中に大声を出してしまった。しかしそれも無理からぬことと察して欲しい。た、楽しみにしていたのに……。

 恨めしげに睨みつける私を、ラッセルはフンと鼻で笑う。


「やっとこっちを見たな、シャーロット。俺の言葉を聞き流した罰だ」


 お弁当箱が空になり、彼の言葉から気を逸らしてくれる物はもうない。

 逃げ場をなくした私に、彼は無情にもいつものあの言葉を言い放つ。


「いいか、よく聞け。お前の弁当は食べられなくはない。だが、こんなものは俺以外には、絶・対・に、食べさせるな。分かったな」


 いつか異国の商人が売っていたオニの面のような赤い顔で、彼が足早に去っていく。

 胸がじくじくと鈍い痛みを訴える。毒の染み込んだ言葉を投げられ続けたせいで、心はとっくに麻痺したはずなのに。やはり、デザートを奪われたのは痛手だったか。


 ふと時計を見ると、午後の授業まで十分を切っている。

 空になった二つのお弁当箱を片づけて、急いで彼の後を追った。


     *


「お前は今日から、俺の召使にしてやる」


 初めて会った日の翌日、ラッセルは教室で偉そうに宣言した。寒い日に外に出た時のような真っ赤な顔で、体を小刻みに震わせながら。

 当時の私は自分が貴族であるというプライドが強かったため、彼の言葉に即座に首を振った。「いやだ」と。


 しかし、王の傍系という血筋、オールディントン公爵家の人間には、この学校の教師でさえ逆らわない――否、逆らえない。

 同じ「貴族」という階級に入っていても、公爵と男爵では雲泥の差だ。権力でも財力でも、その他のあらゆる場面において、下位貴族は上位貴族に敵わない。


 ラッセル・オールディントンの宣言を覆す力が私にあるはずもなく。

 気付けば私の存在は、完全に彼の「召使」として定着していた。




「召使」は当然のように「主人」と一緒にされる。クラス替えをしても離れたことはなく、席替えをしても離れない。ラッセルはいつも私の隣か後ろの席にいる。

 今、彼は私の真後ろの席。なので、私は授業中も後頭部や首や背中に圧力と、時折突き刺さるような視線を感じ続けることになる。

 彼は召使の私が何をするのも気に入らないらしい。


 あれはもう何年前のことだろう。授業中、私は指名され、ある問題に解答した。予習していたためすらすらと答えることができ、先生も褒めてくれた。だがその授業直後の休み時間、私は彼に廊下に連れ出されて怒られた。いつものように彼は、顔を真っ赤にしていた。


「お前の声は、聞くに堪えない。今後はもう、指されても答えるな。……教師共にも、指さないように言っておく。いいか、お前の声を聞いていられるのは俺だけだ。俺以外とは喋るな。特に俺以外の男の耳に、その声は絶・対・に、入れるな」


 無茶な注文だった。けれどもその日から、授業中に指名されることはなくなった。


 また、ある時、他愛無いことがきっかけで、教室で笑ってしまったことがあった。私の笑顔を見るなり、彼はやはり廊下に連れ出して私を怒った。やっぱり、顔を真っ赤にして。


「その笑顔、この世のものとは思えない。危険物だ。見ても耐えられるのは俺だけだ。俺以外の奴の前では、絶・対・に、二・度・と、その顔をするな」


 重ねて念を押された上に、深い溜め息まで吐かれた。よほど私の笑顔は醜悪なのか。その日はショックで、帰ってから大泣きした。兄も姉も弟も妹も揃って「シャーロットの笑顔、素敵だよ!」と言ってくれたけれど、大して慰めにはならなかった。以来、私はなるべくポーカーフェイスを心掛けている。


 私とラッセルの関係は純然たる主従関係であり、それ以上でもそれ以下でもない。しかしそれをどう誤解したのか、ラッセルを慕う女性方に目を付けられてしまったこともある。


 その女性方はご親切にも人気の少ない校舎裏に私を呼び出し、多彩な表現と豊富な喩えを用いて「ラッセル様にはあなたのような者は相応しくない」と教えてくださった。

 そんなことは言われなくても充分、分かっていた。だいたい、私は召使として傍にいるよう言われているだけなのに、なぜ相応しいとか相応しくないなどという話になるのか。

 そう思ったのが、伝わってしまったのだろうか。


「そういえば、あなたは召使なのだったわね。なら、私たちの命令も聞けるでしょう?」


 私を囲む集団の中のリーダーらしい女性が、そう言って腕組みをした。


「何をしてもらおうかしらね……」


 女性たちが一斉にクスクスと嫌な笑いを浮かべた、その時。


「シャーロットに何をしている」


 その声で、女性たちは皆凍りついた。彼女らにはロクに目もくれず、ラッセルはまっすぐ私に向かってきた。上から下まで視線を巡らせて異常が無いことを確認すると、彼は私の手首を掴んで女性たちに宣言した。


「こいつは俺の女だ。使っていいのは俺だけだ」


 その場を逃れ教室まで戻ってから、ラッセルは苛立ちを押さえきれない様子で私に言った。


「シャーロット、お前は他の人間の視界に入るな。お前の存在は老若男女問わず他の人間の心を落ち着かなくさせる」


 視界に入るなと言われても、私は透明人間にはなれないのだが。

 これはもう、消えろと言っているに等しい。


 ……要するに、ラッセルは私が何をするのも気に入らないのだ。存在自体を否定するほどに。

 それで学校にいる間中ずっと、監視している。


     *


 午後の授業は、体育だった。

 授業中、指名されることがないというのはすでに述べたが、私は体育の授業も参加を許されていない。いつも、見学だ。

 かつては他の生徒たちと同じように、授業に出ていた。状況が変わったのは、11歳か12歳の頃。


 この学校は、夏には水泳の時間がある。

 体育の授業というのは、読んで字のごとく体を育むためのものである。それゆえ体を動かすにふさわしい格好になる。水泳ならば当然、水着だ。

 私も皆と同じように水着に着替えた。皆と全く同じデザインの水着を着て、皆と同じように泳いだ。


 しかし何故かそれが例によって、彼の癇に障ったらしい。

 授業時間中はなんとか耐えていたらしいが、終了の合図が鳴るなり一目散に私のところにやってきた。バサリと乱暴にタオルで私の体を包むと、


「肌を見せるな! イヤラシイ女め!!」

と罵倒した。


 授業だし……泳ぐ時は水着になるよね?

 そんな反論を、彼は受け付けなかった。

 全身が真っ赤で、震えが止まらないでいる彼は、寒がっているようにも見えた。実際は、ただ怒っていただけなのだが。


「お……お前の体を見て何とも思わない奴がいると思っているのか!? 泳ぐ時もそうだ。あんなふうに……あんな表情で息継ぎをするなど、誰に教わった!? く……っ! 瞼の裏に焼き付いて離れない。やっぱりあの時、飛び込んで強引にでも止めておけば。そうすれば、他の奴に見せずに済んだんだ……っ!!」


 愕然とした。私はそんなにヒドイ顔で息継ぎをしていたのだろうか。


「いいか、俺以外の人間がいる前では二・度・と、水着になるな。泳ぐ姿も絶・対・に、見せたりするな。分かったな!」


 泳ぎ終えた直後のように、彼はハァハァと荒い息を吐いていた。よほど憤りが収まらないらしい。

 翌日から私は、皆が涼しげにプールで泳いでいるのを、じっと座って見ているだけになってしまった。


 それでもその時の私は、我慢は夏の間だけだと信じていた。水泳のシーズンが終わればまた体育に出られる、と軽く考えていたのだ。

 ところが彼は、私が通常の体育の授業に出ることも禁じた。


「体操着もダメだ。肌を見せるなと言っただろう。お前は自分の体が男の目にどう映るのか、もっと自覚しろ」

 そう言って。




 今日の体育はテニス。せめて審判を、と思ったけれど、ラッセルに睨まれたので諦めた。

 そのラッセルは、長い手足を存分に生かし、のびのびとプレイしている。彼はどこにいても目を惹き、何をやっても様になる容姿の持ち主だ。チラチラと彼を見る女子が何人もいる。


 不意に、ラッセルがこちらを見た。視線がかち合う。


 が、すぐに逸らされた。まるで汚らわしい物でも見てしまったかのように、あからさまに顔を逸らされた。彼の背中から滲み出る、こちらを意識するまいという意志。心なしか、さっきより動きがぎこちなくなっている気がする。

 これ以上見てはいけない気がして、目を逸らした。

 テニスは好きだけれど、ただ見ているだけなのはつまらない。膝を抱えて俯くと、ほどなく眠気がやってきた。



「――シャーロット! シャーロット!!」


 大声で呼ばれ、肩を激しく揺さぶられる。ぼんやりと見上げると、ラッセルの整った顔が間近にあった。焦ったような、心配そうな表情に見えたのは、寝ぼけていたせいだろう。


「大丈夫か!?」


 まだぼうっとしたまま「寝てた」と答えると、大きな溜め息が降ってきた。


「……まったく、お前は今のその顔も、とても見られたものじゃないな……。いいか、二・度・と、俺以外の人間のいるところで無防備に寝起きの顔を晒したりするな」


 起き抜けにラッセルの暴言はキツイ。


「ふわぁーい」


 欠伸混じりに返事をした私に、彼は顔を真っ赤にさせ、眉間に深い皺を刻んで念を押す。


「その顔、俺以外には見せるな。絶・対・に、だぞ!」


     *


 彼と私のはっきりとした主従関係は、教師たちにとっても扱いに困るものだった。

 彼の目を盗んで、私は担任に呼び出された。

 空き教室に通され、差し出された書類はもう見慣れた物。


「君はもっと勉学に集中できる環境に移った方が良い。いくら彼の言うこととはいえ、今のままでは他の生徒たちにもあまり良い影響を与えないということは、分かってくれるね。君は優秀だ。我が校としても非常に惜しいことではあるが、君の将来を考えると、転校、というのが最善の選択だと先生は思う」


 先生のこのセリフも、そろそろ空で言えそうになってきた。

 この学校は貴族の子弟の通うところだ。それだけに、学費も馬鹿にならない。そのお金があれば我が家の暮らしは今よりも楽になることは確実だし、まだ幼い弟と妹の学費として貯めておくことも出来る。そして私も彼から解放され、晴れて自由の身……。

 こう考えるのももう何度目か分からないくらいだから、脳内での計算も一瞬で終わる。


『退学届』――そう書かれた紙に、迷わずサインする。

 ああ、どうか今回は、無事に受理されますように!

 私の目の前で彼の手が破り捨てていった、何枚もの退学届のことが頭をよぎった。




 やはり、というべきか。私の願いは届かなかった。

 私のサインが入った退学届は今、ラッセルの手の中にある。人のいなくなった教室で二人きり。外はしとしと雨が降っていた。

 彼は、冷たい目で私を見据えた。


「お前を放っておくことは出来ない」


 ビリ、と音を立て、退学届が真っ二つになる。


「お前を放っておくと、戦争が起こる。不治の病が蔓延し、絶望した者たちが次々と自殺を始めてしまうだろう。そんなことになっても構わないのか」


 あわれ、かつて退学届であった紙はさらに半分になってしまった。

 彼の口ぶりは、まるで私がこの世のあらゆる不幸の根源であるかのようである。彼の顔は次第に怒りで熱を帯びてきた。忌々しげに体を震わせ、深いため息をつく。


「私はあなたの召使じゃない」


 決死の思いでした反論も、彼の迫力に押されて弱弱しい。

 私が発言した途端、彼は一度大きく身震いした。眉間に刻まれる皺は深さを増している。

 耳まで茹でダコの色に染まった彼が、私を睨みつけて言った。


「召使でないというなら、それでいい。だが、俺から離れることは許さない」


 低い声も、怒りのためか震えている。

 ブルブルと震える手のまま、彼は紙をさらに細かく細かく、念入りに破いていった。


「お前のような女のそばに居られるのは、俺だけだ。転校して離れようなど、二・度・と、考えるな。いいな」


 手に残った紙屑を払い、彼が立ち去る――かと思いきや立ち止まり、ぎこちない動きで振り返った。


「……それから。俺のいないところで、俺以外の奴と二人きりになるのも止めろ。たとえ教師であっても、だ。お前は、自分が俺やそいつをどんな気持ちにさせるのか、もっと想像してみろ」


 口元を片手で覆い、彼は教室を出て行く。吐き気まで催したのだろうか。

 ピシャリ! やや乱暴に扉が閉まった。


 あれはきっと、「主人」を標榜するラッセルなりの、私への忠告なのだろう。自分といることで相手が不快になることなんて、あまり想像したくはないのだけれど。


「百歩譲ってそれは良いとしても、これはどうにかならないかな……」


 ラッセルが散らかしていったゴミを片づけるのは、私の仕事だった。


     *


 ここまで、私がいかにラッセル馬鹿にされてきたかばかりを語ってきたので、ラッセルは誰にでも意地の悪い、口の悪い男なのだと思われた方もいるかもしれない。


 だが、彼が意地悪なのは私に対してだけである。


 他の生徒たちに対しては、身分の別に関わらず気さくで優しい。よほどの理由があるか、私が関わってしまった場合を除いて。

 休み時間である今も私の後ろで、隣の席の生徒と談笑中だ。


「あ、やばい。忘れた」


 私の前に座っている男の子――確か名前はジュニアス――が焦った声で呟き、パッと後ろを振り向いた。目が合った私に、申し訳なさそうに頼んでくる。


「シャーロット、数学の予習やってる? 僕、今日当たるんだ。すっかり忘れてて」


 頷いてノートを差し出す。が、彼は突然真っ青になり、前を向いてしまった。


「……ジュニアス? どうしたの」

「ごめん。やっぱりいいや、自分でやるから」

「ジュニアス――」


 なおも呼びかけようとするも、私の腕が背後から掴まれた。ラッセルが無表情のまま、私を強引に廊下に連れ出す。

 壁を背に、彼の冷え冷えとした眼差しを浴びることとなった。視線の温度とは逆に、彼の顔はまた熱を持ったように赤くなっている。

 原因の分からない彼の怒りを受け止めかねて俯く。いや、原因は明らかだ。私がジュニアスに声を聞かせてしまったこと。


「この唇で、この声で。名を呼ばれる男の気持ちを考えろ」


 ラッセルの熱い指先が、震えながら私の下唇を摘まみ、徐に引っ張る。パッと放すと、引っ張ったところを指で撫でた。


「俺以外の名は、絶・対・に、呼ぶな。たとえクラスメイトであってもだ。分かったな」


     ※


 ラッセル・オールディントンは、シャーロット・アシュモアにベタ惚れである。

 二人と同じクラスになったことが一度でもあれば、皆が気づく事実。

 知らないのは、シャーロット本人だけだろう。


 先ほど僕がうっかりシャーロットに声をかけてしまったせいで、彼女はラッセルに連れ出され、廊下でお説教を食らっていた。

 廊下に出ると、極力気配を消して耳を澄ます。

 自分が原因となってしまった以上、少し気にかかる……というのは建前で、本当はただ、二人のやり取りが気になるだけなのだけれど。


 ラッセルは真っ赤な顔で、シャーロットを見つめている。その視線には彼女が可愛くて仕方がないという「好き好きオーラ」が滲み出ていた。いや、視線だけではない。全身から放射状に、半径二メートル以内に立ち入った者を汚染する勢いでオーラを放っている。ラッセルの体がぶるぶると震えているのは、寒いからではない。高ぶる感情を、彼が必死でこらえているからだ。

 しかしそんな彼の様子は、俯いてしまった彼女の視界には入っていない。


「この唇で、この声で。名を呼ばれる男の気持ちを考えろ。俺以外の名は、絶・対・に、呼ぶな。たとえクラスメイトであってもだ。分かったな」


 シャーロットの下唇を摘まんで放す、その仕草。うっとりと見つめる、その表情。

 省略が多く、言葉の選択ミスも多い彼のセリフの真意が、漏れ聞こえてくる。


『この(ぷっくりとした魅力的な)唇で、この(愛らしく蠱惑的な)声で。名を呼ばれる男の気持ちを考えろ(欲情しない男なんていないのだから)。俺以外の名は、絶・対・に、呼ぶな(でないと俺は嫉妬で狂ってしまう)。たとえクラスメイトであってもだ(近くにいる奴ほど危ないかもしれない……近づいて欲しくないんだ)。分かったな(頼むから俺の言うことを聞いてくれ。不安で、気が気でないんだ)』


 括弧の中は僕が勝手に足したものだけど、そう外れてはいないはずだ。あの男なら、このくらいは言う。

 ただ、口に出す言葉の中にはストレートに彼女を褒める単語が入っていない。だから、シャーロットは馬鹿にされているとしか感じられないようだ。

 その証拠に、彼の言葉を聞いたシャーロットはどんどん委縮している。本気で傷ついているらしい彼女は、見ていて少し不憫になる。

 とは言え、今のままで十分面白いから、僕は何も口出しする気はないのだけれど。


「他の男の名は呼ぶな。だが……俺の名だけは、特別に呼ぶことを許してやろう」


 ラッセルの偉そうな言い方に、思わず声を出して笑いそうになった。寸でのところで堪えたけれど。

呼ぶことを許すって……。本当はただ、シャーロットに名前を呼んでもらいたいだけだろう!


「呼べ。俺の名を」


 いきなり直球になったラッセルの命令に、シャーロットは従順だった。


「ラッセル」

「……もう一回」

「ラッセル」

「……もう一回」

「ラッセル」

「……もう一回」

「ラッセル」

「……シャーロット」

「はい?」

「最後にもう一回だ」

「……ラッセル」


 これをバカップルと言わずして何と言おう。

 鈴を転がしたような愛らしい声がラッセルを呼ぶたび、彼は大きく息を吐きだした。きっと彼は今、葛藤している。いろんな衝動を、理性がセーブしようとしているのだろう。眉間に皺が寄って表情が険しくなるのも、気を抜くとユルユルになってしまうからなのだ。


 最後に大きく溜息を吐くと、ラッセルはシャーロットを教室に戻らせた。一人になるとたちまち、彼が頬を緩ませた。彼の脳内では、シャーロットが彼を呼ぶ声が何度も繰り返し再生されているに違いない。

 結局ラッセルは休み時間を目一杯費やし、一人でニヤニヤし続けていた。


     *


 来週の放課後、ダンスパーティが開催される。

 会場は学校の敷地内にある多目的ホール。学校側としては、紳士淑女のたしなみを学び、社交術を身につける、という意図があるらしい。

 女子生徒たちは皆、毎年ドレスを新調する気合の入れようだ。実際、このパーティで意中の人を射止めた、という話もよく聞く。私には縁のない話だが。今年はドレスを新調するお金もないし、去年着たのに少し手を加えてみるか。


 そんなことを思いながら帰り支度を済ませ、教室を出ようとしたところでラッセルに手首を掴まれた。引っ張られるままついていき、オールディントン家の迎えの車に乗せられる。走り出した車は我が家とは違う方向へ向かい、辿り着いたのは仕立屋だった。


 店に入るなり、メジャーを持った女性たちが素早く私を取り囲む。あっという間に制服を剥かれ、下着姿にされる。そして、胸、腰回り、腕の太さ、足の長さ、靴のサイズ、果ては指の太さまで、一斉にサイズを測り始めた。

 キャミソール姿で測定されまくる傍ら、色も素材も様々なドレス生地のサンプルが順番に体に当てられる。ラッセルは頬を紅潮させつつそれを見て、頷いたり指示を出したりしている。あまりに真剣なので、私下着姿なのだけどとは言えなかった。


 仕立屋とラッセルの相談が一段落し、私もメジャーから解放された。さっとラッセルに近づいて詰め寄る。


「何なの、これ!」

「ドレスを作るんだ」

「それは分かるけど、なんで……。誰の?」

「他の奴のドレスを作るのにお前を連れてきてどうする」

「でも、ウチお金無いよ」

「金なら俺が出す。いいから黙って言うことを聞け。恥を晒したくないならな」


 反論の言葉を探しているうちに仕立屋が戻ってきて、ラッセルは値段の交渉に入ってしまった。口を挟めない空気だったので仕方なく、店の中をふらふらして暇を潰す。

 やたらに広いこの店は、頭の先から足の先までトータルコーディネートできることが売りだ。細かな装飾品まで、品揃えが良い。


 華やかなアクセサリが並ぶきらきらした店内で呆けていると、ラッセルがやってきた。私の目の前に立つと、固く握り締めた拳を突き出してくる。まさか、こんな所で殴られる!? と思わず目を瞑ってしまった。が、予想したような衝撃はない。おそるおそる目を開けると、ラッセルが開いた掌を私に差し出し、そっぽを向いていた。


 その掌には、小さな髪留め。それは紫色のチューリップがデザインされており、可愛らしさの中にもどこか優雅さと上品さを兼ね備えた逸品だった。

 彼の意図が掴めず、じっとそれを見つめていると、焦れたらしい彼が私の手を掴んで髪留めを握らせた。


「……私に?」

「他に誰がいるんだ」

「……ありがとう。つけてみてもいい?」


 ラッセルの了承を得て、早速留めてみる。

 図ったように店員が鏡を持ってきてくれた。「よくお似合いですよ」の一言を添えて。

 似合っているかどうかはともかく、髪留めは本当に可愛い。

 ふと見上げると、珍しいことが起こっていた。


 ラッセルが満足気に微笑んでいたのだ。


 私に向けられる笑み。一体何年ぶりだろう?

 あまりに綺麗なその微笑みについ見惚れていると、視線に気づいたラッセルがハッとし、無表情になる。顔がみるみる真っ赤になり、見慣れたいつもの険しい表情に戻ってしまった。


「それ、パーティでもつけろよ。絶・対・に、だぞ。約束だからな」


 しかし結局、その約束が果たされることはなかった。




 帰宅すると、母方の叔父が来ていた。私のお見合い相手の釣書を持って。


 私の母の実家は労働階級で、母の父親つまり私の祖父の事業が大当たりし、いわゆる「富豪」の仲間入りをしていた。だが、その血筋のために「貴族」にはなれなかった。お金はあっても、身分や名誉は認められていなかった。

 かたや父の家はと言えば、血筋のために身分も名誉もある。が、先代から零落してお金が無かった。

 私の両親の結婚は、両家の利害の一致によって実現した。政略結婚である。


 叔父は、姉が貴族へ嫁いだと言っても今も労働階級だ。しかも、祖父亡き後に継いだ会社も、現在は金銭的に厳しい状況にあった。

 そんな時、叔父の会社に融資を申し出てきた商人がいた。その商人の息子と叔父の子との結婚を条件に。

 だが叔父の娘、つまり私の従姉には、既に婚約者がいた。そこで、私が叔父の養子になり、その商人の息子に嫁ぐのはどうか――という話になったのだ。

 私には姉と妹がいるが、商人の息子と一番年が近いという理由で私が選ばれた。私に異存はない。


 叔父から渡された釣書には、穏やかそうな青年の写真。名前はアーウェル・ブロウズ。私より二つ年上だ。


「先方は、再来週の日曜に会いたいと言っている」


 政略結婚に異存はなかったが、現実味を帯びてくると少し気が重くなる。

 やっぱり、古いドレスの仕立て直しが必要だろうか。そんなことを考えた。


     ※


「ジュニアス、どこへ行くの?」

「ちょっと外の空気を吸ってくるよ」


 女性の手を解き、重厚なドアを押して外へ出る。強い香水の匂いに麻痺していた鼻が、徐々に嗅覚を取り戻していくのが分かった。

 足の向くまま散歩していると、校舎の方へ来ていた。ふと思い立ち、人のいなくなった夕暮れの校舎を歩いていく。

 自分の教室の前まで来た時、中に人影が見えた。入ってみると、シャーロットが制服のまま自分の席でぼんやりしていた。


「シャーロット」

「ジュニアス。……あ」


 シャーロットが「しまった」というように口を押さえた。ラッセルに、他の男の名前を呼ぶな、声を聞かせるな、と言われたことを思い出したのだろう。


「いいんだよ、喋っても。ここにラッセルはいないんだし」


 ホールを出る前に見た、ラッセルの姿を思い出す。女性達に囲まれ、不機嫌な顔を取り繕おうともしないラッセルを。


「どうして行かないの? パーティ」

「行くなって言われたの。ラッセルに」


 ほう? 手近な椅子に腰かけて、話を聞く姿勢をとる。


「昨日ね、ラッセルの家に行ったの。先週仕立屋に頼んだドレスが出来たからって、引っ張っていかれて」


 そして彼女は、何着ものドレスを次々に試着させられたらしい。


「ラッセル、私が着替えるたびに、『直視させるな、目が潰れる』だの、『隣に立つ男が恥ずかしい思いをする』だの、『こっちを見るな。目を合わせると石のように固まってしまうだろう』だの。私を妖怪みたいに言うのよ!」


 ああ……。納得した。

 僕なりにラッセルの言葉を翻訳してみる。


『直視させるな、目が潰れる』→『着飾った君は美しくて眩しい、太陽のようだ』

『隣に立つ男が恥ずかしい思いをする』→『君が美しすぎてどんな男でも釣り合わない。あんな男には勿体無いと、皆に笑われてしまう』

『こっちを見るな。目を合わせると石のように固まってしまうだろう』→『美しい君に見惚れるあまり、呼吸すら忘れる』


 ――こんな感じで合っているだろう。


 シャーロットの愚痴はまだ続いていた。


「おまけに、『お前はよくよく、人を落ち着かなくさせる天才だな』なんて言うの! おっきな溜息は吐くし、気分が悪くなったのを見せつけるみたいに、胸を手で押さえたりまでして……」


 うん。それ、恋煩いだね完全に。


「あげく、『ダメだな、これではとても人には見せられない。お前、明日は出るな』だって!! ヒドイと思わない? まあそりゃ、パーティのあの雰囲気、私はどちらかというと苦手だし、あまり出たいとは思わないけど……」


 ラッセルの独占欲はすさまじい。きっと着飾ったシャーロットの姿も、誰にも見せず一人占めしたかったのだろう。彼は普段から、自分以外の男の視線を警戒しまくってるからなあ。

 シャーロットは話しながら、ずっと手の中で小さな何かを弄んでいた。


「それ、何?」

「髪留め。ラッセルがくれたの」


 シャーロットが見せてくれたそれは、紫色のチューリップがあしらわれていた。綺麗なアクセサリだ。

 けれど僕は、その美しさよりも、シャーロットの表情から目が離せなかった。彼女は小さな花のつぼみがほころぶような微笑みを浮かべていた。


「チューリップ、好きなんだね」

「うん。好き」


 それはなんとなく知っていた。このところラッセルが昼食に彼女を連れ出す時、向かうのは必ずチューリップの花壇のある方だったから。

 でも、髪留めを嬉しそうに見せてくれるその仕草からは、ただそれを気に入っている、という以上の理由が窺えた。


「……可愛いなあ」


 自然と零れた呟きに、シャーロットが一瞬で真っ赤になる。その顔は照れた時の彼と少し似ていた。長く一緒にいると、そんなところまで似てくるのかな。


「お、お世辞はいいよ。私、可愛くなんかない。ラッセルは視界に入るなって言うし、見ていられない顔だとも言われたし。笑うと、危険物扱いもされた」


 ラッセルの言葉は全て、シャーロットが可愛くて仕方ないあまりに出たものだ。ところが彼女は、それらを尽くネガティブに解釈してしまっている。そのせいで彼女の自己評価は著しく低い。

 ラッセルの彼女に対する評価と、彼女の自己評価。足して二で割ればちょうどいいのではないかと、僕は思っている。つまり彼女は、普通の女の子だ。今は彼の言葉に委縮して、その魅力はまだ封じられたままだけれど。彼の言葉に隠された真意に気づき、彼の思いを受け止められるようになったその時、彼女の美しさはきっと花開く。


「ラッセルの言葉は、自信過剰に解釈するくらいでちょうどいいよ」


 ラッセルが直接的なことを言わないのは照れ臭いからだろう。そりゃそうだ、あんなセリフ、素面じゃ言えないよな。

 それでも彼は彼なりに、精一杯努力はしているつもりのようだ。それらがすべて裏目に出ているというのは、さすがに少し不憫かな。

 だからこれは、ささやかながらアドバイス。


「……自信過剰、って?」

「たとえば『見ていられない顔』っていうのは、『美しすぎて見ていられない顔』みたいにね」

「そう思えるくらい図太かったら、ラッセルといるのも辛くないんだろうなあ」


 西日に照らされた彼女の顔は、笑っているのに少し切なげだった。


「……さて、僕はそろそろ戻るよ。シャーロットは帰らないの?」

「ラッセルに、ここで待ってるように言われてるから」

「そっか。――そうだ、シャーロット。僕とこうして話したことは、ラッセルには内緒ね」

「うん、言わない。ラッセルに怒られたくないもの」


 この時彼女はラッセルに対して、もっと大きな秘密を抱えていた。そんなこと僕は知るはずもなかったけど。


     *


 召使が勝手にお見合いするなんて、ラッセルが知ったら怒るだろうなあ。

 そう思いながら何も言わないまま、その日がやってきた。

 待ち合わせ場所は、植物園のゲート前。初めて会ったアーウェルは、写真で見た印象のとおり温厚そうな青年だった。

 挨拶もそこそこに、植物園のゲートをくぐる。


「どうしていきなり植物園なのだろう思われたでしょうね。僕はどうも、堅苦しいのは苦手で……」


 頬を掻きながら少し恥ずかしそうに笑う彼に、好感を覚えた。


「植物がお好きなんですか?」

「ええ。シャーロットは……?」

「私も好きです」

「よかった」


 外国から持ち込まれたという珍しい花々を見て回りながら、いろんな話をした。お互いの学校のこと、趣味のこと。

 鈴蘭の花の前に来た時、こんなことを打ち明けられた。


「こんなことをお話しするのは恥ずかしいのですが……実は僕、憧れていたんですよ。こんなふうに、素敵な女性と二人でこの花たちを見に来ること」

「ロマンチストなんですね。『素敵な女性』でなくて申し訳ないです」

「そんなことない! シャーロットは素敵です。僕には勿体無いほどだ」

「そそそんな! アーウェルの方が私には勿体無い、素敵な人だと思います!」


 なんだか恥ずかしい!

 しばし逡巡した後、思い切ったようにアーウェルが言った。


「あの、シャーロットが嫌でなければ、ですが。手を、繋いでもいいですか」

「は、はい!」


 そっと差し出された手に、手を重ねる。大きくて、温かな手だ。

 ふいに、私の腕や手首を掴む時の、ラッセルの熱い手の感触を思い出す。


「緊張、していますか?」


 落ち着かない私を、アーウェルが気遣ってくれる。


「……はじめて、なんです。こんなふうに男の人と二人で手を繋いで、……デート、するのは」


 ラッセルには腕を掴まれるか手首を握られるかの乱暴な扱いを受けている。一緒に出かけることもあったけれど、あれは決してデートではない。


「それは光栄ですね。はじめて、か」


 繋がれた手も、向けられるまなざしも、どこまでも優しい。

 こうして一緒にいれば、穏やかな気持ちでいられる。いつかこの人を好きになれる――そんな予感がした。




「あ、チューリップ」


 色も品種も多様なチューリップの咲く一画を見つけて嬉しくなる。


「お好きですか?」

「ええ、大好きなんです!」


 しゃがみこんで観察していると、つい頬が弛んでくる。


「では、チューリップの花言葉はご存知ですか。色によって少しずつ意味が違うのですよ。赤なら『愛の告白』、黄色なら『実らない恋』というように」


 その言葉に、ラッセルのくれた髪留めの意匠が眼前を掠めた。


「――紫は?」

「『永遠の愛』ですね」


 そんなはずはない。彼がそんなつもりで、髪留めをくれるなんてことは。

 なのに、どうして……。


 どうして、そうであればいいなんて、期待してしまうのだろう?




 広い園内を半分ほど見て回ったところで、ベンチを見つけたので一休みする。

 アーウェルが用を足しに行っている間に、鞄の中からこっそりと、あの髪留めを取り出した。


「なんで持って来ちゃったのかな……」


 指でそっと、紫のチューリップを撫でる。ラッセルのことを考えると、溜め息が漏れた。


「男性からの贈り物ですか?」


 いつの間に戻ってきたのか、アーウェルが隣に座っていた。

 気配に気がつかないくらい、私はぼんやりしていたらしい。


「……はい」


 アーウェルの問いに小さく頷いて答えると、彼の表情が苦いものに変わった。


「捨ててもらえませんか、それ」

「え?」


 思わず握りしめる。離すまいとする自分の反応に、自分で驚いた。


「ご家族から、ではないですよね? それをあなたに贈った方は、あなたにとって特別な男性ですか」


 特別、と言えばそうかもしれない。もう十年一緒にいるし、他に親しい男性もいない。でも、彼が考えるような関係では、決してない。


「新しい髪飾りを、僕に贈らせてもらえませんか。些細なことを気にして、と笑われるかもしれませんが……僕は自分の妻になる女性が他の男から贈られた物を身につけている姿は見たくないんです。大切そうに眺めて、溜め息をつく姿も」


 ラッセルと離れ、アーウェルとの未来を選ぶというのなら、この髪留めは捨てるべきだ。

 でも、手放せない。私はこれを気に入っているし、何より――。


 これを身につけた時の、ラッセルの微笑みが忘れられない。


 出会って十年。滅多に見せない、私に対して向けられた笑顔。どうして私は、それに縋ろうとしているのだろう?


「ごめんなさい、シャーロット。そんな顔をさせるつもりはなかった……忘れてください」


 私の顔を覗き込んだアーウェルが、あわてたように言った。


「――あちらのハナミズキを見に行きませんか。綺麗ですよ」


 気まずくなってしまった空気を拭い去るように、アーウェルが笑って立ち上がり、先を歩いていく。

 私も慌てて後を追い、アーウェルの隣に並んだ。

 けれどもう、その手が私に伸ばされることはなかった。




 美しい植物を観賞しながらも、私の心はラッセルのことでいっぱいだった。

 うわの空のまま、アーウェルにただついて行くだけ。


 そんな私を気遣ってこちらを見たアーウェルが、にわかに目を見張り立ち止まる。

 私と向き合うと、柔らかく笑った。その瞳に、ほんの少しだけ切なさも滲ませて。


「今日初めて会ったのに、こんな気持ちになるのは不思議なのですが……。シャーロット、僕はあなたに、幸せになって欲しい。できるなら、あなたを幸せに出来るのが僕であればいい、とも思います。そのために、あなたにも僕と同じ気持ちでいて欲しい。でも」


 わずかに躊躇い、でも一瞬のちには決然と、私に問いかける。


「あなたの心には、誰がいますか?」


 ――ラッセル。

 真っ先に思い浮かぶのは、彼だった。でもそんなこと、


「認められるはずない」

「どうして?」


 だって認めたって、私が傷つくだけなのに。彼は私のことなんて何とも思っていない。それどころか嫌っている。

 そう言うと、アーウェルは私の目から溢れ出る涙を、指先で拭った。まるで、自分も泣くのを我慢している兄が、妹を優しく慰めるように。


「あなたの心にいて、あなたを泣かせているのは……後ろにいる男性でしょうか?」


 振り返ると、ラッセルが不機嫌そうに立っていた。


「だとしたら、何か誤解があるようだ。彼があなたを嫌っているなんてあり得ませんよ。今だって、あなたに触れた僕のことを射殺さん勢いで睨んでいらっしゃるからね」


 ラッセルはアーウェルを睨みつけ、私と彼の間に立った。私を守る盾にでもなろうとするかのようだ、と感じるのは私の錯覚だろうか。


「俺の女が世話をかけたな」


 アーウェルが苦笑したのが気配で分かった。


「分かった。僕は退散するよ」


 横を通り過ぎる時、アーウェルは素早く私の耳元に顔を寄せて囁いた。


「彼のことが嫌になったら、いつでも僕のところにおいで」

「させない」


 アーウェルの言葉に、即座にラッセルが噛みつく。けれどアーウェルは余裕の笑みを浮かべた。


「決めるのは、彼女だからね」


 そしてそのまま振り向かず、まっすぐ出口へ向かって行った。


     *


「どういうつもりだ。離れるなと言っただろう」


 残された私たちは、そのまま出口へ向かうわけにもいかず――うっかりアーウェルと鉢合わせたくないので――、なんとなくチューリップの一画へと足を向けていた。


「……そっちこそ」

「何?」

「離れるなって、どういうつもりで言ってるの」


 ラッセルが、仏頂面のまま赤くなる。


「分からないのか?」

「召使だから、でしょ。でもそれなら、私じゃなくてもいいじゃない。どうして――」

「召使だなんて、思っていない!」

「言ったじゃない、召使だって!」

「召使でなくていい、とも言ったはずだ」


 え……ええー!?


「召使でないならどうして……ブスだとか顔を見せるなとか言うくせに」

「言ってない! 俺はお前がかわ……かわ……」


 かわ?


「……っあー! 言えるかっ!!」


 感情を爆発させるように、ラッセルが叫んだ。ふーっと長く息を吐いた後、落ち着いた声で言う。


「とにかく、金が必要なら俺が出す。だから養子だとか婚約だとか、余計なことは二・度・と、考えるな。絶・対・に! だぞ」



 私たちを囲んで、チューリップが風に揺れている。視界の隅に一輪の、紫のチューリップが映った。まだ咲き始めの、まわりと比べて少し小ぶりの花が。


 ――認めても、期待しても……いいのかな。


「ね、ラッセル。紫のチューリップの花言葉、信じてもいい?」


 鞄から、あの髪留めを取り出す。


「紫のチューリップの花言葉、『永遠の愛』だって教えてもらったの。図々しいかもしれないけど、それがこの髪留めをくれた意味なんだって、自惚れてもいい?」


 ラッセルが、今まで見たことがないほど真っ赤な顔をして、それでも険しい顔をすることも顔を背けることもなく、私を見つめる。

 心拍数が跳ねあがる。長く感じられた一瞬ののち――


「ああ。俺の気持ちだ」

 ラッセルが優しく笑った。




 そろそろ出口へ向かってもいい頃合いだ。

 いつものように手首を掴もうとしたラッセルに、思い切って言ってみる。


「ラッセル。手、繋ぎたい」

「……」


 彼の指が柔らかく、私の手に触れた。大きな手のひらがゆっくりと、大切な物を扱うように私の手を包んだ。ラッセルの熱さが、少しずつ伝染して体中を廻る。

 見上げると彼は、耳まで赤くしてあさっての方を向いていた。


「……なんでそっぽ向いてるの?」

「見てられないんだ」


 怒ったように聞こえる口調。また暴言、と思ったその時、ジュニアスの言葉を思い出した。


「『見るに堪えない顔』っていうのは、『美しすぎて見ていられない顔』っていう意味だって、……ホント?」


 私と目を合わせないまま、ラッセルが頷く。


「他に、どんな解釈があるんだよ」

「『見るに堪えないくらい醜い顔』」

「は!? そんなこと思うワケがないだろう! シャーロットの顔が醜いわけがない!! むしろ全世界を魅了する美しさで――」


 ハッとしたラッセルが、口を噤んで頬を染める。

 ……本当だ。


「ジュニアスの言うとおりだ」

「……ジュニアス?」

「な、なんでもない!」

「ふーん」


 ラッセルがボソッと「ジュニアス、あとでシメる」と呟いた。……ごめん、ジュニアス。




 ラッセルは、私を家まで送ってくれた。

 門の前に立ったまま、走り去るオールディントン家の車を見送る。車の中からじっと私を見つめているラッセルの姿が、完全に見えなくなるまで。


「……ラッセル」


 声が届かないことが分かっていても、それでも呼びたかった。


 ――別れたばかりなのに、もう会いたい。


 一人になった途端、思い知らされる。今まで気づかないふりをして、封じ込めてきた気持ち。


 可愛いと思われたくて。だからこそ、彼の言葉に傷ついていたこと。

 どんなにひどい言葉を投げつけられても、一緒に居たかったこと。

 あんな形でも特別扱いされて、本当は少し嬉しかったこと。

 彼の笑った顔に見惚れたこと。


 心が解けて、何一つごまかしのない、素直な気持ちに満たされていく。


 私は、ラッセルのことが好き。


 臆病で、傷つくのが怖くて、今になるまで認められなかったけれど。

 本当は、初めて会ったあの日から――


     *


「今日ね、とってもキレイでカッコいい男の子に会ったんだ。ラッセルっていうんだって」


 家に帰るなり、6歳の私は家族に報告した。ラッセルとのやり取りを、嬉しそうに。


「見るにたえないって言われちゃったけど……。でもね、あきらめないんだ! 顔はきっと、そのうち見慣れるもんね。わたし、あの子と仲良くなる!」


 そう宣言した。

 そして、「またイジワル言われるかもしれないよ」という兄の言葉に、胸を張って言ったのだ。


「それでもいいの。わたしはラッセルのこと、もう大すきだもの!」


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