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手提げ鞄を肩にひっかけた初老の男が、小高い丘陵地の頂上を目指して歩いていた。体が前後に振れる度に、カチャカチャと金属が触れ合う音が響く。中に入っているのは磁針器や鋏などの医療道具だ。
照明はおろか月明かりひとつない夜道だったが、道幅が広いのに加えて整然と設けられた並木道のおかげで歩くのには困らない。管理が行き届いた私有地であるがゆえに、通行の邪魔になりそうな障害物は定期的にのけられている。昼間緑に萌える初夏の木々は、梢の影が幾重にも絡み合って黒い壁と化していた。
ユーヴォ・アグラスタは皇族の診療をしていたこともある名うての王宮医術士だった。セーニア教国の皇妹カティスの死に伴い、病を治せなかった責任を取って辞去。今は一介の町医者として郊外で妻と一緒に暮らしている。
千人以上もの兵士や女中の健康管理は、忙しいという言葉ではとても言い足りないものだ。分業でできる限りの効率化をしているものの、喉を潤す間もない。一日の仕事を終えた後でも、やんごとなき身分の者が体調不良を訴えれば容赦なく呼び出しがかかる。深夜、燭台と医療道具を片手に広い王宮の回廊を看護師たちと走り回り、症状が重ければそのままつきっきりで看病し、大したことがなければ安堵と落胆とを覚える。疫病が蔓延した年度には三、四日の徹夜が続くことも珍しくない。そうした時には仲間の薬師に調合してもらった抗眠薬を飲んで難を凌ぐのだが、後になって胃を痛めることが多くなり、結局胃薬も服用するようになるといった有様だ。
妻からはたびたび、医者の不養生を地で行く人、と呆れられていた。それでも今日まで連れ添ってくれたことには、感謝するべきだろう。朝早くから家事を切り盛りし、二人の子どもの躾と教育を行い、遅い帰りに文句も言わず晩酌をしてくれる。はっと目を引くような容姿ではないが、自分には過ぎた女だ。体が動かなくなる前に、一緒に温泉巡りにいくのもいいかも知れない。
波濤のような日々から遠ざかってはや二カ月。不思議なもので、最近ではうんざりしていたはずの暮らしを懐かしく思い始めている。かつての仕事仲間や部下たちはうまくやっているだろうか。かつての自分のように、医者の不養生になっていないだろうか。受け持っていた患者たちの症状は、きちんと快方に向かってくれているだろうか。重責から解放されたはずなのに、未だそうした思考が巡り、心を惑わせる。この歳になるまで気づかなかったことだが、あるいはそういう性分なのだろう。
数十年という長い間王宮医術士という地位にあり、現役を退く前は統括長も務め上げた。医者としての人生を考えれば、多分に成功した方だろう。と、そうした自覚はあったのだが、ひとつだけどうしても燻り続ける疑念があった。自分が辞めるきっかけとなった皇女の死についてだ。
アダマンティス教皇の妹カティスと出会ったのは、彼女がまだ十に届かぬ齢のころだった。幼少の頃より度々熱病に侵されるということで定期的に健診を行い、栄養面や生活面についての助言をすることになった。
その甲斐あってかコンラッド・ディアーダと結婚する頃には生活に不自由ない状態にまで改善した。先の教皇であるカティスの父にはいたく感謝され、ディアーダ家の健康管理も一手に引き受けることになった。
世間一般で言うかかり付け医になってからというもの、ユーヴォはしばしば会食や催し物に招かれるようになった。数年前、コンラッドのナイト・マスター受勲の儀にまで友人として招待された折には、さすがに慌てた。名立たる上流社会の人間たちの中にいて場違いにも思えたのだが、コンラッド夫妻は礼儀と敬意をもって自分と接してくれた。
そういった経緯もあり、カティスの体がどのような状態にあるか、およそ把握しているという自負はあった。確かに常人に比べて体が丈夫というわけではなかったが、それでも人並みの生活を送るのに支障がない状態は保てていたのだ。
だからこそ、彼女がかかった原因不明の咳病については最後まで納得がいかなかったし、その病状の進行具合に不可解さも感じていた。処置をすれば改善の兆しがあり、根治に希望を持てそうな段階まで回復した途端に著しく悪化する。その繰り返しだった。
毒や呪いの可能性は真っ先に考えた。皇族である以上、暗殺の可能性は常に隣合わせだ。呪いに関しては強力な護符を肌身離さず身につけていたため、問題があるとは思えなかった。薬剤師にはその時々の症状に応じて解毒薬を煎じてもらい、外から入ってくる食べ物には特にしっかりと毒味をするよう申しつけた。
だが、そうした対策もさして効果は見られず、容体は治癒魔法によってのみ持ち直す兆しが見られるだけだった。処置が間違っていたのではないかとか、他の医者に変えたらどうだなどといった心ない言葉を浴びせられることもあったが、当のユーヴォにそんなことを気にする余裕はみじんもなかった。彼の頭にあったのは患者の回復と、家族の綻ぶ顔。もしくはそれが裏返ったものだけだった。
腫瘍や先天的な難病によるものならばともかく、まだ若いカティスがあれほどに衰弱する理由がないという、経験に裏打ちされた確信があった。にもかかわらず、治ってくれという願いを嘲笑うかのように、病状は急転直下を繰り返した。
一年以上にわたる闘病生活はカティスの体力と精神力をごっそりと削ぎ落し、最初のうちは効果を見せていた治癒魔法も効きが悪くなっていった。それでも、カティスは治せない自分を責めることはしなかった。食べ物も、水すらも通さないほどに喉がただれた彼女が見せる笑顔は、どんな罵声や揶揄よりも心に突き刺さった。
石段を登り終え、ユーヴォが顔を上げた。目的地のオブジェ、羽ばたく鳥の形を模した石像があった。
埋葬の一部始終が昨日のことのように思い出され、無力感が胸を切り刻んだ。それまで培ってきた技術や矜持といったものは、仕えるべき主人であり、親しい友人でもあった彼女を治す助けにはならなかった。
コンラッドら遺族に対しては申し訳ない思いが先立ち、葬儀の時には夫のコンラッドや頬を濡らす子どもたちの方をまともに見れなかった。だから、王宮医術士を辞する時にはさほど悩まなかった。曲がりなりにも責任を取る方法はそれくらいしかないのだという思いがあったからだ。
一方で、腹の底では不信感も捨てきれなかった。遺体を念入りに調べれば、何が彼女の体を蝕んでいたのか定かになることも有り得たのに、亡くなってからあれよあれよという間に火葬されることが決定したからだ。
セーニアの皇族は、火葬ではなく土葬が通例となっている。何か特別な事情があるのでは、と勘繰ったのは自分だけではないはずだった。
そのうち、もしや敵は外ではなくて内にいたのではないかという考えが働いた。もちろんそんなはずがないという思いもあった。というよりは、そう信じたかっただけかも知れない。アダマンティスやコンラッドならいざ知らず、一介の女性に過ぎないカティスを殺めて得をする人間がいるとは考えにくかったし、誰かから恨みを買うようなタイプの人間ではなかったと断言できるからだ。
カティスが眠る墓石は半年前と同じく門から左奥にいったところにあった。夜中の墓地というのはやはり薄気味が悪いものだ。埋まっているのが王家だろうが無縁仏だろうが関係ない。
目的の物を見つけたユーヴォが、足を止めた。すぐに、その表情が険しいものに変わった。
墓そのものに荒らされた形跡はない。しかし、周りの地面が変に波打っていてでこぼこしている。所々土が焼け焦げているのは火にかけた跡だろうか。
本心を言えば墓を暴きたいくらいだったが、重罪だ。カティスが皇族であることを考えれば極刑も十二分にあり得る話だった。ユーヴォは荷物を芝生の上に置き、拡大鏡を手にして墓石の周りを丹念に調べ始めた。カティスの遺体が収められてからはまだ二カ月弱しか経っていない。そして、埋葬時にこのような跡はなかった。つまり、その間に何かしらの変化が生じ、誰かがその痕跡を消そうとしたのだ。
調べること十数分。墓の裏に回って伸びた雑草を掻き分けていたユーヴォは、枯れ草の下に妙なものを見つけた。糸のように細い蔓だった。ピンセットで抓み、落とさないよう慎重に持ち上げてみる。
「なんじゃ、このみょうちくりんな植物は――」
ユーヴォの言葉が息を飲む音に掻き消された。目線は、ピンセットの先端に固定された蔓の端から地面へと流れている。
さらに引っ張ってみた。白い糸は手応えなく伸張し、後から後から引っ張り出された。
気が逸ったように、ユーヴォがピンセットで糸を手繰り寄せた。極細の蔓が芝生の上に幾重にも折り重なっていく。よく見ると、わずかずつだが糸が太くなっている。
はたと、奥を向いていた先端がくるりとこちらを向いた。たかが蔓一本。にもかかわらず、首筋を説明しようのない怖気が走った。引き出した長さは10メードを軽く超えていた。この下には何が埋まっているのだろうという疑問と、火をかけたのはこの得体の知れないものを隠すためだという確信が湧いた。
ここは一旦退いて、然るべき機関に通報するべきだ。ユーヴォは鋏を取り出し、指先ほどの長さに切り分けた植物を密封性の高いガラス容器の中に入れた。ピンセットの先を火で滅菌し、ガーゼに包んで箱に入れる。
「こ、ここ、こんばんわ」
突然酒狂いを思わせるどもり声が発せられ、ユーヴォが慌てて振り返ろうとした。
その矢先、背と腹を衝撃が貫いた。
「な……ん……」
見開かれたユーヴォの目が、少しずつ下へ傾いていく。右脇腹から剣先が覗いていた。痛みより先に驚きが勝った。暗がりからの一撃。そして、誰かを確認することもしない躊躇いのなさに。まさか、後をつけてきたのか。家に残してきた妻の顔が頭を掠めた。
のこぎりのように刺々しい剣が引かれ、南瓜に切り込みを入れるような軋んだ音が聞こえた。肋骨が削られた音だった。
途端、激しい痛みに襲われ、体のだるさが一所から全身に拡散。足の力が抜け、ユーヴォが膝をついた。
ゆっくりと、じっくりと、ユーヴォの体から剣が引き抜かれた。四つん這いになったユーヴォはたどたどしい挙動で、後ろを振り向いた。少しでも体が震動すれば、激しい痛みに襲われることがわかりきっている。
自分の血に濡れた鉤だらけの剣が目に入り、それから三つの人影が見えた。甲冑は着込んでいないが、口元の空いた金属面をつけていた。服や武器に軍章らしきものも見当たらない。が、それも目くらましかも知れない。現時点ではそちらの方が可能性は高いように思われた。
「……おぬ……し……ら」
「い、いいま気にするべきことは、ほ、ほほ、他にあるように思う」
血に濡れた剣を地面に向け、どもり癖のあるのっぽが人差し指で傷口を示した。明らかな致命傷を。
「へっへっへ、あんた災難だったな。俺としちゃあここまでやる必要があるのか疑問だが、怨むなら雇い主の疑り深さを怨むんだな」
のっぽの左隣にいた、大岩のような体躯の男が歯を剥き出しにして笑った。
「つうか、まだ残ってたんすね、これ。後始末を適当にやらんで欲しいっす」
右隣にいた猿のように小柄な体が足を踏み出した。三者三様の声は、どれも男のものだった。それ以上に気になったのは雇い主という語句。こうまでして隠す必要があるということは、やはり内部の者がカティスの死に関わっているということか。
小男が地面に手の平を向けるや否や炎が放射され、赤い舌が芝生を舐めた。先ほどユーヴォが引き出した極細の糸は芝生諸共に焼き尽くされた。縮れた燃えカスが未練がましく残っていた。
唇の端から血を垂らしながらも、ユーヴォは懐に手を差し入れた。長身の男がそれを見据え、引きつった笑いを浮かべた。
「か、かか、構わんぞ、ま、待ってやる。しし、し、仕事が増えればそれだけ報酬を得られる機会が、ふふ、増えるからな」
のっぽの言葉を聞き、ユーヴォが苦々しい表情で懐に入れていた手を出した。内ポケットに忍ばせていた魔石も見透かされていたらしい。こちらが連絡するのを見送った後で、あらかじめ誰かに連絡をつけていたことにする腹つもりなのだ。死人に口なし、ということだろう。
仮に自分の推論が真実であり、それを伝えられたとして、今度は伝えられた者に危険が及ぶのは間違いなかった。そして、その危険が避けがたいものであることも。道連れにしてしまうわけにはいかなかった。
一体自分はいつから監視をつけられていたのか。もしかしたら、王宮医術士という役職を解く前からか。だとしたら、そうした人事権限を持つだけの有力な人物が暗殺に関わっているのか。
様々な疑問が目まぐるしく入れ替わる中――
「おらっ、いつまでぼーっと突っ立ってるんだよっ」
取り巻きの小男が、傷口を抑えているユーヴォの掌を蹴り放った。
踏ん張ることすら許さない苛烈な一撃だった。仰向けに倒れたユーヴォが、カティスの眠る墓石に頭を打ち付け、そのまま動かなくなった。その豪快な倒れっぷりに、小男が腹を抱えて笑い出した。
「ひ、ひどいっすね。いくらなんでも軟弱すぎるっす、ちったぁ根性見せっす」
「おいボロイ、あんまり遊んでいる時間はねえぞ。家族にも漏らしているかも知れねえし、念には念をいれておかなきゃな」
まるで火の後始末を確認するかのような軽さだった。どもる男が剣を鞘に収め、つまらなそうに踵を返すと、取り巻きの二人もそれに倣った。自分を傷つけた剣が今度は誰に向けられるのか、一桁の足し引きにも負けず劣らず明白だ。霞む視界の中で三人の男たちが遠ざかっていくのを見、制止の言葉が口を突いて出た。
「……や……め」
嘆願が終わる前に、傷口に固いブーツの爪先が突っ込まれた。ユーヴォは叫び声すら上げられずにのたうち回った。
哀れな医者の三方に陣取った男たちは、苦しむ所作に構うことなく足を引き、ひたすら蹴り込んだ。体が紙袋のように持ち上がった。宙に浮いたままの状態で、今度は背中を蹴られた。抉られた肉が血と一緒に飛び散り、地面を斑に汚した。半回転したところでまた蹴られた。視神経の一部が引き千切れて眼球がぐるりと回り、白目を向いた。
「まだ生きてたのか、手間ぁかけさせんなよ」
「誰が喋ることを許可しましたかぁ? 誰がぁ、喋ることを許可しましたかぁ?」
「や、やや、やはり男の体はどうも固い。け、け、蹴るなら女に限る」
服の布地が破れる音に混じって骨が砕ける音が聞こえたが、だからどうしたという風体で男たちは足を動かし続けた。靴底についた泥を擦り落とすように。
口と腹と背中から血を吐き続けるユーヴォの、みるみるうちに弱々しくなっていく呻き声を聞きながら、男たちは平然と会話を続けた。ユーヴォの体は未だ地面に触れていなかった。それこそ蹴鞠のように、台風に揉まれた洗濯物のように宙を乱舞していた。
「き、きき、傷の痕跡を残さぬよう、か、かか体は念入りに焼く必要がある。い、家の方にも火を放って、もも、物取りに見せかけるとしよう」
「仮にも元王宮医術士っすからね、たんまりと金も貯め込んでるでしょう」
「数十年も尽くしてきた挙句にこの扱いじゃ浮かばれんよなぁ。ちっと同情しちまうぜ」
言葉が交わされる間にも、蹴り足が体に埋もれる音は一向に止まらなかった。ユーヴォの体が完全に虚脱した後も。
血みどろの白衣の残骸が、はらりと落ちた。骨や肉や内臓といったものが蹴られる度にへこみ、縮んでいった。大きさは、幼児ほどになっていた。
しばらくは遊んで暮らせそうだな。明日は高級娼館にでも繰り出しましょう。そんな話を最後にして、長身の男がひときわ高く足を掲げた。空高く舞い上がった血の肉塊が男たちの輪の中心に墜落し、鈍い音が響いた。