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マーシナリー・カプリッチオ ~終ノ部~  作者: 本倉悠
●序章 ―追憶の果てに潜むもの―
8/10

(8)

「――イード様! 起きていらっしゃいますか! アデライード様!」

「……う……ん」


 茫洋とした感覚に雑音が割り込んできた。自分を包んでいた殻が少しずつひび割れていき、やがて長いまつ毛に霞んだ視界が現れた。茶を基調にした縞の木目に、プラチナブロンドの髪が波打っている。

 一回、二回と瞬きし、急速に意識が復活する。秋景色に囲まれた馬車ではなく、見慣れた屋敷の一室だった。寝室ではなく、書斎代わりにしている衣裳部屋だ。


「……っ、痛たたた」


 経験したことのないひどい頭痛に思わず頭を押さえた。目の端にフリル付きの袖が見えて、寝巻に着替えていなかったことに気づいた。ついでに、視界が横倒しになっていた。重なった両腕に頬を預け、寝入っていたようだ。下唇に垂れていたわずかな涎を、舌を這わせて舐め取る。


「残念、もう少しだったのに」


 痛みが収まるのを待って、椅子から尻を持ち上げようとした。が、両手を机についたままの姿勢で固まった。もう少し。思考に先立って口から出た言葉を反芻し、アデライードは己の感情の在り処を見失っていた。

 夢の中の父はとても大きくて、優しくて、温かかった。夢と現の狭間にいた自分は、その大切な父を無残に殺害した少年と会うことを望んでいた。一体何のために。自分自身に問いかけ、力なく首を横に振る。わからないからではなく、わかりきっているがゆえに。過去の少年の面影に縋りついたところで、現状が改善されるわけではないのだ。


 弛緩しかけた体に強く息を吹き込み、散らかった机の整理を始める。使い込まれた書斎机の上には分厚い本が折り重なり、空のボトルが照明石に向かって倒れていた。机の面と接した湾曲には飲み残した赤紫色の液体が細い川を作っている。酒を飲んでいたことは薄らと記憶に残っているが、はっきりと思い出せない。

 昨日の記憶を一から辿ってみる。溜まっていた手紙を片っ端から片付けたあと、気が進まないながらも教皇アダマンティスの見舞いに赴いた。病室を出たその後で、後ろから勝手についてきたセーニアの重臣たちに会食の誘いを受けたが、疲れを理由に断った。皇宮を出て馬に乗り、ディアーダ家の屋敷に直行。洗面台に赴き、教皇に触られた手を洗った。たっぷりと時間をかけて。埃の一粒すらも許さないというように。

 病に伏せッた教皇の瞳は疲労が色濃く、それでいて色欲を感じさせる光があった。自分の被害妄想かも知れなかったが、とても卑猥に感じられた。

 生理的嫌悪が目覚めの寒気と一緒になって襲ってきた。アデライードは自分の細い体を、ドレスに皺が寄るくらいに強く抱きすくめた。死の淵にいてなお、男はああいう目で女を見れるものだろうか。しかも、教皇は血の繋がった伯父で、自分は姪だ。

 アデライードは血マメでカチカチになった手のことを知られることより、とにかく掲げられた手に触れることを嫌った。相手の体温を肌で感じることがおぞましかった。手袋をしていかなかったことをあれほど後悔したのは、多分生まれて初めてだろう。

 元々は教皇の不能が原因でよからぬ輩が集り始めた。それは同情すべき事情であるのと同時に、幼少時の孤独の発端と言えなくもない。その教皇の不用意な発言のせいで、今度は決して順風とは言い難かった人生にさらなる暗雲が立ち込め始めている。もはやアデライードに取って、教皇は忌人以外のなにものでもなかった。

 濃くはならないだろうと思っていた憂鬱が、手がつけられなくなる段階にまで進行した。そう判断した彼女は、吹き溜まる鬱憤と何とか距離を置こうと努力した。夕食後に地下の酒倉から父が収集していた果実酒を一本拝借し、一気に煽った。普段はまったく読まない散文集を捲ってもみた。

 ちらりと、開きっ放しの本の頁数に目を通すと、6ページ目だった。内容もろくに覚えていない。酔いと疲れですぐに意識が途切れたのだろう。


 本を棚の元あった位置に戻し、窓を覆っているカーテンを左右に開く。陽光が射し込み、部屋の一角が眩いほどに白む。

 その間も一向に鳴り止まぬノック音に、溜息が出た。十中八九護衛の片割れ、兄のホリックだろう。急かすような叩き方は彼の性格を如実に表している。仮にこれが弟のグレンであれば――たとえ急ぎの用があったとしても気の抜けた感じのおざなりな音がする。付け加えると、彼なら1分叩いた時点でとっくに諦めて自分の部屋に戻るなり個別の仕事に取り掛かるなりしているだろう。生真面目で融通が利かないホリックと、ぐうたらだが要領のいいグレン。実に対照的な兄弟だった。


 自分を呼ぶ声と音とを放置し、ぐっと拳を掲げて伸びをする。体の各所で筋肉が痙攣し、停滞していた血流が復活する。

 壁にかかっている長楕円の鏡を見た。すぐに、鏡に映る美少女の顔が曇った。先ほどは気づかなかったが、腕と机に挟まっていたのだろう。前髪の一部がバネのなりそこないみたいになっていた。

 朝から部下に笑いを提供してやる義理はない。まずはツインテールを作っている白いリボンをするすると解く。鏡台に置いてあったツバキ油の瓶を手に取り、少量を手の平に垂らす。それを魔法で発熱させながら手櫛で髪に馴染ませていく。ある程度まとまったところで鼈甲の櫛を使い、丁寧に解きほぐす。五回ほど櫛を入れると、みょんと跳ねていた髪がすんなりと元の位置に収まっていた。

 今度は洗面器に水を半分ほど入れ、湯浴みに適した温度にまで熱する。それから脇に畳まれている白いタオルを浸し、顔を優しく拭う。昨晩落とし損ねた白粉と紅が取れた。

 アデライードはタオルを脇に置き、自らの顔を見つめた。素肌でもほとんど印象は変わらなかった。すっぴんでも平気なのは若いうちだけだよ。先日懇親会で出会った人気女作家とのやり取りが脳裏を過ぎった。


 ドアを叩く音が未だ鳴り止まない。さすがに鬱陶しくなってそちらを振り返り、ふと錠がちゃんと下りていなかったことに気づく。外から入ろうと思えばいつでも入れたのだ。律義な男。苦笑しつつも丸い化粧箱に手を伸ばす。

 乳白色の化粧水を手に馴染ませ、顔全体に満遍なく沁み込ませる。その後できめ細やかな海綿のパフに新たな白粉をつけ、頬にそっとまぶしていく。仕上げに唇を小さく突き出し、薄桃色のルージュを手早く引く。

 最低限の化粧が終わり、アデライードは腰の後ろに両手を回し、鏡を前にくるりと回る。波打つ髪がくるくると回り、スカートの下が空気を含んでふわりと舞う。白いニーソックスと太ももの境界線がちらりと覗いた。どこからどう見ても深窓の令嬢だ。


「ねぇイェルド、今の私はどう見える? あなたを困らせるだけの魅力が、ちゃんと備わっているかしら?」


 アデライードの慎ましやかな上目遣いが、鏡に向けられた。視線の先には純朴そうな少年が佇んでいる。彼は今の自分を見てどんな反応を示すだろうか。照れ臭さから顔を背けるだろうか。それとも、見惚れて立ち尽くしてくれるだろうか。想像するだけで楽しくなる。


「今じゃなくてもいい。でも、せめて若いうちに」


 アデライードは視線を下に固定したまま、ベッドの隣にある木製の鎧掛けに近づいていく。隈なく釉薬をかけた柄の太い三又槍が、勇ましく天井を向いていた。機能美と丈夫さを兼ね備えた逸品だった。


「ふふ、やっぱり素敵ね。家具職人ガーメリックのお手製。イェルドに是非使ってもらいたくて、特別に発注したのよ。とっても高かったんだから」


 安心して。これなら人ひとり固定したくらいじゃ、びくともしないわよ。

 アデライードは、自分好みの家具に彩られた部屋の中を眺めた。実にいい感じだ。顔が自然と綻んだ。

 次いで、自分好みの家具に拘束されているイェルドを思い浮かべた。素敵。なんて素敵なのかしら。体中を悪寒と恍惚の混合物が這い回り、快感に打ち震えた。


「アデライード様! いい加減に起きてください!」


 ドア越しの無粋な声に、体の震えがぴたりと止まる。顔からは表情が消え失せ、心は凪のように落ち着いていた。


「さっきからちゃんと聞こえているわよ、ホリック」


 努めて不機嫌そうな口調を作ると、ドア越しの声がうっと口ごもった。



「そう急かさないでいただけるかしら。乙女には人様の前に出るための準備が必要なの。色々とね」

「は……、はっ、失礼致しました!」


 焦ったような声を聞き、溜飲が下がるのを感じた。今日こそは何かいいことがありますように。左右の指を絡め、薄幸を自負する少女はささやかな願いを天に祈った。

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