(6)
峠を越えた先には紅葉樹に彩られた大峡谷が広がっていた。崖の淵にしがみつくように根を張り出した木々が斜めに傾いで揺れている。
深い谷の底から絶え間なく吹き上がる風は、煽られた梢から木の葉を無作為にもぎ取っていき、谷の中央では赤や黄色や橙の葉がひらひらと舞いながら天へ遡る柱を作っていた。谷間には濃い霧がかかり、底の深さは窺い知れない。古い民話では地の底に大気の竜イェン・ニーが封印され、崖の上まで吹き上がる風はそのいびきによるものだと伝えられている。
八人乗りの箱馬車の銀車輪がカラカラと音を立てて回る。崖際にある道は緩やかな下り坂で、縄と丸太で作られた簡素な仕切りがあるものの、道はきちんと舗装されていない。二人の御者は下り坂で速度が付きすぎないよう革製の手綱を巧みに操り、四頭の馬の歩調を揃えている。
赤いソファーが前後に並ぶ車内では、上級騎士と思しき精悍な男と温和そうな老執事が向かい合って談笑していた。騎士の隣には鳥獣の白い羽つき帽子を被ったあどけない少女が窓辺に寄りかかるように座っている。両肩に撓むプラチナブロンドの髪がそよそよと後ろへ流れている。
少女は手すりに両腕を預け、非日常的な景色をぼんやりと眺めていた。憂いを湛えた碧い瞳が緩慢に瞬き、小さな口から音なく溜息が洩れる。空になすすべもなく吸い込まれていく無数の紅葉に、自分の境遇を重ねていた。
何故貴族の女として生まれてしまったのか。そんな疑問は上流社会の社交場の歓談でちらほらと耳にすることがある。裕福な境遇に生まれ、修道院に入れられ、成長するにつれて自分なりの理想を見出し始めた無垢な少女たちが、ある日、政略の道具にされるという現実に立たされる。セーニアの上流社会では別段珍しくもない話だ。
生まれた時から許嫁が決まっていることを知らされる。婚儀の日程がトントン拍子に決まり、何度か顔を合わしただけの男を夫にする。それからは子を産むことを親兄弟からそれとなく、あるいは露骨に求められる。腹を痛めて産んだ子どもは英才教育を施すために教育者たちの手に渡され、ろくろく会うこともできなくなる。若い女中との情事に耽る夫から離れることも許されない。
そうした国や一族の事情に振り回され続けた無数の若葉たちは、いつかどこかで地に落ちる。ひっそりと、誰に知られることもなく。十になったばかりの少女が考えるにはあまりに重い主題だった。
一行はセーニア教国北西の山岳地帯にある小国群の国境付近を通過していた。同盟国ディボルグの闘技祭に賓客として招かれ、日程をつつがなく終えての帰り道だった。
朝早くに出立したせいか、少女の横顔から眠気は遠のいていない。馬車の揺れと秋の心地よい日差しは再びまどろみの世界に誘おうとしているようだった。
「ふぁ……ふ」
執事と今後の日程について確認し合っていたオールバックの騎士が、欠伸を噛み殺している少女をそれとなく見た。直後、馬車の車輪が路傍の石に乗り上げ――
「ひゃんっ!」
悲鳴と同時に小さい頭が傾いだのを目にし、思わず吹き出した。少女の眉根に不機嫌のしわが寄り、隣にじと目を送る。騎士は既に正面を向いていて、真面目な顔を貼り付けていた。それがなおのこと少女には腹立たしいようだった。
騎士は顔を崩さぬよう留意しながら、きつい眼差しを送ってくる少女に目を向けた。さも今気がついたというように。
「おや、少し寝足りなかったみたいだな、アディ。朝にも言ったと思うが、もう一泊していっても一向に構わなかったんだぞ?」
「……お気遣いなさらないでください。私ごときのためにお父様の予定を先送りさせるわけには参りません」
大人びた口調だが、声色は年相応の愛らしさがある。背伸びしたい年頃なのよ、と妻が微笑みながら言っていたことを思い出した。
「おまえの方こそ、親にそんな細かな気遣いをするものじゃない。久し振りの親子水入らずなんだ、もっと甘えてくれても……」
「ご心配には及びません。私はもう立派な淑女ですから」
「やれやれ。いずれは嫌でも大人になるのだから無理に背伸びをしなくともよいだろう。気が強いのは好ましいが、甘え下手だと後で苦労するぞ?」
苦笑する父を前にして、アデライードは頬を膨らませた。人の気も知らないで、と思ったが、それは口にしなかった。したところで状況が良くならないことくらいわかっていた。
「旦那様、今年の闘技祭は例年に比べて見応えがありましたな」
気まずさを打ち消そうと気を利かせたのだろう。向かいに座っていた老執事がそれとなく口を挟んだ。
「うむ、確か蛇剣といったか。あのような特異な武器をよくも自在に使いこなすものだ」
「いつも通りに、見ながら戦っていたのでございましょう?」
「一応な。ある程度開けた場所ならば存分に扱えるだろうが、狭い室内や障壁魔法に対しては難があるだろう。……おぉそうだ、アディはどうだった?」
「どう、とは……」
「おまえも一緒に闘技祭を観覧していただろう。騎士以外の者があれを見て、どんな印象を抱いたのか興味がある」
アデライードは父の問いに意識を集中し、体を起こした。数秒ほどで、昨日見た剣士同士の熾烈な打ち合いが克明に頭に再生された。記憶力については誰にも負けない自信があった。
局面の合間合間に入った父の解説からすると双方共に優れた使い手であるということだったが、自分には何がどのようにすごいのかさっぱりわからなかった。辛うじてわかったのは鞭のように撓る刃が剣士たちの間で幾度もぶつかり合っているらしいということだけ。どちらが優勢かがわかった時にはもう終盤に差しかかっていた。額を血で濡らし、肩膝をついた男が負けを口にした途端に歓声が爆発し、民族衣装に身を包んだ妙齢の美女が勝者に花束を渡した。
一部始終を思い出したアデライードは宙に視線をやり、細い顎に指を当てた。
「ええと……野蛮だなぁ、と」
「そ、そうか。まぁ確かになぁ」
娘の意見を肯定する口振りながらも、コンラッドの表情からは落胆が見て取れた。それで、アデライードも己の大人げなさを少々恥じた。自分が気に入っているものを思わぬ形で突かれれば、誰とて似通った表情をするものだ。もう少し気の利いた返答もあったはずだった。
「ほっほっほ、今のは旦那様の質疑が少々軽率でしたな。いかんせん、婦女子にはちと刺激が強い催し物ですからなぁ」
「リブロイ、一体そなたは誰の執事だ」
コンラッドの鋭い眼光に、リブロイは好々爺の顔を崩さない。
「私はいつでもか弱き者の味方でございます。めっきり守り甲斐がなくなってしまった旦那様とは常に敵対せねばならぬゆえ、心苦しく思っている次第です」
リブロイが冗談めかして笑い、コンラッドが鼻白む。こういったやり取りはさほど珍しいことではない。
ディアーダ家の先代。つまりアデライードの祖父の代から仕えている古株の執事は、内輪では家族と同様の扱いを受けている。それだけに留まらず、大貴族の邸宅であれば無礼打ちにされかねない文言が、屋敷に雇われている家人の口からは日常的に飛び交っている。それはコンラッドが下級貴族の出自ゆえに貧しさと苦労を味わっているからであり、階級による蔑視に悩まされていた時期があったことに起因しているようだ。
しばらくすると、不毛な言い争いは硬貨の話に進路を変え、さらには財政の話に転換していた。聞いているだけで睡魔を誘う会話を続ける二人を放置し、アデライードは窓から見える景色に視線を固定し、手の甲に顎を乗せた。先ほどの返答はよく考えた末に得たものではなく、印象をそのまま口にしただけだ。もっと言えば、何故男の人たちが決闘を好むのか不思議だった。確かに刺激的、というか背中がぞくぞくする感じはあった。でも、自分がもしあの場にいて、しかも負けた人のように血塗れにされたら絶対に笑っていられないだろう。
父が自分を外遊に誘った理由については薄々と勘付いている。多くの兵を統率する立場なこともあって頭の回転が速く、細かな気配りもできる人だ。おそらくは部屋に閉じこもりがちな自分を案じてくれてのことだろう。ただ、その気配りが娘にとって苦痛であるということにまでは考えが及ばなかった。それだけのことだ。
「……そう、色々と惜しい人なのよね」
「ん、何が惜しいのだ?」
「あ、いえ。お父様が、そう、いとおしいと、お母様が仰っていたことを思い出しまして」
アデライードのしどろもどろとした返しに、しかしコンラッドは照れ隠しの咳払いを重ねた。夫婦仲がいいことは周知の事実であり、話の内容に不自然さはないはずだった。実際、前にいるリブロイは、さもあらんとばかりにうなずいている。
ナイト・マスターの称号を賜ったコンラッドは、戦い一筋に生きてきた人間だと多くの者に誤解されている。反して、彼と近しい者であれば、武力が彼の側面にすぎないことを知っている。幼少から絵画を嗜んでいることもあって芸術に深い造詣があり、家には母カティスの写実的な肖像画が飾られている。そしてそれが、父コンラッドがプロポーズの際に指輪と一緒にプレゼントしたものだということをアデライードも聞かされていた。そうした人間臭さも、母が父の求婚を了承した一因だそうだ。
娘の目から見ても、コンラッドという男は尊敬に値する大人だった。日々鍛錬を怠らず、暇を見ては多種多様な本を開き、知識を貪欲に蓄えようとする勤勉さを持っている。それを証明するかのように、馬車の隅にも屋敷の書斎から持ち出した魔法科学の本や経営の指南書が折り重なっている。
旅に同行したことについて後悔の気持ちはない。二十日間の旅路は決して愉快なことばかりではなかったが、十分な気分転換にはなったし見聞も広めることもできた。美しい風景を見るのが嫌いな者はいないし、異国の街角で演奏されていた耳新しい民族音楽も心に沁みた。郷土料理の露店で父と半分こにしたラプカ(ピリ辛ソースで煮込んだ山ガニの肉と、茹でた根菜を薄く引き延ばしたクレープ生地で巻いた料理)は、母に食べさせてあげたいと思えるほどに美味しかった。
けれど、王都に戻れば陰鬱な毎日が待っている。従者や来客に威張りくさる兄ゼノンを横目にしながら、おべっかを駆使する者たちへ愛想笑いを返す日々が。
長男のゼノンは十七歳。アデライードより七つ年上だった。まだ幼い時分は人並みに優しくしてくれた。躓いて転べば手を差し伸べてくれたし、自分が嫌いなおかずをこっそりお皿に移して食べてくれたりもした。
しかし、他者に対する配慮の心は今では見る影もなくなっている。兄に擦り寄る者たちが、そうした機会をことごとく奪ってしまったからだ。
全てが狂い始めたのは伯父であるアダマンティス教皇が子を儲けられないとまことしやかに囁かれ出してからのことだった。ある日を境に、今まで顔を合わせたこともない大人たちが、ゼノンやアデライードへ謁見を申し出るようになった。油断ならぬ大人たちに対しては父母や家人も目を光らせていたものの、狡猾な者たちはその目を掻い潜ってやってきた。年長の子どもを伴ってくる者もいた。
『できれば今後とも、我が子息たちと親交を深めていただければ』
「あなた様の恩寵を賜りとう存じます」
いい歳をした男たちの言い分には媚びた響きがあった。視線はねっとりとしていて、アデライードの顔に留まらず、その下にまで向けられていることもあった。着ている服を見ているのだと思いたかったが、それでもあまりのおぞましさに寒気がした。ヒキガエルのような顔と体形をした男が、まるで果物を品定めしているかのような目つきで舌なめずりしていたこともあるくらいだ。
そんなことが連日続いているうちに、今度は今まで仲の良かった同年代の友人たちが急によそよそしくなりだした。社交場で顔を合わせても、明らかに自分を避けるようになっていた。
「ごめん、僕だって本当は辛いんだよ。でも、君と一緒にいると父や兄に迷惑をかけてしまうから」
視線を逸らして目の前を素通りしようとした友人のスコットを問い詰め、やっと聞き出した言葉。苦しげな心境の吐露は、アデライードをこっぴどく打ちのめした。彼は誰とも知れぬ者たちに脅されていることを仄めかした。自分や兄に集ってきた大人たちか、あるいはその子どもたちに。
貴族社会の中にあって、階級や身分といったものはなお存在する。上位の貴族たちから圧力がかかれば、それ以下の者たちは黙って引き下がるしかない。目をつけられれば決して生易しくない嫌がらせを受けることになりかねないからだ。
とぼとぼと廊下の奥へ歩いていくスコットを見送りながら、アデライードはこれから先のことを想像し、暗澹たる気持ちになった。両親たちに言いつければすぐにでも対処してくれるだろうが、それがどの程度効果を見込めるかは未知数だ。圧力をかけたとされる相手が知らぬ存ぜぬを通したら対処しようがないようにも思える。最悪の場合、いちゃもんをつけられたと因縁を吹っかけられ、こじれにこじれることもあり得る。追及を逃れた相手は、話がどこから漏れたかを探ろうとするだろう。いずれは本当にスコットたちに迷惑がかかってしまうかも知れない。そうなれば今度こそ、自分は一人になってしまう。
我慢するしかない。最終的にアデライードはそう結論付けたのだが、恥知らずな真似を平然と行う者たちの子息と顔を合わせる気にはなれなかった。わだかまる感情を押し殺して屋敷に引きこもり、偽りの友人を遠ざけようとした。その代償に本当の友達との接点も失った。仲の良かったスコットとも、三カ月以上話していない。仮に状況が改善されたとして、彼が素っ気ない態度を取ったことを許せるかどうかもわからなかった。また冷たい態度を取られたらと思うと、近づくのが怖かった。
悪い方へ。ひたすらに悪い方へと考えが突き進む。頭の中は絡みあった毛糸のようにぐしゃぐしゃだった。解く当てもないままに結び目だけが増えていく毎日。家人と寝室にある暴走海豹の縫いぐるみだけが話し相手。そんな自分を思うと惨めでたまらなかった。
――考えちゃ駄目。駄目だって、わかってるのに。
目尻にじんわりと浮かんできた涙を、薄絹のドレスにごしごしと擦りつける。だが、一度高ぶった感情はなかなか静まらない。後から後から涙が出てきた。
――早く、早く止まって。お父様たちに気づかれちゃうじゃない。
今の自分が見るに堪えない顔をしていることくらい鏡を見ないでもわかる。鼻をすするのを我慢して、袖に顔を強く、強く押し付ける。目が熱い。息を殺し、しゃくり上げたいのを必死で耐える。
「……おや、寝てしまったかな」
父の声が聞こえた時には、目元を隠す袖がびっしょりと濡れていた。寝てない、と心のなかで言い返しつつ、寝た振りを続けるしかなかった。
「無理もありますまい、幼い御身には長旅が堪えたのでしょう。お風邪を召されてはいけません、こちらを」
リブロイが傍らに折り畳んで置いてあった毛布を手にし、コンラッドに差し出した。
「あぁ、ありがとう。――――モーガン」
「はっ」
腰に長剣を提げた馬車の御者の片割れが、肩越しにコンラッドを一瞥した。
「少し寄り道したくなった。すまないが次の三叉路を右へ頼む」
「かしこまりました、ご随意に」
峡谷が繁茂する木々の裏に消え、三叉路に差しかかった馬車が脇の小道へ入っていく。方向転換する様を、手すりに身を預けているアデライードもはっきりと感じた。下り坂が平坦な道になり、上り坂になった。
「旦那様、一体どちらへ?」
アデライードの疑問を、リブロイが代弁してくれた。コンラッドは小さな背中に毛布をそっと広げた。手つきの優しさが伝わってきて、ほんの少しだけ心が温まった気がした。
「なに、久し振りにカストラ先生を訪ねようと思ってな。幸い土産になりそうなものも積んである。ここのところ過密日程だったし、二、三日のんびり過ごしてもバチは当たるまい?」
盃を傾ける仕草をし、コンラッドがにやりと笑ってみせた。聞き覚えのない名前に、アデライードは顔を伏せたまま小首を傾げた。