(5)
左右二つの天窓から麗らかな陽光が差し込んでいる。広々とした部屋の四方には傘立てのような縦長の風魔石と水魔石が備え付けられており、常時最適な温度と湿度に保たれている。
高い天井には、高名な絵師を招いて描かせた画が広がっていた。淡色で描かれた空と濃密な雲。天使が浮遊する雲海の真ん中にある大きな湖に、歪んだ城と悪魔たちが映っている。
木目が美しいミズメの長テーブルには財界の大物や、周辺各国からの見舞いの品が並んでいた。高級果実が詰められたバスケット。滋養強壮の効能がある千華蜂の蜜。退屈を紛らわすための各種書籍。
四大国、セーニア教国の頂点に君臨するアダマンティスの寝室兼病室だった。
部屋の中央に陣取るベッドを囲むのは重厚な四柱と天蓋で、一般家屋の部屋にはとても入りそうにない代物だ。寝相のいい者であれば、五、六人で寝てもなんら不都合がない幅広さがあった。
頭側が上に持ち上がったベッドに身を預けているのは齢五十ほどの金髪の男だ。眉や髭はきちんと剃られているが、頬はこけて肌の色も土気色だった。その隣には老齢の女医術士が一人。女中が三人。そして目つきの鋭い護衛が二人控えていた。
「すまぬな、皆の者。私が、このような体でなければ」
か細い声が、ひゅうひゅうという呼吸音を伴って響いた。聞き取ることすらままならない声に、見舞いに訪れた者たちの顔が揃って曇った。間が開いて、とんでもありません、とか、お気を強くお持ちください、などといったことをそれぞれ口にした。
近しい側近たちの瞳には等しく哀れみが浮かんでいた。いかに国を取り纏める長の立場にあろうと、ひとたび病人となってしまえば、周りを取り巻く状況は常人と大差なかった。
「気弱なことを仰らないで、伯父様。必ず治ると信じなければ病魔が遠のくこともありませんわ」
アダマンティスのすぐ横の椅子に座っていた年若い女が、困ったように笑った。ただそれだけで、周囲にいた者たちの視線を軒並さらった。
客観的な評価として、アデライードは美しかった。母譲りの豊かなプラチナブロンドは純白のリボンでツインテールに結わえられている。控えめにカールした睫毛と切れ長の目は芯の強さを感じさせるが、物腰は驚くほど柔らかかった。
ジヴーに出征していた時は紅くタイトな軍服を身につけていたが、今の彼女は襟元と袖にフリルのついた新緑色のブラウジングドレスに身を包んでいる。気品と優雅さを内包した佇まいは、道行く男たちの胸を焦がし、女たちに溜息を吐かせる。腰に剣を提げていなければ、彼女が騎士であることを見破れる者はまずいないだろう。
「お越しくださった皆さんも、伯父様の容体が回復するのを待ち望んでいらっしゃいます。ですから……」
ぐっと言葉に詰まったアデライードの語尾を引き継ぎ、右隣に座っていた初老の男が口を開いた。
「そうですとも。医者の宣告した月から、既に三カ月も持ちこたえられておるのです。諦めねばいつか病に打ち勝てましょう」
「そう、思いたいところだが、な」
アダマンティスが口の端を歪めた。表情には闘病の疲れと諦めが等分に混在していた。医者の話によれば最近は一日一食がやっとのようで、出された食事にも半分ほどしか手をつけないという。体に障るということで湯浴みもままならず、今は女中たちに薬草を浸した水をタオルに含ませて体を拭かせているらしい。刻々と悪くなっていく状況を、変わりゆく生活の中で実感しているのだろう。好転しそうな材料が見当たらなければ、病は心をも冒していくのだ。
女中たちが、椅子に座している者たちに入れたばかりの茶を配っていく。湯気立つカップを受け取りつつも、アデライードは横に流し目を送った。椅子の並びはそのまま、場にいる人間の序列を表していた。
一番近い左端の椅子から教皇の姪、アデライード・ディアーダ。元老院のメルギス・ヘウゼン。同じくポルシャ・マウラ。同じくレジナント・ジャメイル。右端に、教皇派寄りの司教ツァン・ボルバトフ。唯一の親族であるアデライードを除けば、各々が国の要職にある者たちだ。
メルギスは元々反物商組合の長を務めていた人物であり、先代の死を契機にして諮問機関である元老院に招かれた。四年前には開戦論を唱え、十年戦争において失った領土の奪還を叫び、ルクスプテロンとの戦を推し進めたこてこての右派だ。軍への支援金を惜しまないせいで派閥を形成するほどの影響力を持っている。競争相手の不可解な失脚が多いこともあり、何かと噂になりやすい人物である。
ポルシャは一時ビシャ・リーヴルモアと恋仲にあったと噂される女性で、セーニア東岸一帯を領土にしている大貴族でもある。既に五十台ということであるが、日々の手入れの賜物か、未だ三十台前半の美貌を維持している。性格はすこぶる温厚だが、女の外面ほど当てにならぬものはない。微笑と涙の使い分けにおいては男の追随を許さないことを、同性であるアデライードも熟知している。
レジナントは元軍人。父コンラッドの副官でもあった。以前は度々屋敷に顔を出していたが、渋みと溌剌さを兼ね備えた二枚目で女中たちにも騒がれていた。一方で同性には蛇蝎のように嫌われているらしく、皇宮の廊下を歩いているとしばしば吐き捨てるような口調の中に彼の名前が混じっていることがある。
ツァンは水路や街路を整備するなど、建設省の役人として国民の生活環境の整備に半生を費やしてきた。アダマンティスの片腕としていくつもの政策立案を進めてきたこともあり、領民からは一定以上の支持を得ている。丸顔で短髪、髭はきっちり剃られていて背丈も体格も並。服装も他の者たちに比べると一段と地味に映る。印象に残らない顔が特徴というのが自他共に認める人物評であるが、アデライードの心象からすると彼がもっともまともそうだった。
シーツが擦れる音がして、アデライードが再びベッドの方を振り向いた。痩せ細った手が、ゆっくりと掲げられていく。ただそれだけのためにアダマンティスは歯を食い縛り、全身を震わせていた。衰弱ぶりをまざまざと実感させる動きだった。
アデライードは自分の方に差し出される手を見つめ、そうと悟られないように周囲に目を走らせた。周りにいる者たちは、ほとんど骨と皮だけの手を注視していた。そして、自分を注視していた。この場にいる誰もが、教皇の、伯父の懸命な思いに答える健気な姪の姿しか想像していないようだった。
アデライードは悲痛そうな表情で教皇の手を軽く掴み、その上に自分の手を慎重に重ねた。血マメで固くなった手を。
教皇の真摯な眼差しが、アデライードへ向けられた。
「……そなたには、苦労をかけ通しだな。その容貌と品格があれば、もっと女子らしい慎ましやかな幸せも掴めたであろうに。私が至らぬばかりに、過酷な運命を背負わせてしまった、詫びの言葉も見当たらぬ」
たどたどしく紡がれた言葉を、アデライードはやんわりと否定した。
「……騎士の道を選んだのは強制されたことではなく、自分の意志です。今は私めの心配より、ご自分の体を治すことだけをお考えください。伯父様が教皇として公務に復帰されることだけが今の私の唯一の願いであり、至上の喜びですから」
「……ありがとう、アデライード。おまえは本当に、カティスにそっくりだ。こんなにいい娘に育って、きっとそなたの父母らも天で顔を綻ばせているだろう」
アデライードが目を瞑り、きゅっと唇を噛んだ。その姿を見て側近たちは、亡き父母の姿を思い出しているのだろうと理解した。
「アデライードよ」
深い憂いを湛えた瞳が、アデライードを捉えた。嫌な予感がしたが、側近たちの手前、ここはうなずくしかなかった。
「もし私に、万が一のことがあれば、この国を、我が愛しきセーニアを、そなたに託したい」
おぉ、と感嘆と慨嘆が病室に響いた。これまですまし顔を通してきた女中たちと護衛の表情までも、明らかに色めきたっていた。アダマンティスは深く息をつき、椅子に座る者たちに視線を走らせた。崩れかけていた姿勢や表情が一瞬で引き締まった。
「皆の者も、若い彼女を盛り立ててやってくれ。セーニアに住まう民草たちが、一日一日を笑って暮らせるよう、それぞれに力を尽くして欲しい」
「教皇様……」
「……おいたわしい」
傍らからの嘆きをよそに、アデライードは沈黙を守り、両手で挟んでいた教皇の手をそっとベッドの上に下ろした。挙動ひとつ取っても、相手の体に負担をかけまいといういたわりの心が滲み出てくるようだった。
側近たちは沈痛そうな顔を作って項垂れた。目尻に涙を浮かべている者すらいた。だが、落ち込む所作が本意か演技かにかかわらず、彼らの頭の中では算盤が勢いよく弾かれているはずだった。
教皇の言質は、姪であるアデライードを後継として認めたことに等しい。未だあやふやだった道筋の輪郭が色濃くなり、少ない選択肢はさらに絞られていた。ここにいる全員が証人であり、同時に競争相手になったのだ。内心は決して穏やかでないはずだったが、顔にまったく反映されていない。今は忠義に溢れる側近として教皇の体を慮るというスタンスを崩さぬことが、過酷な権力闘争への第一歩だった。
情勢が動き出すことをアデライードは理解していた。自らが手中に収めている権力をより強固なものにしようと。他者を出し抜き、蹴落とそうと動き始めるだろう。
ふと顔を上げると、いつの間にかどよめきが静まっていた。聞くべきことを聞いた側近たちは、誰も退室していなかった。視線は、チラチラとアデライードに向けられていた。
そういうことか。アデライードは状況を察し、落胆した。何とか心の動きを悟られぬよう顔の筋肉を引き締め、付き添いの医者に視線を投げた。
「これ以上の面会はお体に差し障りましょう。私はそろそろお暇いたします。伯父様のこと、くれぐれもよろしくお願いしますね」
「はっ、我が力が及ぶ限り」
女医が深々と頭を下げるのを確認し、アデライードがスカートを押さえながら立ち上がった。それを皮切りに、椅子に座っていた者たちが一斉に立ち上がった。
昨日までならこんなことはあり得なかった。教皇の遺言。ただそれだけのためにアデライードの機嫌と一挙一動に気を払わねばならなくなった。彼らが先んじて立ち上がらなかったのは、万が一にも伯父を慮る姪の心証を損ねたくなかったからだ。
アデライードは列なす者たちを冷ややかに見つめた。あまりにあけすけでバカバカしかったし、怒りも湧いていた。そうした節操のない態度が兄ゼノンを増長させ、幼かった自分を孤独に追い落としたのだ。
そして今、権力欲に囚われた彼らの目が再び自分に注がれようとしていた。以前とは比較にならぬ鋭さで。身の毛がよだつ思いだった。
重い溜め息を落とし、アデライードが病室から退室する人の川に向かった。列が中ほどでひとりでに割れ、アデライードを招き入れた。
昔はまだ救いがあった。頼りになる父がいて、優しい母がいた。大嫌いな兄も、大好きな友達も。
権力者たちの中にあって、アデライードは孤独を噛み締めていた。ここにいる誰もが自分を踏み台にしようと企んでいることを痛感していた。ましてや、教皇の容体を心から気にしている者がいるとは思えなかった。
ただの一人も。
そうだ、早く手を洗わなきゃ。
退室の間際、艶めいた桃色の唇から発された囁きは、蝶番が軋む音に掻き消された。