(4)
目を塞いでいる手を掴もうとする前に、触れられている感覚が一切ないことに気づいた。
けれども、後ろから押しつけられている柔らかな感覚は確かなもので――続いては押しつけられているのが胸であるという事実にたじろいだ。
慌てて目を覆っている手首を捉えようとしたが、空を掻くばかりだった。こちらの慌てぶりが面白いのか、耳元からはくすくすと、少女のような忍び笑いが聞こえた。
はっとして、膝を曲げて叢に飛び込むように宙返りし、後ろを振り向く。見覚えのある褐色の瞳が細められた。
「ニ、ニルファナさん」
「久し振りだね、シュイ。会いたかったよ、本当」
柔らかく、それでいてよく通る声の持ち主が、先ほどまで視界を妨げていた両手をひらひらと振っていた。暗闇でも一目で美人とわかる整った顔。長い赤髪が淡い月の光に照らされ、どこか神々しい。
胸元には旋風を象る螺旋が三つ。シルフィールのギルド章が刺繍されている薄手のローブが、乳房や細い腰や大腿、女性らしい輪郭を見せている。それがいやらしく見えないのは、彼女の持つ奔放な雰囲気というほかない。
実に二年半ぶりの再会だった。準ランカーの昇格を受けて、本部への呼び出しを受けて以来だった。粛々と行われた昇格の儀式の折には、ニルファナがアミナやディジーらと談笑しながら、見学者の席に座っていた。確認はしていなかったが、偶然ではなく自らの意志で見に来てくれたのだろう。
「本当に大きくなったねー、立派なもんだ」
「ど、どこ見て言ってるんですか」
叡智と自信に満ちた瞳が、腰の下に向けられていた。絶対にわざとだという確信があったが、それでも気恥かしさから体が勝手に横を向き、足を閉じる。彼女は、いつでも自分を弄るための材料を探すことに余念がない。
「あらあら、おませさんなんだから」
口元に手を当てて、にまにまと笑う。そんな活き活きとした彼女の微笑を見るのが嫌いではない自分が、嫌いになれない。
「おませさんて、いい加減子ども扱いはやめてくださいよ。俺だって今は準ランカーで、あのエミド・マスキュラスをですね」
「わかったわかった。可愛い教え子の自慢話は後でいくらでも聞いてあげるから、とりあえず温泉旅館にでもいかない? ちょっと汗かいちゃってさ、洗いっこしようよ」
了解した矢先の台詞に閉口する。当のニルファナは素知らぬ顔で、長いスカートの裾を両手でつまみ、足をパタパタと仰いでいた。わかっている。その気になれば彼女の魔法で汗なんてどうにでもなることくらい。これは彼女の暇つぶし兼たちの悪い挑発行為だ。視線が下にいかないよう努力しながら口を窄ませる。
「……お変わりないようで何よりです。まさか偶然ばったりと、ってことはないですよね」
掴みどころのないニルファナの言動に、段々と疲労感が増しつつあった。苦手意識は大分薄らいでいたが、話しているだけでも調子が狂わされてしまうのは以前となんら変わらなかった。
ニルファナがスカートから手を離して後ろ手を組み、胸を張った。先ほどとは一転して真面目な雰囲気を醸し出し、真っ直ぐな瞳で見つめてきた。
「よかった、いつものシュイだ。一瞬目を疑っちゃったよ、怖い顔をしていたから」
「怖い、ですか」
訝るシュイに、ニルファナは何も言わずに目を瞑り、後ろ手を組んで近づいてきた。接触まであと三歩のところで目を開け、こちらの頭頂部を見上げた。ニルファナが自分の頭頂部に手を乗せ、そのまま水平に移動させた。綺麗に揃った細い指がこちらの方へ移動し、額まで半メードのところで止まる。
「背、随分伸びたんだね。あーあ、ついに追い越されちゃったかぁ。お姉さんも結構高い方なんだけどなー」
そう言うニルファナは、本当に悔しそうに見えた。何だか不思議だった。完全無欠の彼女ですら、そういう表情をするのだということに。
ややあって、ニルファナがかざしていた手を引っ込めた。気がついた時には、教師が生徒を見守るような表情になっていた。
「さっきの戦闘だけど、お姉さんの目から見ても鮮やかなお手並みだった。あの<刻穿閃>にもびっくりしたけれど、それ以上に無駄のなさがいい。練度の高い小隊を相手に、数的優位を活かされないよう細心の注意を払って敵を駆逐してみせた。まったく、可愛げのない強さを身に付けたもんだ」
「そ、それはどうも。あの、一体いつ頃から覗いていたんですか」
「あら、それは気づいていなかったか。お姉さんも襲撃側に加わっていたんだよ」
シュイがぽかんと口を開けた。言っている意味がさっぱりわからなかった。ニルファナは、唖然としているシュイに構わず大きく一歩を踏み出した。連動してシュイの右足が一歩後ずさる。踏みつけた枯れ枝がパキリと大きな音を立てる。
警戒心が働き出していた。魔法使いと思しき暗殺者は、召喚魔法士以外にもいたはずなのだ。
「ここ二カ月ほど、支部にも顔を出さないって聞いていたから気になっていたんだ。まー、杞憂だったみたいだけど」
「どういう、ことです。まさか、セーニアの連中と一緒に行動していたって言うんですか」
「少しの間ね。シュイの足取りを追っていたんだけどなかなか見つけられなくてさ。どうしたもんかなーと思っているうちに、君を探している胡散臭い連中を見つけちゃってね。それならそれで、人数の多い彼らに捜索だけ任せればいいやと思って、紛れ込んだんだ」
あっけらかんとしたニルファナの物言いに、シュイは混乱していた。支部長がオルドレンの決戦に関与したことがセーニアの反感を招き、傭兵ギルドの運営に悪影響を及ぼしたということか。だとすると、ニルファナは自分を始末するために派遣され、セーニアの暗殺部隊と手を組んだ。
いやいや、と首を振る。前提が間違っている。ニルファナもれっきとしたシルフィールの傭兵だ。協力を申し出たからといってセーニアの連中が「はいそうですか」と素直に受け入れるとは思えない。大体、第三者に知られては暗殺の意味がないのだ。そこまで考えて、最後に彼女が添えた言葉に意識が向く。
「紛れ込む、って。それはいくらなんでも気づかれるでしょう。可能性として、一人二人は知らないやつがいるかも知れないけど、全員があなたを知らないってことはありえないんじゃ」
ニルファナ・ハーベル。賞金首として追われていた自分をどん底から救い出してくれた大恩人であり、シルフィールの精鋭中の精鋭。大陸でも指折りの魔法使いとして名を馳せている。禁忌の術式も含めて魔法全般に精通しており、各神話や遺跡についての造詣も深い。まったく隙のない美貌も相俟って知名度は群を抜いている。そんな人物がどうやって、という疑問は至極真っ当な論理のはずだ。
「存在感を限りなく希薄にしたの。さっきやって見せたでしょ」
シュイは首を捻り、ややあって手の感覚が全くなかったことを思い出した。その異様さを思い出し、背筋が泡立つ。
「もしかして、初めて出会った時、感知魔法に引っ掛からなかったのもそれですか」
「当たり、普段は情報収集に使っているんだけどね」
「そんなの、ほとんど無敵じゃないですか」
信じられない、というようにシュイが首を振った。敵を認識できないままに攻撃を受けたら、たとえどれほどの達人だって無事では済まない。急所に刃物を突き立てられるだけで人は死ぬ。寝込みを襲われたら確実に助からない。
「そうでもないよ。第一に持続中の消耗が半端じゃない。第二に、この魔法の効力が及んでいる間は敵を傷つけるどころか、敵意を持つことすら難しい。第三に、この魔法は月齢の影響が大きすぎる。満月の日とその前後の二日、計五日間しか使用することができないんだ」
ニルファナの細い指が、数を追うごとに立ち上がった。
「敵意を持てないって、具体的にはどういうことです」
「術式の制御だけで並々ならぬ集中力を要するってこと。はっきりいって戦闘どころじゃないわけ。魔法アカデミーの在学中に開発したお姉さんだけの魔法なんだけど、どーも使い勝手がいまいちなんだよね」
ニルファナが大仰に肩をすくめて見せた。男の夢には十二分に活用できる類の魔法だと思うが、という私的意見はさておき、肝心なことを確認する。
「つまり、俺を殺しにきたとかってわけじゃあ、ないんですね?」
「なーにそれ、すっごい心外なんだけど。ひどいよ、今までそういう目で見てたわけ? お姉さんとシュイがいじましく紡いできた信頼関係って、その程度のものだったの?」
ニルファナの顔が両手に覆われ、悲痛に歪む。ようにも見えるがもう騙されない。
「……何回か、普通に当てるつもりで撃ってきましたよね?」
「シュイなら絶対に避けてくれるって、信じてた」
そういう問題じゃない。と、心の中で叫ぶ。
「正直、遠方からの手練の支援者がいるって状況がなければもっと楽に勝てたはずなんですが」
「今の君に彼らだけじゃ少し物足りないだろうと考えて、より歯応えのある状況を作ってあげたかっただけで、他意はない」
平然とそんなことを有言実行してのけるこの女性の度量と性格が、少しだけ羨ましい。そして、そんな茶目っ気が憎めない、などとと思っている自分をなじりたい。そのうち本当に命にかかわる気がする。
「……戦いが終わるまでじっとしているのが退屈だったとかじゃあ、ないんですね」
「百歩譲って今の君の言い分が正しかったとしたら、君を発見した時点で用無し連中を焼き払ってると思わない?」
お互いの疑惑の視線が激しく交錯。根負けしたシュイが体の力を抜いた。はちゃめちゃな理論だが付け入る隙がない。何しろ出会ったその日に休火山地帯に活を与えたお方だ。暗殺者どころかこの辺り一帯が火の海になっていてもおかしくなかったことを考えると、うん、なんだか思ったより穏便に済んだ気がしてきた。などと納得しかけている自分が怖い。
「失礼しました。仰る通り、少し気を張りすぎていたようです」
「ううん、すれ違いや勘違いは誰にだってある。わかってくれただけでお姉さんは大満足だよ。それよりさ、立ち話もなんだしどこかで食事でもしながら話そう。昨日から魔法を展開しっ放しでお腹がぺこぺこなんだ」
君だけが悪いと言わんばかりの台詞に譲歩まで添えるマイペース振りにぐぅの音も出ない。胸のもやもやを腹の底まで沈め、シュイは呻くように了承を口にした。