(2)
抑えられている肩口からは血がとめどなく流れ、男の腕を伝っていた。瞳には怒りと恐怖、そして出血による睡眠欲が滲んでいる。
「汚れ仕事に手を染めていれば、時として悲惨な末路を辿る者もいる。嘆かわしい世の中だ」
「……この、化け物が」
手首を返し、鎌刃に自身の姿を対象化する。疲労感が滲み、溜息が漏れる。
「回り回って、ついに化け物呼ばわりされる側か。これ以上の皮肉もそうないな、そんな俺を作り出したのは――――まぁいい」
喉元にまで出かけた言葉を噛み砕く。舌を必要以上に回すのは得策ではない。曲がりなりにも傭兵生活を続けてきたおかげで、それくらいの判断能力は備わっていた。化け物呼ばわりされるくらいでなければ自衛すら覚束ないのも、自覚している。
「今のうちに忠節の証でも、自分を見捨てた仲間への恨み節でもいい。好きに並べ立てて――」
「――死ねっ!」
言い終えるのを待たず、男の手指が動いた。袖の中に仕込んでいた投擲武器がシュイの喉元に飛び込み――――その姿が闇に溶けていく。
「介錯をお望みか、意外とせっかちなんだな」
脇からの声に男の体が戦慄いた。針が刺さったような痛みに、視線が下がる。いつの間にか喉元には鎌刃があてがわれていた。相手が動いたことを察知することすらできなかった。鼻先に死と血の臭いを突き付けられ、額から顎にかけて冷や汗が伝う。このまま一歩下がられただけで、鎌刃が首と胴を永遠に分かつだろう。
ちくちくと、鎌刃の先が男の顎に当てられる。その度に肩を戦慄かせる男を、シュイは面白そうに見下ろしていた。
支部長の任を解かれたことについて恨みはない。重々承知していたことだし、面倒な雑務から解き放たれたのも事実。怒りがないとは言わないが、それはそれと割り切っているつもりだった。
そんな寛大な思考とは裏腹に奥歯がキリキリと音を立てる。新聞の一面で諸悪の根源と罵倒され、その裏ではこうしてせっせと暗殺者を放たれているとあっては、慈悲深い聖人であろうと不快を押し隠せるはずがない。口の利き方も対応の仕方も、相手の態度に準じたものになることを誰が責められるだろうか。
末端を何度屠ったところで首謀者には届かないということを改めて思い知らされる。闇討ちは今回で都合三度目。おかげで最近では誰かに会うどころか連絡を取ることすら憚られる。細かな違いこそあれ、傭兵になる以前の生活に逆戻りだ。ストレスだけをせっせと積み立てている昨今、真剣に将来を悲観せざるを得ない。
「こっ、殺したければ殺すがいい、どうせ捨てた命だ。俺たちを倒したところで、何も変わらん」
「……ハァ?」
震える声を押し殺した強がりに、自分でもひやりとするほどの嘲笑が浮かぶ。命を惜しまぬ者が腹に金属板を仕込むという珍妙な行動に至った理由とは、一体なんだろう。
「末端連中が口にすると、寂寥感も七割増しだな。いじらしさを通り越して、涙ぐましいよ」
「減らず口を叩いていられるのも、今のうちだ。貴様は、怒らせはいけない方々を――ぐっ」
言い終えるのを待たず、手の平が勝手に男の両頬を鷲掴んだ。力を込めていくにつれて頬肉に爪が食い込み、顔面積が少しずつ縮んでいく。頬骨が押し曲げられていく感触が、五指を通して伝わってくる。指の周りの皮膚の色が赤から白に変わっていく。
「ひっ、……ぎぃっ!」
「怒らせてはいけない方々、ね。正直ちょっと興味ある。もう少し詳しく聞かせてもらってもいいかな。おまえの目にそれらしいやつが一人映っているのは、知ってるけど」
「ぐっ……あっ、アガァッ! ……うぁめっ……ヴァメ、レッ、ぐぁっ……」
ごりごりと、親指に奥歯の感触を得たところで、掴んでいた顔を無造作に突き放した。地べたに後頭部を打ちつけた男が、胸に溜まっていた息を吐き出す。顔には小指を除いた四つの痣が浮かんでいた。
「メルギス、ポルシャ……それに、レジナントね」
先ほどよりも素直になった男から聞き出した人名を繰り返し、腕を組んだシュイがトントンと片足を鳴らす。
「な、中でもメルギスは、元老院のトップに限りなく近い位置にいる。強引な手腕で数多の競争相手を駆逐してきた、妖怪だ」
肩を抑える男は、倒れぬのがやっとといったところだ。先ほどと比べて息も大分上がっている。かなり出血しているのに暴れたからだろう。
「連中の後ろ暗い話は俺も腐るほど知ってる。オルドレンの敗北でようやく尻に火がついたようだな。それと、ひとつ確認しておきたいんだが、レジナントという男は確か教皇派だったはずだな」
「……四大ギルドの傭兵は、総じて耳聡いんだな。そうだ、元々は教皇の側近中の側近。ディアーダ殿とも親交があったようだが、秘密裏に元老とも緊密な関係を築いていたようだ。不利を悟って仲間を見捨てた、唾棄すべき男さ」
おいてきぼりにされてしまった今の状況と通じるものがあるのか、表情には嫌悪の色がありありと浮かんでいる。いくつか気になる言葉があったが、ひとまずは話を継続する。
「ふーん、自分の上司を随分とひどい言い様じゃないか。世渡りがうまいってだけの話だろう」
「人の道に反している者は好かない。それに、敬意を払う人物を選ぶ権利くらいは、誰にだってあるはずだ」
シュイはごもっともだ、と肩をすくめた。今しがた暗殺を仕掛けてきた者の台詞でなければ、もう少し説得力があっただろう。
「それで? 今現在の教皇派の動きはどうなっている」
「そ、そのようなことまで教える義理は」
「どうなっている」
「……事実上瓦解している。有能な人物がいないではないが、知名度的には芳しくないものが大半だ。誰を推すにしても纏まり切れないだろう。盟主たるアダマンティス様も衰弱が激しく、公務に手をつけることはおろか起き上がることすらままならぬとか。噂では、カティス様がかかったのとよく似た病に冒されているそうだ。それだけに、悲観的な見方が根強い」
懐かしい名前を聞き、半ば無意識に記憶が辿られる。コンラッドの妻。幼馴染の少女、アデライードの母親。金髪をアップでコンパクトに纏め、豪奢なドレスに身を包んだ貴族らしい女性だったが、内面は母性に満ち溢れていた。たまに家族ぐるみでエスニールを訪れては、花園に面する庭に設けられていた茶会用の椅子に座り、村の子どもたちと遊んでいるアデライードを微笑ましそうに見つめていたものだ。
病にかかってからは何度か王都へ見舞いにもいったが、顔を合わせる度に痩せていくカティスを見て、子ども心にも居た堪れなくなったのを覚えている。
「今現在、実権を握っているのは元老院の側だ」
低い声が聞こえ、カティスの顔が頭から消えた。辛そうに息を吐く男に視線を戻す。
「主流派から遠ざけられている者たちに残された手立ては、そう多くない。軍部にはメルギスの息がかかっている士官も多いから掌握するのは事実上不可能だし、後継者を擁立するにしても間に合うかは微妙な情勢だ」
「……後継者? 現教皇には実子がいないはずだ。養子縁組したという話も聞いていないが」
「カティス様のご息女、アデライード様がおられる。女教皇はわが国でも初の試みになるが、あの方であればあるいは――――どうした?」
固まってしまったシュイに男が訝しげな目を向ける。正気に返ったシュイは、いや、と小さく首を振ってみせた。
「……しかし、そのご息女様とやらがそう簡単に椅子に座れるのか? 保守的なやつらの反発だって相当ありそうなもんだが」
「だろうな。なにをおいても、当の本人が乗り気かどうかが一番の問題だ。が、あの方には誰にも負けぬ若さと才気があるし、老若男女を問わず多くの信望者もいる。それについてはお父上の名声も大きいが。ともすると、運もあるのだろうな。オルドレン会戦で完全に難を逃れたのは、彼女とその配下の者たちだけだった。彼女は神に愛されていると、巷でもっぱらの噂だ」
「なんだと。……まさか、あの場に来ていたのか」
シュイが息を呑んだ。胸の奥に熱き砂の大地が浮かび上がっていた。
オルドレン会戦と呼ばれたジヴー軍とセーニア軍の戦いは名実共に、背水の陣と言うに相応しいものだった。圧倒的戦力差を覆すべく、セーニア軍の本陣に狙いを絞り、陽動を成功させるために兵力の大半を注ぎ込んだ。
犠牲者は決して少なくなかったが、複合的な策を用いて敵兵力を広域に分散させることに成功。遊撃隊で本陣への道を切り開き、イヴァン・カストラらルクセン教徒の力も借りてついに総大将のビシャ・リーヴルモアの下まで辿り着いた。
時間稼ぎの後、数百人の魔法使いたちが一斉に放った電魔法は、鎖で連結された敵船を総浚いにし、参戦していた指揮官の実に7割近くを死に至らしめたと報じられている。
彼女に見つかる見つからないの心配以前に、一歩間違えば自分が考案した策でアデライードを殺していたのだ。その事実を突きつけられ、背中に冷たいものが伝った。
たじろぐシュイの様子に何を勘違いしたのか、男がほくそ笑んだ。
「決戦の数日前に、部下たちの独断行動を止められなかった責を取り、本国に召還されたらしい。もちろん、危機を察知して自発的に退いた可能性も否定できないが。とにもかくにも、教国にとっては不幸中の幸いだった。万が一彼女まで亡くなっていたら皇位不在、内乱や他国の軍事介入を免れなかっただろう」
「……なるほど、およそのことはわかった。いや、もうひとつ、参考までに聞いておこう。おまえらみたいな連中はあとどのくらいいる?」
感情を悟られぬよう、道でも訊くような軽さでそう言った。百人。それとも千人か。さすがに万にまで届くってことはないだろう。是非、そう願いたいところだ。
だが、即答が得られると踏んでいたシュイの意に反し、男が口を噤んだ。
「そ、それは、言えない。仲間は、売れない」
「……何だって?」
「い、言えませんっ」
脅しが過ぎたかと、シュイが額を揉むようにつまんだ。問題なのは内容で、敬語に言い直されてもしょうがないのだ。ならばと努めて優しい笑みを浮かべてみた。男の顔が更に強張ったのは、きっと気のせいだ。笑顔にはほんの少し自信がある。
「わからないな、話を聞く限りでは、そもそもおまえたちの総元締めは元老に通じている人物なんだろう? 連中の情報をだだ漏らしておいて、何で下っ端の話ができない? 大体、おまえはこうやって見捨てられ――」
「――金目当てでほいほいと戦場に赴く傭兵風情に、俺たちの不遇はわからんっ!」
血が入り混じった唾を飛ばして叫んだ男に、シュイの顔が険しさを増した。こちらの事情を知らないとはいえ、聞き逃せる言い草ではなかった。
「強気は大いに結構だが、口の利き方に気をつけろよ。温厚さを保つのにも忍耐がいる」
冷徹な眼差しに、男がぐっと呻いた。が、その瞳には決然とした反抗の意志が垣間見える。
「……汚れ役をやらされるのは本国の人間ではなく、属国の人間が大半を占めている。今の立場に甘んじているのは、決して忠誠心からではない。そうする道しか残されていないからだ。俺のようにな。
仲間たちの多くは日々の任務に悩み、罪悪感に苦しめられている。大量の混合酒と覚醒剤に頼ることで、辛うじて心身のバランスを図っている有様だ。彼らが不利になるようなことは、どんな些細なことであろうと、言う気はない」
なるほど、必死になるわけだった。与えられた仕事をこなさないと、家族や仲間たちが食っていけなくなるのだ。首尾よく暗殺を成功させて標的の首を持ち帰ることができれば、いくらか褒美も出るはず。仕事の大きさによっては、不幸な境遇から抜け出せる可能性は高い。もちろん、それは上官がまともな思考の持ち主であることを前提としての話だ。部下の手柄を奪う輩はどこにでもいる。
とはいえ、こちらに敵方の事情を忖度してやる義理はない。刃を向けてくる者に容赦していれば、いつか確実に殺される。重い荷を背負っているのは、彼らだけではないのだ。
「つれないなぁ、教えてくれたら滅多にお披露目することのない俺の治癒術が発動して命拾いするかも知れないのに。どうだ、一目会いたいやつはいないのか。家族とか、恋人とか」
自分自身が吐き出した台詞に、何とも言えぬ心地になる。真っ赤な嘘というわけではないが、真実でもない。発動させたとして、自分の治癒術の腕とこの傷を照らし合わせると4:6くらいで分が悪い。自己嫌悪に陥りそうになるが、もうこれ以上嫌いにはなれそうもないことに気づいた。既に底を突き抜けてしまっている。
「……ま、待て。……たの……む」
「……へ?」
唐突にそんなことを言い出した男に、シュイの方がまごついた。表情には明らかな怯えが見て取れる。張り詰めた心が折れたのか、喉仏を震わせながら言葉を紡いでいる。その姿が束の間、かつて自分が殺めた騎士の姿と重なった。
それでも目を逸らさずにいられた。そうする努力は、必要だったが。
「いや、乗り気になってくれたんならどうでもいいか。さぁ、頑張って口を動かそう。さもないと本当に――――ん、おい、聞いているのか」
「……や……て……くれ」
あっという間に言葉が途切れ、男の頭が力なく項垂れる。唇が小刻みに痙攣を始め、地面に傾いた眼が白濁していく。まだしばらくは死なないだろうと踏んでいたが、珍しく見誤ったようだ。もしかしたら病気持ちだったのかもしれない。
それにしても「やめてくれ」。ニュアンスの違いだろうが、助けてくれか、そうでなければ殺してくれと言った方がしっくりくるような気がした。
その些細な違和感の正体は、すぐに知らされることになった。
前触れもなく男の胸部が盛り上がり、獣じみた絶叫が上がった。それが本当の断末魔だった。尾を引いていた声が次第に掠れ、途切れた。
シュウシュウと、何かが溶け出すような音に続いて、投げ出された四肢が軟体動物の触手のように不気味に揺らめく。眼窩から盛り上がった男の瞳は、既に光を失っている。
シュイがその場から後ずさった。体幹の異常な膨張に反して息絶えた男の顔が老人のそれに近づいていく。瞬く間に皺が増えていき、鼻が角張り、縮んだ眼球が落ち込む。
視界が開けていくのに気づき、ゆっくりと空を見上げた。そこにあるのは二重の円に六茫星を嵌め込んだ図形。燐光を帯びた召喚魔法陣が、夜空に浮かんでいた。
嘆かわしい世の中だ。
変貌していく亡骸に憐みの視線を向け、シュイは先ほどと同じ台詞を口にした。