(1)
「こんな時間までやっているお店が、あるんですね」
暗殺者を返り討ちにした草原から一路北へ。コルニュという小さな町に辿り着いたシュイとニルファナは、主要街道の交差点で足を止めた。時間が時間なだけに、人通りはないに等しい。香ばしい匂いがするのはパン屋の竈からのものだろう。
空が白み始める頃合い、薄藍色が水色へ近づきつつある。目の前にある丸太小屋のドアには開店中と書かれた札がかかり、灯りも付いていた。暖色のカーテン越しに向かい合う人影がグラスを合わせている。
「変わり者っていうのはどこにでもいるもんだよ。それよりシュイ」
「なんです?」
「脱いで」
「え、ええ、こんなところで!?」
「どんな勘違いしているんだか知らないけれど、黒衣を、だよ」
生徒の過ちを正すように、ニルファナがやんわりと細い指を向けた。シュイは示されたものを見て納得した。草原を走り回っていたせいで、枯れ草やセンダングサの実がびっしりとついていた。さすがにこの恰好で店に入るのは礼を失するだろう。魔法に耐性のある生地もこればかりはお手上げらしい。
「あぁ、でもこれを脱いだら被る物が……」
「というか、会った時から不思議に思っていたんだけど、なにゆえ君は未だにこんなものを着ているの?」
眉をひそめたニルファナに、シュイはびくりと身を固くした。半ば条件反射になりつつあることに、一抹の不安がよぎった。
「それはその、今の俺にとってはこれがトレードマークみたいなものですし」
「お姉さんが思うに」
「は、はい、なんでしょう」
「悪目立ちする黒衣と鎌の組み合わせこそが、君が容易く足取りを辿られている元凶じゃないの? そんだけわかりやすい目印ぶら下げていれば世話ないよ」
「……お、おお」
「おお、じゃないよ。君は、行く先々で延々とあんな連中を相手にするつもりなの? あの似てるんだか似てないんだかわからない人相画が剥がされてからもう大分経っているんだし、顔を隠す必要性は薄れているでしょ? まさか、その黒衣を死ぬまで羽織っているつもりじゃないよね?」
腰に手を当てて前かがみになったニルファナに、フードを下ろそうと頭に手が向かった。無意識に。朝起きて顔を洗い、顔を隠す。そんな一連の流れが頭の中に出来上がってしまっているからか、顔を晒していると下着を穿いていないようで不安が募るのだ。
「えーと、ですね。オルドレンの決戦で俺が賞金首と手を組んだことはバレてしまっています。顔を晒す行為そのものに問題はないとしても、シュイがこの顔だとバレたら」
「その心配はわからないでもないけどね。とりあえず対応策は後で話し合うとして、先に腹ごしらえしよ。今のままじゃいい考えが浮かびそうに」
言っている最中に、か細い腹の音がなった。ニルファナが恥ずかしげに身を縮ませ、君のせいだよと言わんばかりの目で睨んできた。
理不尽には慣れている。
来店を告げる呼び鈴が鳴り、テーブルについていた客の何人かが入口に注目した。中性的な顔をした黒髪の男と、均整の取れたスタイルを持つ赤髪の麗人のカップリングに、ひそひそと囁き声が交わされた。
ニルファナと食事をするのはこれが初めてというわけではなかった。が、今回ほど人目が気になったことはなかった。
「いらしゃい。お客様一組ご案内ね」
頭に三角巾を冠った森族の少女が、建ててから間もないだろう真新しい厨房から出てきた。はみ出た栗毛の髪はショートボブといったところで、ニルファナの肩よりも背が低かった。両手共に料理の皿が大量に乗った木盆で塞がっていて、体格も相まって代わりに持ってあげなくてはという気にさせられるくらいだ。
その彼女の奥、頭上から客席の様子が見えた。驚いたことに、夜明け前という時間帯にもかかわらず席が7割方埋まっていた。
「繁盛しているみたいだね、カアラ」
「ぼちぼちね。ええと」
カアラと呼ばれた可愛らしいウェイトレスはニルファナとシュイを見比べてから、ちょいちょいと指を曲げた。ニルファナが屈み込んで耳を傾けると、カアラは傍に寄って何やら口をごにょごにょ動かした。間もなくニルファナが「それでいい」とうなずくと
「奥の席空いたばかし、秘密の話するにはもてこい。片づけるまでちょいお待ち」
舌っ足らずにそう言い、危なっかしい足取りで客席の方に向かった。
ニルファナは小さな背中にひらひらと手を振ってから、シュイの腕を軽く引いた。シュイは逆らわずにニルファナの隣に座った。
「……あの娘、ふらふらだけど手伝わなくて大丈夫かな。いっぺんにあんなに運んでたら落とすんじゃ」
「ここに初めてきた人は、みんなそう言うね」
ニルファナはさして気にした様子もなく、体の力を抜いた。若干肩にもたれかかってきているところを見ると、柄にもなく疲れているようだ。ニルファナさんでも疲れるんですね、と言おうとして止めた。はずなのに脇腹を小突かれた。彼女の勘は、もはや神懸かりの領域にあるようだ。
「大分お辛そうですね、食事よりも睡眠を取った方が良かったんじゃないですか?」
「うんにゃ、ここのご飯を食べれば大丈夫だから。それより、お盆を持っている彼女の手、見た?」
「手、ですか? 普通に小さかったですね。それから、肌は健康的な小麦色で、多分炊事のせいだと思うけれど手荒れが少し気になったかな」
「そういうどうでもいい点には気づくよね。あの子がお盆を乗せていたのって、手の平じゃなくて甲だから」
「……世の中って、広いんですね」
「ドラゴンテイルのハンバーグステーキ、マグマ焼きお待ちど」
白ブドウのシャーベットの皿が音なく持ち上げられ、空いたスペースにメインディッシュが割り込んできた。厚さ3センチメードはあるだろうハンバーグが、脚の短いテーブルの真ん中で海なりのような悲鳴を上げている。赤く熱された耐熱金属板に乗せてあるせいだ。下には木で出来た厚めの受け皿が敷いてあった。
待ってましたとばかりに皿を手前に寄せたニルファナの瞳は、期待と活力に満ちていた。滑らかな手つきでナイフとフォークを操り、香ばしい匂い漂うハンバーグを等分に切り分けていく。滴る肉汁が生クリームのソースに絡み、マーブル状になった。
一口目を食べ、ん~~~、と手を鳥の羽のようにばたつかせて堪能するニルファナを眺めているだけでも、幸せをお裾分けしてもらった気になる。
と、テーブルの端にカアラがまだいることに気づく。自分の顔とハンバーグを交互に見比べている。早く食べろ。あわよくば感想を聞かせろと言いたげだ。シュイは新しいナイフとフォークに手を伸ばした。
「うわっ、柔らか!」
ハンバーグらしかぬ、一枚肉のような切り応え。鋼鉄のように堅固な鱗と強力な耐魔性を持つ竜は、斬ったり焼いたりすること自体容易ではないはず。それをどうやったらこんな柔らかく焼けるのか謎すぎる。
「ドラゴンの体、普通の火ではほとんど焼けない。特に尾の部分は武器の素材にも使われるくらい頑強で、希少な魔法具で火力を増大させた炎と岩を割くくらいに鍛え抜かれた肉切り包丁が必要。ここでは筋を全部取り除いた後のひき肉を圧力魔法で成形して出してる。この辺で食べさせる店はうちだけ。ささ、冷めないうちに」
三角巾の少女の要求に従い、シュイは肉汁滴るステーキを口に運ぶ。噛み締めた途端に尋常じゃない量の肉汁が溢れ出し、口元から零れそうになった。それを舌で押さえながら、少しずつ飲み込む。
手がひとりでに動き出し、舌が踊る。肉、肉、野菜、肉、野菜、野菜。添え物の葉っぱは香りが強く、野生味ある肉の臭いを一瞬で掻き消す。舌に残るのはうま味だけ。食べるだけで力が漲ってくる。
「うまし?」
「幸せです」
簡潔にして至高の一言に気を良くしたカアラは、拳をきゅっと握り締め、祖国に勝利を持ち帰った将軍よろしく意気揚々と厨房に引き返した。
「……あれ、今の反応って、つまり」
「うん、ここの料理長。といっても一人しかいないけど」
「……料理長? まさか、食材もあの娘が調達してるんですか?」
「さっきからあの娘あの娘って、カアラは君の倍は生きているはずだよ」
仰天発言にシュイがむせかけた。危うく貴重な肉を吹き出すところだった。
「ふむ、やっぱり大丈夫みたいだね」
「大丈夫そうって、何がです?」
「さっきのお話。元々君を知っている人ならともかく、あの似顔絵から今の顔を連想できる人はいないよ。髪を染めるかウィッグでもつければ完全に別人。カアラは元賞金稼ぎだから気づくかな、と思ったんだけど気づかれなかったし」
ニルファナが香草を食みながら言った。
「だとして、今さら感が否めないのも確かです。世間的には傭兵シュイ・エルクンドの方が認知されているわけですし」
「うーん、いっそ全てのしがらみを捨てて平穏に暮らすのも悪くないと思うけど、どう?」
反応を窺うような目線を受け、口元に冷めた笑いが浮かんだ。本気で言っているとは思っていなかった。案の定、ニルファナは特に気分を害した様子もなく、そっとナイフとフォークを皿に置き、手元のワインを口に含んだ。
「お姉さんが君と出会ってからどれくらいになるっけね」
「えーっと。五年と少し、ですかね」
「そっか、もうそんなになるか。月日が経つのはほんと早いもんだね」
ニルファナの細い指がグラスの支柱をもてあそぶたびに、入っている酒が渦を巻いた。シュイは恩人に戒められ、時に救われた過去に思いを馳せた。急く心を抑え、しかし目に焼きついた地獄の光景を忘れられず、心を苛みながら進めてきた長い道のりを。
ここまでの道は、決して平坦なものではなかった。何度かは無茶もしたし、死にかけたのも一度や二度ではないだろう。
それでも、シュイはニルファナと出会えて心から良かったと思えていた。もしそうでなければ、少なくともシュイという名の傭兵は存在しなかっただろうし、仲間たちの助力を得て大きな戦いに参加するようなこともなかったはずだ。セーニアにひと泡吹かせたという事実は、シュイの心にとっても一つ大きな区切りとなっていた。
「あの、オルドレンの時は本当にありがとうございました。セーニア軍に後詰めを出させないよう、色々動いていただいたみたいで」
「ああ、そっちの話か。誰から聞いた?」
「支部長を下ろされた直後に、フラムハートの傭兵と顔を合わせる機会がありまして。あそこにも何人か知己の傭兵がいますから。マスターの鶴の一声で軍事演習が行われることになったって聞いて、ピンと来たんです」
現地にいたシュイたちはついぞ把握していなかったことだが、ジヴー出征の最中、セーニア本国では先遣軍に続いて必勝を期すための援軍を送るかどうか思案していたらしい。ジヴー軍に加わったシュイやピエールらが全身全霊を以って臨んだオルドレン会戦は、引き分けに限りなく近い辛勝という形で決着がついたが、もし援軍が送られていればその評価は完全に覆っていただろう、というのが世間一般の見方だ。
時を同じくしてフラムハートが北方で行った大規模な軍事演習は、セーニアへの効果的な示威行動になっていた。北に備える防衛戦力を減らすのを憂慮し、援軍を見送ったのだ。以前、ニルファナとフラムハートのギルドマスター、アークス・ゼノワが学友の関係にあると聞きかじっていたシュイは、演習の件と彼女が無関係ではないのでは、と疑っていた。
当のニルファナは目を少しだけ逸らし、少しだけばつが悪そうに髪を撫でた。
「感謝されるのは嫌いじゃないけど、それはお姉さん一人の手柄じゃないんだ。うちのギルドのトップも、これ以上セーニアの好き勝手にさせるのはまずいと判断していたらしくてね。お姉さんの提案は渡りに船だったみたい」
「……トップって、マスター・ラミエルが?」
「<魔遺物>なんてものを表に出して不確定な未来に身を委ねるのはお断り、ってね。表向きは我関せずって顔しているけど、あれで裏では色々手を尽くしているんだよ。以前にも言ったかも知れないけれどあの娘の本質は商人で、お金の力というものを良く理解している。経済の波そのものが破壊されかねない問題は、極力除去したかったんだと思う」
シルフィールのギルドマスター、ラミエル・エスチュードは大企業エスチュード社の責任者も兼任している。むしろ位置付けとしては、シルフィールとはエスチュード社の関連企業のひとつであり、軍事という一部門を担っているにすぎない。
営利企業を運営するには当然先見の明というべきものが必要であり、与えられたデータから表れ得る未来を予測し、利益を出すために投資を行う。そうした才智に長けている彼女の立場を考えれば、得体の知れない要素を切り捨てたいという思いがあってもなんら不自然はない。
おそらく、彼女の憂慮は武器や魔法具などの軍事技術に留まらないのだろう。たとえば、現在使われている魔石よりも優れた情報体が大量に発掘されたとしたら、各国の経済状況や人々の距離感はおろか世界観そのものがひっくり返ってしまう。売買されている品物が次の日には異常高騰し、その次の日には二束三文で買い叩かれるような危なっかしい市場が常態化するとなれば、これまで商人たちが必死の思いで積み上げてきた商売のノウハウや理念といったものが軒並み破綻しかねない。
「先人たちも、まさか自分たちが作った技術を得るために子孫たちが殺し合うとは、思ってもみなかったでしょうね。もしジヴーがあのまま制圧されていたらと思うと、ぞっとします」
「まったくね、下手をすればジュアナ戦役の再来だよ。軍備縮小に動いているエレグスはともかく、他のニ大国が指を咥えて見ていたとは考えにくいし」
ナプキンの端で口元を拭うニルファナに、シュイは同意を示さなかった。ルクスプテロンは何十年来にわたっての敵対関係だから理解できる。だが、セーニアと同盟を結んでいるフォルストロームが手の平を返す可能性などあるのだろうか。
訝る表情から意図するところを察したのか、ニルファナは肩をすくめた。
「一口に同盟っていっても色々あるから。同盟っていうと耳通りはいいけどその実片利共生や片害共生が大概。相利共生が成り立っている例の方がよっぽど珍しい」
ニルファナが一呼吸置き、残り三分の一ほどになった肉にかぶりついた。
「単体の材料は弱いけど、降り積もると何が起きるかわからない。ジヴー連合の地下資源は――」
押し黙り、胸をどんどんと叩き始めたニルファナに、シュイは慌てず騒がず、しかし揺れる二つの膨らみから目を逸らそうと努力しつつ、水の入ったグラスを差し入れた。
「――ぷはっ、ありがと。ええと、何話してたんだっけ。そうそう、ジヴーの地下資源はフォルストロームにも大量に輸出されている。それがストップしたら当然市場に打撃を被るよね。実際のところ、もう戦争の影響は出ているんだ。長期に渡って原材料が手に入らなかったせいで、周辺各国で工場の閉鎖も起きている」
原材料の不足が理由で解雇者が出ればその分だけ雇用者対策をしなければならない。それらの全ては税で賄われるわけだから国民の不満も募ってくる。そうした大量の損失に対して、しかしセーニアは補償を行わない。結果、不満ばかりが蓄積していく。
シュイが聞いているというサインを目で示すと、ニルファナはなおも話を続けた。
「フォルストロームのキーア王は義侠心に厚い。王族に対する国民の信は、周辺諸国のそれとは比べ物にならない。ついでにいうと、アミナちゃんがああいった性格なのもキーア王の思想や行動に多々影響を受けてるからだと思う。
彼はセーニアのジヴー出征についても周辺諸国を代表し、休戦するよう再三声明を出していた。その警告を聞き入れず、オルドレンにまで至ったセーニアを快く思っているはずがない。当のセーニア教国が同盟を軽視している節があることは、ヌレイフの件で薄々感じているはず。となると、国益が一定以上損なわれる事態に傾くと判断した時点で、同盟破棄に踏み切らないとも限らない。ルクスプテロンが破れれば、次は自分たちだという危機感があるはずだから」
「さすがにそこまでは、飛躍し過ぎのような気もしますけどね」
「あのねー、他人事のように言ってるけどシュイだって多分に関係していることでしょ?」
「へ、俺が何に関係?」
「……鈍いなぁ、アミナちゃんのことだよ。今回の件にしたって少し軽率すぎ。万が一君がジヴーで殺されてごらんよ、彼女のセーニアに対する心証は著しく悪化したはずだよ?」
「そ、そうですかね」
照れ臭そうに頭を掻くシュイを見て、ニルファナが何だかなぁといった感じで額に手を当てた。
「亡くなっていたかもと仮定されて、なんでそんなに嬉しそうなのさ」
「い、いえ、別に嬉しくなんて」
シュイが緩んでいた両の頬に手をぎゅっぎゅと押し当てた。
「でも、ルクスプテロンとフォルストロームが共闘かぁ。考えつかなかったな。しかも北と南からの挟み撃ちであれば」
「さしものセーニアも厳しかっただろうね。ただ、どこが勝つにしても何万もの命が失われるのは間違いない。下手をするともっとか。四大国の国力が揃って損耗したら、再び乱世に逆戻りするかも知れない。
っとまぁ、マスター・ラミエルもそこまでは予測していて、戦争開始までに<魔遺物>をセーニアに奪われないよう妨害する。そこに焦点を絞った」
「……え、ってことはつまり、マスターは最初から<魔遺物>が砂漠に埋もれていることを知っていたんですか?」
「詳しいことは聞いていない。<魔遺物>のほとんどは経年劣化が祟って使い物にならないらしい、ということくらいかな」
ここまで聞いて、シュイはようやく事態の流れを把握した。セーニアに援軍を出させたくなかった本当の理由は、<魔遺物>の探索に割かれる人数を増やされ、発見を早めて欲しくなかったからだ。あれだけでセーニアが敗退するとまでは思っていなかった。一方で、ジヴー連合が敗北することはしっかりと予定調和の中に組みこまれていた。各々が将来的な立場を守るために警戒心を抱かせるという最低限のリスクを背負い、その後で事態を収束させるために動くつもりだったのだろう。
「とどのつまり、俺たちがその邪魔をしてしまったわけですね」
「一局面だけを見ればね。今のこの状況は計画になかった盤面だけれど、今後に繋がる布石はむしろ打ちやすい。アークスにしても、セーニアが著しく弱体化することを望んではいないし」
シュイは、ニルファナが言わんとすることを汲み取った。ルクスプテロンにとっての不倶戴天の敵がいなくなってしまったら、自治領を与えてまで戦力を囲う意味が薄れてしまう。便宜上、目下の敵は常にいて欲しいということだろう。
「もちろん、新たな脅威が生まれた時点でどう転ぶかは未知数。だから、君たちがオルドレンで苦境を乗り切ったことについては感謝していると思うよ。大戦回避への道筋を色濃く示したんだから」
「見方によってはセーニアを助けてしまったとも取れるわけですか。それを知っていればもっとやりようもあったのに。影でこそこそ動かれてるのって、なんか嫌だな」
「マスターともなると何人もの傭兵の命運を背負っているんだから、狡いことを考えなきゃいけないこともあるんだよ。まぁ、実際に戦った君たちにとっては面白くない現実だろうけど、間接的にジヴーの窮地を、そして君を救ったことに変わりはない」
ニルファナの言葉を聞いて、何かが引っ掛かった。実際に戦った君たち。もう一つの要件が脳裏に閃く。
「そうだ、ニルファナさん、アルマンドの手紙は」
ニルファナの顔が、席に座ってから初めて窓の方を向いた。霞みがかった満月をゆっくりと見上げていくその様は、束の間シュイに息を吸うことを忘れさせるほどの静的な美しさがあった。
「ちゃんと受け取った。ピエール君からね」
「あの、もしかしたらあいつから聞いているかも知れませんが、俺からも伝言があります。長い間済まなかった、感謝してるって」
「……うん、わかってる。二人を救えなかった以上、字面通りに受け取るのは無理だけど」
苦い思いが込み上げているのか、ニルファナの表情は晴れなかった。恋人に生命力を分け与える命脈供与の術式が未完成でなければ――それが彼自身の幸せに結びついたかは別として――アルマンドはもっと生き長らえることができたのだ。請われたこととはいえ、寿命を著しく縮めてしまったことについては自責の念を感じているのだろう。例えそれが善意の賭けであれ、確率は残酷なものだ。常に成功することは有り得ない。それは絶大な力を持つ彼女とて例外ではないのだ。
「ゼフレルは、君には何か遺言を?」
「……ええ。戦う理由を死者に求めるな。それと、おまえの力は生きている者のために振るわれるべき力だって」
「……油断ならないな、君の境遇にも気づいていたってわけか。彼はランカーにも劣らぬ優秀な傭兵だった。それだけに、惜しい」
艶やかな唇から慨嘆が漏れた。死ぬ間際の傭兵が見せた最期の笑みを思い出した。恋人の記憶に癒しを求め、虚ろにして永遠となった表情を。
「死者を真の意味で救うことはどうしたってできない。いないものを救えるはずがない。何かを救えるとしたら、それは生きている人の中にある記憶だけ。茨の道を駆け抜けた彼だからこそ、実感したんだろうね」
「復讐は当事者の記憶の埋葬にすぎない。僕が傭兵になりたいって訴えた時、ニルファナさんも言っていましたね」
「覚えているならよろしい。それでも、諦める気はないんでしょ?」
「虐殺に加担した連中だけは絶対にこの手で仕留めます。俺の、悲願ですから」
淡々と決意を告白したシュイに、ニルファナが目を細めた。
「重々承知していることだろうけれど、今後の君の動き如何によってはシルフィールが敵に回るからね。正直に言えば、今だって結構危うい立場にいるんだ」
「心配なさらずとも、これ以上ギルドに迷惑をかける気はありません。ニルファナさんを敵に回すなんて考えられないですし」
主に力量的な問題で。と、口を滑らしそうになったが、辛うじて踏み止まった。ニルファナの嬉しそうな表情が不機嫌に塗り潰されるのは目に見えていた。
「それで、具体的にはどうするつもりなの」
ナプキンを手に取ったニルファナに、シュイが二本指を立ててみせた。
「現時点で、二通り考えています。一つは、フラムハートへ身を寄せること」
ナプキンで口元を拭うニルファナの手が止まった。
「接触があったのは支部長をやめた直後だった、さっきそう言っていたよね。つまり、引き抜きがあったってこと?」
「そこは、ご想像にお任せします。そして残る一つですが―――傭兵シュイ・エルクンドを、始末させてみようかと。セーニアの手によって」