変人(1)
この旅館の外観と同じように、味わい深いけどとっても清潔で広いお風呂。しかも1人占めよ1人占め! から上がって、いい気持ちで部屋に戻ると、犬澤さんの部屋のドアが少し開いてた。
のぞくつもりはなかったけど、ちょっとだけのぞいてみると、ノートパソコンに向かってる。
キーボード叩くのがあんまりすごいスピードだったから、思わず見とれてると、フッと顔を上げた犬澤さんと目が合った。
「湖宮さんだね?」
どうして分かったのかしら?
「ごめんなさい。のぞいたりして」
「いいよ。開けたままにしてたからね。そのドアちょっと建てつけが悪いみたいなんだ」
本当だ、ギイギイいってる。
「あの……明日の出発、昼前からだって」
「そう、わざわざ知らせてくれてありがとう」
「こんなときまでパソコン持って来て、だけど、ネットで遊んでるようじゃなかったけど?」
「うん。アルバイトだよ」
部屋に入り込んで画面をのぞくと、わたしには理解できない文字が並んでる。
「何のバイト?」
「新しく発掘された古文献の解読。昨日、県の歴史資料館からの依頼があってね」
「そんなの読めるの?」
「資料館に知り合いがいてね、急ぎのや館内で手に負えない物なんかを回してくれるんだよ」
「へえ……って、すごい! そんなの読めるんだ?」
「まあ、昔からやってるから。慣れだよ。手間がかからなくていい収入になるからね」
「手間がかからないって……普通は1番手間がかかるんじゃないの?」
「基礎的な文字や言葉のパターンさえ憶えると、世界中の大抵の物は読めるようになるよ。古ければ古いほど共通項が似てくるし」
「パターンなんてあるの? ひょっとしてそれ覚えると英語のテスト楽勝じゃない。教えて」
「単純に英語だけ覚えるほうが楽だと思うよ」
「いいから教えて」
「古代ヨーロッパからオリエント、シルクロードを通って中国、東南アジアを含めて合計200か国語以上覚えないといけないんだけど」
「……普通に勉強するわ」
何なのよ? この人。
呆れてると彼の携帯に呼び出し音が鳴った。
「犬澤です……はい……はい……」
なんか深刻そうね、何かしら。
「解かりました。ただ、今は往絡山にいるためすぐにはそちらに行けませんので、メールで送ってもらえますか?」
「何だったの?」
「ちょっとトラブル。よそで作ったプログラムがどうやっても上手く動かなくて、こんな時間だから作った会社にも連絡つかない。でも商品納入は明日だから担当者もお手上げらしいんだ」
説明してるうちに、メールが送られて来た。
「うーん。変わった癖だな、ずいぶん複雑なことしてる……」
ひとり言をつぶやきながら、スクロールバーの矢印押しっぱなし……本当に読んでる?
そのまま10分間、最後の行までたどり着くと、頭に戻って画面をスクロールしながら数か所で画面を止めてキーボードをカチャカチャっと叩いてから携帯を手にした。
「犬澤です、修正しました。直したデータ送り返しますよ。
これ組んだ人、特徴のある組み方されてますから、ほかのプログラムでもエラーが出る可能性がありますよ……いえ、すぐ解かりましたからサービスでいいですよ……はい……それじゃ」
今の画面、読めてたんだ。だったら電車の中でパラパラめくってた本も……。
「サービスって、今のもバイト?」
「バイトっていうより個人契約かな。プログラムに問題が出た時に急遽直すの手伝ってる。古文献解読よりは割がいいんだよ」
「ふーん」
画面を見るとデータの送り先は不況なんて何のその、いまだに好景気の御子波グループ本部ってある。
驚くより呆れた。うちの父さんなんて、そのグループの下請けの会社に働いてて、それでもやっと取り引きできるようになって喜んでたのに、個人契約なんて……。
「そんなバイトってお金どのくらいもらってるか、聞いていい?」
「うん、そこそこだね」
「そこそこじゃ分からないわ、いくら?」
「普通の大学生が稼げる金額より多いと思うよ」
はっきり言わないところをみると、かなりの額なんだわ。
「そんなに稼いでどうするの?」
「卒業したら貯めたお金で世界中を放浪して周ろうと思ってるんだ。そのための資金作りだよ」
「そんなにバイトして、授業や試験はどうしてるの?」
「普通に講義を受ければ試験のために勉強する必要はないんだよ」
「……必死で勉強してもすぐ忘れるわたしに比べるとうらやましい限りだわ」
「ごめん。おかしいな、さっきから普段なら言わないようにしてることまで話してる。お酒はすべて流したはずなんだけど、少し残ってるのかな」
頬をポリポリ掻きながら、照れ臭そうに笑う姿はカワイイわ。
「言い過ぎついでにもう1ついいかな」
「なに?」
「明日の探検、充分注意しておいてね」
なんだ、ひょっとすると伝説なんて信じてるの?
「資料館に保管してあるイトナの伝説が載ってる本を土方くんが研究目的で持ち出したんだよ。
閲覧は禁止してないけど、持ち出す人がいれば、連絡してもらうように頼んでたからね」
「なんで? わざわざそんなこと……」
今まで笑っていた犬澤さんの顔から笑顔が消えた。
うっ、急にそんな顔してもだまされないわよ。
「載ってるんだよ、イトナの呼び出し方がね。隠してはいるけど、読む人が読めば解かるようになってるんだ」
「でも隠してあるんでしょ? 土方さんが気づいたかどうか分からないじゃない」
「さっきの姿からじゃ想像しづらいかと思うけど、彼は優秀な民俗学者の卵なんだよ。まず間違いなく気づいてる」
「気づいていても、やらなきゃいいんでしょ。危険を承知でそんなことするはずないじゃない」
「ダメだよ、彼は危険を認識してない。でないと見にくることさえするはずないからね。多少分かってたとしても、頭の中で勝手に安全なものにすり替えてるんだ」
「よくあることよ。物事が大きすぎて判断がつかなくなって、自分で判断できるくらいのものに置き換えるなんて」
「そうなった人を冷静に観察したことがあるんだね?」
「ニュース見てればイヤでも分かるわよ。「やってみたかった」とか「むしゃくしゃした」なんて理由で人を殺すなんて最悪の例ね。しかもそれが報道されたあとマネする模倣犯なんかも……。
イタズラでやったじゃ済まされないことくらい、分かるはずなのに」
「だけどそれは決してなくならない。1つの大きなインパクトは必ず余波を生み出すから。現に湖宮さん、ずいぶんと憤慨してる」
カチーン!
何よそれ? 自分だけはそういう事件を見ても冷静に見られるって言いたいわけ?
「ごめんね。わざと誘導訊問のかたちをとったんだ。だけど湖宮さんなら、そうした理由を理解してくれると思ったんだよ」
「わたしなら理解できる? どういうこと?」
「オレたちは明日、間違いなく常識の範囲を超えた事件に巻き込まれる。
その時に今のやりとりを覚えててくれるなら、理解を超えた事象の中にあって冷静さを取り戻してくれるからだよ。
何が起こるのかは言えないけど、きっとこれが何かの役に立つひとつなんだ」
素直に謝る……本当に申し訳なさそうに謝る犬澤さんに、カチンときた気はひとまずおさまったけど……。
「常識を超えた事件って何よ? まさかホントのホントにイトナが出るなんて言うんじゃないでしょうね?」
「出てくれないほうが助かるけど、出てくれないならそれで、オレは困るんだよ」
「どういうこと!?」
わけ分かんないわ。
「約束があってね。どうしても果たさなくちゃならないんだよ」
「どんな約束?」
「それは言えないんだ。ごめんね」
うっ、何よその大学生とは思えない純粋っぽい顔は。なんだかいい人なのか悪い人なのかホントに分からなくなってくるわ。
「ま、まあ……話せないんならいいわ。
犬澤さんは自分の世界を突き進んで、わたしはそれなりに頑張るから」
「うん……それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
建てつけの悪いドアをグッと引っ張って、ピッタリ閉じると、中からまたキーボードを叩く音が聞こえてきた。
いるのね、わたしたちとは別世界の人って……なんて、わたしが言ってどうする?




