怪話篇 第三話 鏡
1
「おはよう、山村。早いな」
「やあ、おはよう。おまえの方が早いじゃないか。何だ、眠そうな顔して」
「ああ、昨日徹夜だったんだ。ちょっと、館長に頼まれたもんだから」
「あのおっさん、無理ばかり言うからな。で、仕事は片付いたのかい?」
「それが、全然なんだ。半分も出来てない。……その……、夜中に、変な事があったんでね」
「変な事? 何だ、……おまえ顔色悪いぞ。いったい何があったんだ?」
「……ああ。おまえ、……信じないだろうなあ」
「おい、どうしたんだよ。田口、さっさと言っちまえ」
「ああ、……。なあ山村……おまえ、ココの奥にある、鏡……知ってるだろう」
「ああ、絵画を飾った廊下の奥の方だろう。一番奥の行き止まりのところ」
「そうだ。あそこの、大鏡だ」
「戦前の物で、この博物館が開館した当時からあるんだって言ってたよ、うちの館長」
「うん。……そこで、……見たんだ」
「何を? まさか、幽霊だなんて言うなよな、バカらしいから」
「……」
「何、黙ってんだよ。本当に、幽霊が出たのか」
「……もういいよ。どうせ信じないんだから」
「おい、冗談だろ……」
「俺、館長に言い訳考えなきゃ……」
「おいおい、待てよ。おい」
2
「なあ大木。田口の奴、今朝はおかしいんだ。幽霊見たって言うし」
「ああ……、絵画棟の鏡か」
「おっ、おまえ、知ってるのか?」
「……うん。俺も見たから……」
「……本当か」
「夢かも知れんがな」
「どんなんだ?」
「十日くらい前だったかな。夜中過ぎまで用事があってね。もう帰ろうかと思っていたら、例の廊下の方で、妙な物音がしたんだ。それで、……行ってみたら、」
「いたのか……」
「何もいなかった」
「怒るぞ」
「いや、……最初、泥棒か何かと思ったんだ。幸いあそこは、絵が架けてあるだけで、あの鏡で行き止まりだ。隠れ場所なんて、……ないだろう。だから誰かいたなら、すぐ分かる……だろう?」
「そうだな。で、結局何もなかったんだろう」
「そうだ。でも、あそこはいつも薄暗いだろう。だから、念の為に調べてみたんだ」
「……」
「正真正銘、誰もいなかったよ。これは、本当だ」
「ああ、信じよう」
「それで……、今度こそ帰ろうと思った時、鏡に……、」
「鏡に?」
「人影が写ったんだ。で、急いで振り向いたんだが、……誰もいなかった……」
「……」
「廊下の入口までは、随分ある。絶対に隠れられない……。実際、そこには俺一人しかいなかった……」
「絵を、見間違えたとか……」
「いや。そんな事は、絶対にない」
「それじゃあ……、そうか!分かったぞ。なんて事はないじゃないか」
「……」
「おまえ、自分の姿を幽霊と思ったんだ」
「残念だったな、川村。鏡の人影は、二人だったんだ……」
3
「よう、田口に大木。おはようさん」
「おはよう、山村。今朝は、いやに早いな。どういう風の吹き回しだ」
「そうそう、雨でも降るんじゃないのか」
「言うなあ。昨夜、徹夜したんだよ」
「館長命令か」
「そう言う事。で、例の幽霊だが」
「やっぱり出たのか」
「さっぱり出んかった」
「本当か?」
「じゃあ、俺達の見たのは、夢か何かだったのかなあ」
「そう言う事。俺、夜中過ぎに、こないだおまえ等が言ってたのを思い出してね」
「言ってみたのか?」
「ああ、丑三つ時だったぜ。けど、誰もいなかったよ」
「それは、分かってる。問題は、……」
「そう、問題は」
「何も問題なんてなかったよ。鏡にだって、俺一人しか映らなかったぜ」
「そっ、そうか。じゃあ、夢か」
「そうそう。幽霊なんか、いるはずないよな。そうだよ」
「そうだな」
「そう言う事だ」
「何が、そう言う事なんだね?」
「あっ、事務長」
「北川さん、おはようございます。実はですね、絵画棟の鏡なんですが、……」
「ああ、あれね。そうなんだ。昨日の昼過ぎに、アルバイトの子が壊しちゃってね。物が大きいもんだから、業者の方も二・三日待ってくれって。で、危ないから、枠だけにして置いたんだ。館長もカンカンでねえ、……どうしたんだ、みんな。青い顔して。幽霊でも見たのか?」
eof.
初出:こむ 4号(1986年9月12日)