03.魔法使い
食事が終わってしばらくした後、次は二階へ行くことになった。
階段には、ここに来た時と同じように、ふかふかの綺麗なカーペットが敷かれている。未だにこの上を歩くのをためらってしまうくらい立派な絨毯だ。
「こっちだよ」
アビスさんが軽い足取りで階段を上っていく。
私も慌てて後ろをついていくけれど、数段上ったところで、足が重くなった。
「……はぁ……っ、はぁ……」
立ち止まった私に気付いたのか、数段先にいたアビスさんが振り返る。
「すいま……せん……っ」
息が切れて、言葉が続かない。
久しぶりにまともな食事をしたから、体が驚いてしまったのかもしれない。それとも、昨日までの過酷な環境の疲れが、今になってどっと出たのか。
どちらにせよ、今の私はこのくらいの階段すらまともに上れないほど弱っているらしい。情けなくて、下唇を噛んだ。
「あの……その……っ」
きゅうううっと痛む横腹を押さえる。「疲れた」と口から出そうになる言葉を飲み込んだ。ここで弱音を吐いたらいつもみたいに怒られてしまうのでは……?と、手すりにしがみつくのが精一杯。そんな私の行動と表情を見た彼の手がこちらに伸びてくる。――殴られる……!と過去の経験が勝手に体を硬直させ……
「あんな環境にいたんだ、体力が戻るまでは時間がかかるんだろう、怒ったりしないよ」
しかし、耳に届いたのはそんな優しい言葉。と同時に、体が軽くなる。
不思議だ。あれだけ苦しかったのに、息が切れていない。冷たい空気が、すぅっと心地よく胸の奥まで入ってくる。めまいもしないし、お腹の痛みも嘘みたいに消えていた。
「な、なんだか、体が軽い……です……」
私の足はまるで羽が生えたかのように、軽やかに一段一段を踏みしめていく。
「それならば良かった。ほら、一緒に進もうか」
数段進み、アビスさんに近付けば当然かのように私に手を差し出してくれた。勝手に恐怖して込めてしまっていた力が抜ける。ただ、ソレと同時に小さな迷いが心を埋め尽くす。
――汚い私が触れていいのだろうか……と。けれど、ここで断って迷惑をかける方がもっといけないことだ。
私はおずおずと、その手を取った。
さらっとした手触りの、シルクの手袋。私の手垢で汚してしまわないか不安になりながら、拒絶されないようにそっと握る。
温かい。人の手がこんなに温かいものだと、私は知らなかったのかもしれない。
「はい……!ありがとうございます……!」
彼に支えられながら、一段一段、ゆっくりと上る。
この人は、どうしてここまで私に優しくしてくれるんだろう。
家族になりたいとは言われたけれど、私なんかじゃなくても、もっと良い子はたくさんいるはずだ。あんな奴隷商人から買わなくたって、ちゃんとした養子をとればいいのに。
私は貴族でもなければ、教養もない。マナーも常識も知らない。
きっと、この綺麗な家には似合わない。
アビスさんはすごく物好きな人なのか、それとも哀れな奴隷を救いたいお人好しか……。どちらにせよ、これ以上がっかりされないようにしなきゃいけない。
そのまま問題もなく階段を上りきる。急に何が起きたのだろうと、不思議に思った。
「何が起きたのでしょう……?その……、美味しいご飯、食べたから……ですかね……?」
「あはは、そうかもしれない。これなら問題なく家の案内が出来るね」
アビスさんは事もなげに笑う。彼がこちらに手を伸ばしてきた瞬間に私の体は軽くなった。きっと彼が何かをしたのだろう……。しかし彼がそれ以上何かを言うことはなかった。
「二階と三階はほとんど客室なんだ。今の君には関係ない場所だから、案内は省くよ。特に三階は客室しかないからね」
「は、はい」
そうして最初に案内されたのは、広い部屋だった。数は多くないがいくつか家具が置かれている。
ビリヤードにダーツ。名前くらいは知っているけど、私にはまったく縁がないもの。
「ここが遊戯室で、隣が談話室だ。君が楽しめるようなものがあるかは分からないけど……好きに使ってもらって構わないよ」
「はい……」
遊戯、つまり遊び場ということだろうか。
今まで生きてきて、そんなことをした記憶はない。あれはどうやって使うものなんだろう。それに、私と一緒に遊んでくれる人なんて、いるんだろうか。
次の部屋の扉が開かれる。
「ここが書斎だ」
壁一面の本棚に、分厚い本がぎっしりと詰まっていた。
圧倒されて、口が開きっぱなしになる。
背表紙には難しい文字が並んでいるけれど、ほとんど何て書いてあるかすら分からない。そもそも私は必要最低限の文字しか読めないだ。
それに、ここの言葉は見慣れないものばかりだった。どうやら私は、まったく知らない国に来てしまったらしい。そこまで長旅をした記憶はないのだけれど……。
少しでも、文字を覚えたいと思った。
その方がアビスさんの役に立てるだろうから。何も出来ないまま、ただ飯ぐらいで居続けるのは居心地が悪い。
「使えない」と判断されて、いつかまた売り飛ばされるかもしれない。その不安が、常に心のどこかにへばりついている。
そうならないために、勉強しなきゃ。
「あの……ごめんなさい……私、知らない文字が多くて……勉強出来るような本とか、ありませんか……?」
怒られないよう、おずおずと聞く。
勉強用じゃなくてもいい。子供向けの本とかがあれば、そこから勝手に覚えるから。
「ああ……そうだね……それなら……」
そう呟きながら、アビスさんは本棚に視線を巡らせた。
「うん……童話がいくつかあるから、あとで何冊かまとめておくよ。一人で勉強するのは大変だろう? 時間があるときは私も教えてあげるからね」
「あ、ありがとうございます……!」
ぱぁ、と目の前が明るくなるような気がした。教えてもらえる。そのことが嬉しかった。
書斎を出て、廊下を進む。
「ここは倉庫になっている部屋だね。いろいろ置いてあって危ないから、用事があるとき以外は入らないように」
「わかりました……」
「これで大体の案内は以上だよ。基本的に、危ないところ以外は自由に使ってもらって構わないからね」
「えっと、あそこは……?」
全ての部屋を回ったはずなのに、廊下の奥に一つだけ、明らかに雰囲気の違う扉があった。
厳重に封鎖されているような、重々しい扉。どうしても気になって、思わず聞いてしまう。
「ああ……あそこは、危ないところだから近づいちゃいけないよ。私の実験部屋なんだ」
「実験……部屋……?」
何の実験だろう。家にそんな施設を作るくらいだ、もしかすると彼はすごい学者様なのかもしれない。
私の事を買って、家族になると言ってくれた彼のこと。私はまだ、何も知らないんだと改めて思った。
「その……アビスさんは、何をしている人……なのですか?」
勇気を出して聞いてみる。何も知らないのは怖いし、少しの好奇心もあった。
不思議な事がたくさんある。彼は一体、何者なんだろう。
「……そうだなぁ……その話もしたいし、一度リビングに戻ろうか。これからの話を君にするよ。ここで立ち話もなんだからね」
歩き出す彼の背中について行く。
これからの話。一体、どんなことを言われるんだろう。少しだけ、胸がざわついた。
◇
リビングに戻り、彼と向かい合ってソファに座る。
アビスさんは、真っ直ぐに私を見て言った。
「さて、メアリー。君は魔法を知っているかい?」
「魔法……ですか……?」
突然の言葉に、目が点になる。
確かに不思議な事は多かった。けれど……魔法という言葉には、あまり良い思い出がない。
昔、私を買ったご主人様の中に、そういった怪しい術を使う人がいた。どれも痛くて、恐ろしい儀式のようなものばかりだった。
「もしかすると、どこかで聞いたことがあるかもしれないね。私はその魔法を扱える……いわゆる魔法使いだよ。……といっても、想像できないだろうから、分かりやすいモノを一つ見せてあげよう」
そう言って、彼が暖炉の方に目を向けた。
「よく見ているんだよ」と彼が呟く。
いつの間にか、暖炉の火は消えていた。
私の知っている魔法は、恐ろしいものだ。それこそ、人を犠牲にするような……。
背筋が凍る。つまり私は、その生贄にするために奴隷商人から買われたんじゃ……?実験室があるって言ってたし、つまり……!
そんな勝手な絶望が胸に広がる。結局、こうなるんだ。私はぎゅっと膝の上のスカートを握りしめて、諦めるように目を閉じる。
カツン、と彼が暖炉の横にある薪を一つ、空中に放り投げた音がした。
きっと、恐ろしいことが起こるんだ。
……けれど。
いつまで経っても、痛みはない。怖い声も聞こえない。
恐る恐る、薄目を開ける。
そこには、空中にふわりと浮いた薪と、それに絡みつく美しい黒色の炎があった。
炎は彼の手の動きに合わせて生き物のように揺らめき、薪を包み込んで、暖炉の中へと静かに運んでいく。
メラメラと、薪が燃えだした。特別な炎なのだろうか?離れているのに、普通より熱く感じる。不思議な光景だった。
「どうだい? イメージ出来たかな……?」
想像していた惨劇が起こらず、私は拍子抜けしてしまった。
よほど間抜けな顔をしていたのだろう。彼が少し心配そうな声色で聞いてくる。
「いきなりは難しいかい……?」
「あ、えっと……なんか……もっと……怖いものかと……」
私の正直すぎる感想に、彼がくすりと笑った。
「あぁ、そうか、なるほど……。大丈夫だよ、使い方を間違えなければ恐ろしいものではないからね。魔法っていうのは便利な物なんだ」
そういって彼は、魔法の仕組みを説明してくれた。
魔法というのは「想像力」らしい。その人の妄想を現実に変える力。だから先ほどの魔法も、炎をイメージして、それで薪を燃やすと強く考えることで発動するのだそうだ。
「ちょっと……難しそうですね……」
また、素直な感想が口をついて出た。
妄想や想像が出来ないわけでは無いけれど、あまり得意ではない。夢見る子供だった時もあったかもしれないが、それも随分昔の話だ。
今だってもしかして、何かの手品なんじゃないかと疑っている自分もいる。
「そして君には、その才能があるんだ」
アビスさんが、真剣な声で私に言った。
「私に……ですか……?」
そんな馬鹿な、と心のどこかで乾いた笑いが漏れる。
ありえない。私はただの人間だ。それも、無力な奴隷の。こんなすごい才能があるはずがない。
「そう、メアリー、君にだ。だから私は君をここに連れてきたんだ」
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
突然始まった非日常。優しすぎる主人。そして魔法。
今日は本当に、理解出来ないことばかりだ。
「だからメアリー。魔法使いになってみないかい?」
言葉と同時に、アビスさんが手を差し出してくる。
魔法使いだなんて。そんな未来、想像もできない。何かの冗談ではないのか?
いろいろな考えが頭をよぎる。
けれど、その全てを一つの冷徹な答えが塗りつぶした。
――ここで断ったら、私はどうなる?
またあの地獄に戻されるのではないか。用済みだと捨てられるのではないか。
その恐怖が、私の体を突き動かす。でも、それだけじゃない。彼の優しさ、綺麗な魔法……もし私が魔法使いになれるのなら、彼の役に立てるのならば……。
「わ、わかりました……。それがアビスさんの望みなら……」
もちろん、私は、彼に買われたのだ。主人に逆らうなんて出来ない。
自分で何かを選ぶだなんて、絶対に許されない。そもそも「断る」なんて選択肢は、最初から私の人生には用意されていないのだから。でもこの手を取ったのは少しだけ私自身の意志だったのかもしれない。
そうして、私の奇妙な日常が幕を開けた。
三話まで読んでくださりありがとうございます!紗綾です!
次回から少しずつ話が進んでいきます!
よろしくおねがいします!




