02.人並みの生活
「じゃあ家の案内をしようか。おいで」
そういって歩き出した彼の後ろをついていく。広い家なのに住んでいる人数は少ないらしい。どうやら必要なものはだいたい一階に集まっているようだ。全体的に古い印象を感じつつも、掃除は隅々まで行き渡っており、その古さがシックな雰囲気を演出している。
床には、これまた年期を感じるものの、ふかふかに手入れされた深い紫色の絨毯が敷かれており、歩くだけでも楽しい。まずは必要な所から、とお風呂やトイレ等の水回りの案内をされる。磨かれたタイルと水垢一つない鏡。浴槽や蛇口、どこを見ても細かな装飾が施されていた。今までお金を持ったお客様の家に買われる事もあったが、ここまで嫌味のない高級感を感じたのは初めてだと思う。
「ここは共同のスペースだ。メアリーもここを使ってもらって構わないからね」
「え、あ……い、いいの、ですか……?」
「もちろん。君はこの家の家族だ。私たちと同じように生活してほしいからね」
それぞれの物の場所や使い方の説明をしながら彼が思い出したかのように口を開いた。
「あぁ、そうだ、風呂の準備や身の回りのことは全部メイドの仕事だから、遠慮して自分でやったりしないように。慣れていないかもしれないが、働いている者の仕事を奪うことになるからね」
「は、はい……わかりました……」
急に与えられた人並み以上の生活に戸惑う。誰かに頼るというのもなかなか難しいものだ。何度も、それこそ物語に出てくるお姫様のような生活を妄想してみたが、自分がそうなる想像がやっぱり出来ない。
「大丈夫、ここには君を理不尽に叱る人間はいない。分からない事はいくらでも聞いていいし、失敗もしていいから、ね」
不安を感じ取ったのだろう。彼が私を見る。相変わらず表情は隠れていて読めないが、悪意は感じない。それならば信じてもいいのだろうが、こんな時に思い出すのは裏切られた過去で……。いつまでもこんなんじゃ失礼だろうと心の中で小さく頭を振った。
「ここが私の部屋だ」
住人の部屋も一階に集まっているらしく、まずはアビスさんの部屋から案内された。
「こっちがハウスメイドの部屋で……ここが……」
順番に案内されていたが三つ目の部屋で、ほんの一瞬彼が考えるようなそぶりを見せる。
「もう一人住人がいるのだが、まぁ、それは追々説明しよう。その隣の部屋も……後から分かるだろうし……」
そう、部屋を二つ飛ばして、最後が私に用意されていた部屋だった。
「自分の部屋なら基本的に自由に扱ってもらって構わない。何か足りないものや必要なものがあったらすぐに言うように」
「はい」
短く返事をすれば、良い匂いが漂ってくる。キッチンは作業中だからと飛ばされていたから、きっとご飯が出来たのだろう。
「そろそろ食事にしようか。軽いものしか食べてもらっていないし、お腹も空いただろう」
「え、あ、わ、私も……ですか?」
「もちろん。家族なのだから一緒に、だ」
リビングの方向に歩いて行く彼を少し遅れて追いかける。食事、どんな物が出てくるのだろう。さっきのクッキーもとても美味しかったし……そう、少しだけ期待してしまっている自分にちょっとだけ驚いた。
リビングも変わらず落ち着いた雰囲気でまとめられている。大きめのテーブルにいくつかの小さな椅子。どうすればいいか分からず、床に座ろうとすればアビスさんに持ち上げられてしまう。
「君の場所はここだよ」
そう言って椅子の上に下ろされる。大きめだけど座り心地の良い椅子だ。
「申し訳……あっ、じゃなくて、ありがとうございます……」
その言葉を聞いた彼は満足そうに私の正面の椅子に座る。
「高さは大丈夫かい? 合わないようならクッションを持ってくるけど」
「いや、そこまでは……!」
これ以上の親切と優しさは私の許容量を超えてしまいそうだった。嬉しくないわけではないが、まだそれを受け止めるほどの心が私にはない。
「ここはリビングだ。食事は基本この部屋で一緒に食べよう。特別な理由がない限りは家族一緒にご飯を食べるのが一番だからね」
「えっと……食事の準備とかは……」
「それもメイドがやってくれるよ」
アビスさんの視線が、入り口の方へと向く。
釣られて私もそちらを見ると――そこには、金色の髪をした綺麗な女性が立っていた。私達の視線に応えるようにスカートの裾を左右につまみ上げ、片足を後ろに引き膝を曲げるお辞儀をする。あまりにも自然で綺麗なその動きにすこし見とれてしまった。
彼女はしずしずと、食事の載ったワゴンをこちらへ運ぶ。
目の前で静かに足を止めると、クロシュの取っ手に優雅に手を添えた。
ゆっくりとそれが持ち上げられた瞬間、小麦とお肉の焼ける香ばしい匂いがふわりと私の鼻をくすぐる。
「わ、あ、と、ありがとうございます……」
肩の辺りに見える小さな蝶のような羽がとてもとても気になったが、声をかけるより先に彼女はお辞儀をして、いなくなってしまった。とにかく全ての所作が美しい、そんな人。
「彼女がこの家のハウスメイドだよ。身の回りの世話や、この家の事は彼女が主にしてくれるからね」
「わ、分かりました……頑張り、ます……」
私が何を頑張るんだという話だが、お世話をするばかりの人生なのでお世話をされるのには慣れていない。一番迷惑をかけてしまいそうだから、嫌われないようにしないとなぁ……なんて考えた。
「さて……、家の案内以外にこれといった予定もないから、ゆっくり食べてくれて構わないよ」
彼の言葉を聞いてあらためて用意された食事を見る。細長い、サンドイッチみたいなものだ。黒くない綺麗なパンに色鮮やかな野菜、そしてジューシーなお肉。どれもこれも今まで口にすることが許されなかった物。恐る恐る手に取ってみる。ちらりとアビスさんの様子を伺ってからかじりついてみた。パンのほんのりとした温かさが手のひらに伝わり、それだけで涙が出そうになる。
「んむ……」
久しぶりのまともな食事だ。パンの硬さが顎にじんとする痛みを伴う。なかなか咀嚼ができず、具材までたどりつかない。かみ切ろうとすると、力が足りず手前の野菜がずるりと引きずり出されてしまった。
「あ、わ……んっ……」
せっかく綺麗に作られているのだ。形を崩さないようにと必死に食べている姿が、逆に急いでいるように見えてしまったのかもしれない。「まだまだ時間はたっぷりあるからね」と、アビスさんが声をかけてくれた。
慣れない食べ物に時間をかけつつも、食べ進めていれば、やっと具材にたどり着く。
「……! おいしい……」
「それは良かったよ」
口の中に広がる野菜の爽やかな青々しさと力強い肉の旨み。今まで口にしたことのないほどの豊かで温かな味わいに、胸の奥がじんと熱くなる。飲み込んでしまえば消えてしまうのが惜しくて、できることなら永遠に噛み続けていたい。ただ、やっぱり顎に力が入らないから思うように噛めない。だからこそ、弱々しい咀嚼のひとつひとつに、できる限りの気持ちを込めていた。ほんのわずかな時間でも、この温かさを手放したくなかった。
今まであんなにひどい扱いを受けて、もう誰も信じたくない位の生活を送っていたのに、なんて自分の心は単純なんだろう。この人を信じてみたいと、そう思っていた。
ふと、アビスさんが気になる。彼も一緒に食事をしているのだが、私は彼のヴェールの下を見たことがなかった。会ってからずっと顔を隠しているから、正直その下がどうなっているか気になっている。人に見せたくないほどヒドい顔をしているのだろうか? 大きな傷でもあるのか……もしかすると人に顔を見せてはいけないほど高貴なお方なのかもしれない。今思えば、こんなに立派な家に住んでいるのだ、私が想像している以上に権力のある人だって可能性もある。好奇心に負け、チラリと視線を向けた。
彼がサンドイッチを手に持って口元に持っていく。そのままヴェールを上げるのかと見つめていれば、そんなことはなく、手に持っていたサンドイッチの一部が霧のように消えてしまった。それなのに彼はまるで自分で齧ったみたいに咀嚼しているような動きをする。一瞬幻覚でも見たのかと瞬きしてみたが現実で……、何がおきているのか全く分からなかった。
驚いてあまりにもじぃっと見つめていたせいか、アビスさんがこちらに気付いて顔を向けてくる。
「どうしたんだい? 何かあったかい?」
「あ、いや、とくに何かあったわけでは……えっと……」
聞いてもいいことなのだろうか。……そういえば、この家に来たときに渡されたペンダントもそうだ。不思議なことが多い。もしかして何か夢でも見ているのだろうか。バレないようにそっと足をつねってみる。
(痛い……)
夢ではないようだ……。ならどうして。謎は深まるばかり。――もしかして、とんでもないところに来てしまったのでは……? と今更になってそう思った。
「もし何か気になることがあったら遠慮なく言うんだよ」
優しい声でアビスさんは言う。いろいろと考えて「ありがとうございます……」と一言だけ返した。頼るということが苦手な自分にとって遠慮をしないというのはなかなか難しい。
そこまで量がない食事も私にとっては時間のかかるもので、だいぶ彼を待たせてしまった。最後の一口をやっとの事で飲み込む。
「食べてすぐ動くじゃ苦しいだろう、もう少し休んだら二階の案内もするよ」
「は、はい……!」
彼の言うとおり私のお腹は久しぶりの食事でパンパンだった。こんなに幸せな重みは初めてかもしれない。何か話すべきだろうかと沈黙に気まずさを感じるが、アビスさんはそんなこと気にしてないようで、お茶を飲んでいた。私も真似してお茶を飲む。飲み慣れない紅茶は苦く感じるがそれが気にならないくらい美味しい。甘く優しい香りでほっとする。
「あの、ご主人様……? えっと、何とお呼びすれば……」
口に出してふと、この人の事は何と呼べばいいのだろうかと思った。父親だと思ってほしいとは言われたが、だからと言ってお父さんだなんて申し訳なくて呼べない。奴隷である私からしたら『主人』なのだが、きっと彼はそれを望んでいないだろう。
「改めて言うが、私は君を家族として迎え入れたんだ。奴隷としてここにおいておくつもりはないんだよ」
持っていたティーカップを置いて彼は言う。目は見えないがまっすぐとこちらを見る視線を感じる。
「でも、そうだね……流石にいきなりお父さんは難しいだろうから、慣れるまでは名前で呼んでくれて構わないよ。アビスさんと呼んでおくれ」
「アビスさん……ですね。わかりました」
「緊張が解けたらもう少し楽な話し方してくれて構わないからね」
「楽な話し方……」
失礼のない話し方をたたき込まれてるからこれ以外の話し方が分からない。いろいろ思い出してみて、どれもしっくりこないなと首をかしげる。
「ははは、まぁ、無理はしないでいいよ」
「はい……アビスさん」
なんだか誰かの名前を呼べるのが嬉しくて小さく何度も繰り返す。なんだか人間に戻れた気がした。




