始まりの夜
重厚な扉が、きぃ……と音を立てて閉じられる。
リリアは、小さく息を吸い込んだ。
公爵との静かな対面の余韻が、まだ胸の奥に残っている。
冷たいようでどこか優雅な声、そして、その奥に感じた何か得体の知れない深淵。
けれど不思議と、怖くはなかった。
あの琥珀色の瞳に、じっと見つめられた時の、理由もなく鼓動が速くなる感覚――
それを思い出しながら、そっと胸元に手を当てた。
「……お疲れさまでございました、リリア様」
穏やかな声に振り返ると、先ほど控えていた女性が、優しい微笑みをたたえて頭を下げた。
銀のように美しい柔らかな髪を後ろにまとめ、深緑色の瞳はどこか懐かしさを感じさせる。
その柔らかな雰囲気に、リリアもつられてほっと息をついた。
「私はこの屋敷のメイド長、クラリーチェと申します。
これから公爵邸でのお世話をさせていただきます。
お部屋までご案内いたしますね」
「あの、えっと、こちらこそよろしくお願いします……クラリーチェさん」
リリアが小さく頭を下げると、彼女はそっと微笑んだ。
「どうぞ、緊張なさらずに。さあ、お部屋へご案内いたしましょう」
クラリーチェに導かれ、リリアは広い廊下を歩く。
廊下の両脇には高い窓と大理石の柱が交互に並び、夜の帳に沈んだ庭園を映している。
廊下の壁には淡い光を宿すランプが並び、夜の城館を優しく照らしている。
「お屋敷の作りは少し複雑でございますが、ご安心ください。
慣れるまでは私や他の者がご案内いたしますので」
「ありがとうございます……それにしても、こんなに広くて、立派なお屋敷……夢みたいです」
リリアが思わずつぶやくと、クラリーチェは優しく微笑む。
やがて、長い廊下の先──大きな扉の前で足を止める。
「こちらが、リリア様のお部屋でございます」
扉がゆっくりと開かれると、そこに広がったのは──
思わず息を呑むような、美しい部屋だった。
白銀のレースが縁取られた天蓋付きのベッド。
窓辺には薄紅色のカーテン。
高い天井と、淡く灯るシャンデリアが、部屋全体をやわらかな光で包んでいる。
暖かい色調の絨毯と、薔薇模様の壁紙。
暖炉には薪がくべられ、外の冷たい夜気を忘れさせる、心地よい空間だった。
「……すごい」
リリアは思わず足を踏み入れ、ぐるりと見渡す。
鏡台も、ソファも、刺繍入りのクッションも、まるでおとぎ話の中に迷い込んだようだった。
「お気に召していただけて、何よりです。
お荷物はすでにこちらにお運びしております。
……今宵はお疲れでしょう、湯浴みのお支度をいたしますね」
「はい……ありがとうございます」
リリアは、クラリーチェに礼を述べながら、もう一度部屋を見渡した。
こんなにも丁寧に迎えられるとは思っていなかった。
この屋敷の主の噂を考えれば――あまりに優しすぎて、不思議な気持ちだった。
支度を終え、リリアがベッドに入ると、クラリーチェはそっと部屋を後にする。
「おやすみなさいませ、リリア様。どうか良い夢を」
「……おやすみなさい」
柔らかな毛布に包まれ、広いベッドの上で、ふかふかの枕に顔を埋めた。
(……ここまで、いろいろあったな……)
セシリアのこと、馬車での長旅、公爵との初対面。そしてこの屋敷のこと。
胸の奥に、名もなき不安がひとつだけ灯っている。でも──
「……がんばろう。きっと大丈夫……」
誰に言うでもなく、そっとつぶやいたその言葉に、自分で勇気をもらった気がした。
ゆっくりと瞼を閉じる。
不安と緊張で胸がいっぱいになるはずの初めての夜。
けれどその夜、リリアは一度も目を覚ますことなく――深く、静かな眠りに落ちていった。
そしてその頃。扉の外に立つクラリーチェは、そっと微笑んでいた。
「……かわいらしい方ね、クラウス兄様」
背後から現れた執事クラウスもまた、穏やかに目を細めていた。
「ええ。思っていたよりも、ずっと──真っ直ぐな子です」
闇に包まれた公爵家に届いた、小さな光。その灯は、まだ弱々しいけれど──
やがて確かに、この夜を照らす光になるのかもしれない。