仮面の公爵
重厚な扉が、まるで長年の沈黙を破るように音を立てて開いた。
「フェルト伯爵家のご令嬢、リリア・フェルト様をお連れしました」
先導する執事の声と共に、リリアは一歩、執務室に足を踏み入れた。
石造りの床。冷たい空気。
薄暗い燭台の光が、城内の壁にゆらゆらと影を落としている。
その静けさは、まるで時が止まったかのようだった。
玉座のような椅子に、黒衣の男が座っていた。
長身のその男は、深紅のマントを羽織り、左目から頬にかけて、黒銀の仮面をつけている。
表情は読めない。
仮面の下から覗く口元は無表情で、唇はどこか冷たげだ。
彼が――エルヴィン・ノワール公爵。
噂の「吸血鬼公爵」その人だった。
リリアの心臓が、小さく跳ねた。
(この方が……公爵様)
彼の右目が、まっすぐリリアを射抜く。
その目は、琥珀色に近い深い金色だった。まるで見透かすような、そんな眼差し。
「――ようこそ。あなたが、フェルト家のご令嬢か」
低く、落ち着いた声が響いた。
リリアは静かにドレスの裾をつまみ、丁寧に一礼する。
「はい。妾腹ではありますが、正式にフェルト家の名をいただいております。
リリア・フェルトと申します」
一瞬、沈黙が落ちた。
仮面の下で、男の目が細められる。
「リリア嬢。君は……私の噂を知っているのだろう?」
問いかけというより、それは確信に近いものだった。
まるで、これまでも何度となく言われ、そして拒まれてきた言葉のように。
リリアは一瞬だけ瞼を伏せた。
「……はい。けれど、噂は噂にすぎません」
ゆっくりと顔を上げる。怯えではない、虚勢でもない。
「私は、今のお姿しか存じません。
だからこれから、少しずつ知っていきたいと思います。
……あなた様のことを」
仮面の奥で、公爵の瞳がわずかに揺れた気がした。
「そうか……。変わった娘だな」
「……そうかもしれません」
返した言葉に、微かに笑みが乗ってしまったことに気づき、
リリアは小さく唇を噛んで俯く。
「――名は、リリア。覚えておこう」
その言葉が告げられた瞬間、何かが始まった気がした。
そのとき、仮面の下――
わずかに口元を緩めた彼の姿を、リリアはまだ知らない。