78 最後の選択
「急にこんなことを言われても困るだけだよね。でも、今を逃すと君は二度と向こうには帰れなくなる。王国にはまだ女神の加護があるからね。女神の加護がないこの帝国にいるうちじゃないと帰してあげられない。さっきも言った通り、僕に残された時間はあと少しだからね。」
「そんな・・・・・・それでは、クリス様が・・・。」
「ふふっ。僕の心配をしてくれるの?あやめはやっぱり優しいな。でも、君の知らないこの世界のことは気にしなくてもいいよ。君は元の世界に戻って、『あやめ』として人生を全うしなさい。」
なにも言えなくなった私の肩を、クリス様がそっと抱く。
「今晩一晩くらいなら大丈夫。今日はそのまま帝国に泊まろうか。僕もここでお別れは寂しいから、せめて最後の晩餐くらいは楽しませて。」
それから馬車は、宿屋へと入っていった。
ライアンおじい様から勧められ、しばらく帝国にとどまるために手配された高級宿である。
クリス様は、帝国に交渉に向かうことが決定した時点で、私を元の世界に帰すことを決めていたからこそ、私を同行させたのだ。
最初から、そのおつもりで・・・。
それに、先日結婚したばかりだというのに、部屋は別々・・・きっと、一人で考える時間を与えるため、余計な未練を残さないための、クリス様のご配慮だろう。
まさか、この時のことを考えて、イシュタル家でも別々の部屋だったのではないだろうか。
クリス様は、「夕食の時間になったら迎えにくるから」と、私は部屋に一人残された。
私は、私は・・・どうしたらいいのだろう。
これまで必死に、未来の私のために、聖女様を殺めないように生きてきた。
でも、それでも・・・優しいお兄様や、ライアンおじい様や、クリス様が私を支えてくれた。
クリス様は、私の、アイリスの欲しいものをすべて与えてくれた。
そして、未来の私を助けてくれた。
500年という、途方もない長い時間をかけて、たった一人で私を探してくれた。
私は、このまま黙って元の世界に帰っていいの?
万が一、私が消えることで、お兄様が、領民の命が危なくなったら?
私一人の行動で、これまでのお兄様のご努力が全て無駄になってしまうではないか。
機械に繋がれた私の体に帰ったとして、それがもともと定められた寿命だったら?
ただ、穏やかな死を迎えるためだけに帰るだけだ。
私の次の時代の・・・『茨野あやめ』ではない私のために、クリス様を、お兄様を、領地のみんなを犠牲にすることができるの?
私は・・・私は・・・・・・。
もし・・・クリス様が消えてしまったら・・・。
私の前から、霧のように消えてしまうクリス様を想像すると、途端に恐ろしくなり、自分で自分の肩をギュッと抱きしめる。
たとえ、贖罪だったとしても、同情だったとしても、『あやめ』ではなく『アイリス』を想っていたとしても、私は・・・。
私がここに残れば、クリス様が力を使わなかったら、まだ共に生きていけるというのであれば・・・。
私は、もうとっくにクリス様に心を許している・・・お慕いしている。
クリス様が隣にいない未来なんて、考えられない。
ならば、私は・・・。




