72 風雲急を告げる
クリス様の妻として、イシュタル家の門をくぐる。
通された部屋は、2階にある東向きの明るい部屋。
前侯爵夫人がお使いになっていた部屋ということであった。
部屋を一つ挟んで、クリス様の部屋がある。
夫婦として、寝室は一つかと覚悟していたのだが・・・。
「アリスが成人を迎えて名実ともに夫婦になるまで、別々にしよう。アリスのこと、大切にしたいから。」
ということで、別々の部屋になっている。
世間では私たちはまだ婚約者ということになっている。
クリス様のこれからのことを思えば、順番が逆になるなど、社交界において醜聞にあたることは避けなければいけない。
仕方ないこととはいえ・・・少し寂しいと思ってしまう私だった。
クリス様はイシュタル侯爵となったが、王家とかかわりを絶つことは難しいお立場にある。
いずれ外交を担うクリス様は、諸外国との交渉もあり、1カ月のうち半分は王都に向かわれる。
クリス様不在の時には、ライアンおじい様と執事の方が領地のお仕事をされていた。
私も少しずつではあるが、侯爵夫人としての仕事をさせてもらっている。
イシュタル領は王国の砦とあって騎士が多く、のどかなノワール領とは真逆の雰囲気である。
そのため、農業よりも、武具を中心とした物づくりが盛んな土地であった。
卒業後の行き先が予定と違ってしまったが、経営学科を専攻して良かったと思ったのは言うまでもない。
淑女学科を専攻していたら、次々届けられる書類の意味すら分からなかったに違いないもの。
とはいえ、学園の勉強と実際の領地経営では、まるで質が違う。
クリス様と離れている期間が長く、不安がないといえば嘘になるが、今は領地のことを覚えるのに精一杯であり、余計な事を考えている余裕がない。
仕事を任せてくださるライアンおじい様には、とても感謝している。
寂しくも忙しい日々を過ごしていたある日、クリス様が厳しい表情のまま王都から帰られた。
「クリス様、お帰りなさいませ。・・・どうされました?なにか良くないことでも?」
「ただいま。アリス・・・うん、そうだね。あまりいい話じゃない。」
「まさか、帝国がらみの・・・」
「爺さんも交えて、今後の相談をしたい。」
当主の執務室に、クリス様とライアンおじい様と私が揃う。
「爺さん、アリス。リスティア帝国が動いたよ。」
「む・・・いよいよか。」
「うん。こちらにかなり不利な交易を要求してきてね。僕が交渉に行くことになった。一週間後に出立する。・・・・・・アリス、共に行ってくれるかい?」
「私も、でございますか?」
「イシュタル家だけでは足りないからね。ノワール家として、なにより僕の妻として、共に交渉の場に同席してほしい。」
「・・・私で務まる事でしたら、喜んで。」
「最悪、ここに戻ってこれないかもしれない。それでもいい?」
かなり厳しい交渉になるのだろう。
それでも、クリス様のお力になれるのなら・・・私は黙って頷いた。




