71 アイリス・イシュタル
「ライアンおじい様、ようこそお越しくださいました。」
「む、アイリスよ、息災で何よりじゃ。卒業のことは聞いておる。よく頑張ったな。」
客間に入り、ライアンおじい様に挨拶をする。
ライアンおじい様は、ゴツゴツとした手で、私の頭を撫でてくださった。
それはお兄様とは違い、長い間、剣を握ってきたであろう硬い掌だった。
クリス様と私の卒業祝いの宴は、家族だけのこじんまりとしたものであった。
王都で開かれる卒業パーティーと成人のデビュタントがどういうものであるかは知らない。
きっと、華やかで煌びやかで、キラキラして・・・そして欺瞞に満ちた世界なんだろう。
私は・・・そんな社交界から認められなくてもいい。
こうして、心を通わせる方たちと、手袋をつけなくてもいい場所で、ずっと生きていきたい。
そして、卒業祝いの日から3日ほど経った日のこと、王家の早馬が到着した。
クリス様あての書簡であった。
客間に、ライアンおじい様とクリス様、お兄様と私が集まったところで、王家からの使者がその書簡を読み上げる。
「クリスティン・アクオス殿下におかれましては、成人が認められ、イシュタル家次期侯爵として降下されることが決まりました。この日をもちまして、クリスティン・イシュタル侯爵となられます。そして、アイリス・ノワール様との婚姻が認められました。クリスティン・イシュタル様、アイリス・イシュタル様、おめでとうございます。」
使者の方はその書状を恭しくクリス様に渡すと、そのまま退出された。
「イシュタル侯爵様、おめでとうございます。我が妹、アイリスをよろしくお願いいたします。ノワール家当主不在につき、代理である私が立ち会うこと、どうぞお許しください。」
お兄様が、お二人に挨拶をする。
「ルークよ、我らはすでに家族となった。そのような堅苦しい挨拶はいらぬ。」
「ルーク義兄上、すでに私たちは同じ侯爵家です。むしろ義兄上が先輩だ。今後とも、この若輩者にご指導よろしくお願いします。」
「ありがたきお言葉、それでは、今後とも両家発展のため、よろしくお願いします。」
お兄様とクリス様が、固い握手をされた。
「では、儂は一足先に領地へ戻る。クリスはアイリスを連れ、後程来るがよい。ではな、東で待っておるぞ、アイリス。」
そう言って、ライアンおじい様は一足先にイシュタル領へと出立された。
私がイシュタル家へ嫁ぐのは3日後・・・このノワール家ともお別れとなる。
「アリスは何も心配することはないよ。その身一つで来てくれればそれでいいから。」
クリス様が私に向かって笑いかける。
「なにを仰いますか。ノワール家の威信にかけて盛大に送らせていただきます。いいかい、リズ。クリスティン様に酷いことを言われたら、すぐに帰って来るんだぞ。」
「お兄様ったら。今からそんなこと言わないでくださいませ。」
「そうですよ、ルーク義兄上。僕がアリスにそんなこと言うわけないじゃないですか。それと、僕のことはクリス、とお呼びください、義兄上。」
お兄様がクリス様を一瞥する。
「それでは、遠慮なくクリスと呼ばせていただく。ノワールにいる間はそのまま客間をお使いください。ここは部屋数が足りませんからね。」
「え・・・それは・・・あんまりじゃないかな。僕たち、夫婦だよ?」
「これがノワール家のしきたりです。嫌なら前侯爵と共に先にお帰りください。」
「お兄様!さすがにそれは失礼ですってば。」
もちろん、そんなしきたりは、ノワール家にはない。
しかし、お兄様は最後の日まで私とクリス様の同室を認めなかった。
お兄様は、私をクリス様の妻ではなく、お兄様の妹として3日間、存分に甘やかしてくれた。
そして、3日後、私はクリス様と共に、ノワール家から旅立った。




