第30話 天使の羽と羽根
「ごはっ――、畜生。やっぱだめか……」
「そうじゃないでしょう。もっと見苦しく、死ぬのはイヤダ、ボクを助けてって、喚きなさいよ。それでやっと私の溜飲が」
「…………」
「あらもう死んだ。あなたのせいよ、レトリ。どうしてゴルくんを止めてあげなかったの。すぐ傍に居たのに、彼の手を掴んであげられなかったの」
クリフォトの言葉は、レトリの心を深く抉る。膝から崩れ落ちた。
嘲笑響いて、その大きく、ぽっかりと空いた心の穴に魔手が伸びる。
クリフォトの片腕が、虚空へ突き込まれた。
生身のように見えて、元より霊体。入り込むのは訳はない。場所すら問わない。
分身を入れていた偽の核をまだ胸に飾ってあるのだから、干渉するのも容易だ。
「良い子ね、レトリ。とてつもない後悔に包まれ、苛まれてる。私があなたを手に入れる為にはこうするしなかったのよ。許して。そのせいでゴルくんが死んじゃったわけだけど。ハハ、もう正気じゃいられないわよね! だって、全部、あなたのせい! あなたがもっと早く私を受け入れていたら、ゴルくんは死ぬことなかったんですものね!」
とどめの入る音を耳で捉えた。ガラスの割れるような音が繋がった先でした。
もう完全に心が壊れ、無防備な状態だ。顔に生気もない。
勝負ありねとほくそ笑み、侵入を強めていったところで、鋭い痛みを感じ、クリフォトは腕を引っ込める。
白煙の上がる自らの指先を見て、顔色を変える。この力には、覚えがある。
まさか、と驚愕を浮かべる彼女の前で、レトリが膝を立て、ゆらと立ちあがるや、烈火の怒りを示すような気炎を身から立ち昇らせ、強烈な圧迫感を出す。
怒っている。それはわかる。しかしどうして怒ることができた。それがわからない。
自らを責め、責め抜いて、心を壊した人間が、いくらなんでも立ち直りが早過ぎる。
責任転嫁で逃れるにしたって、そんな暇はなかったはずだ。
だから頭が混乱する。何が起きたかわからない。
強い意思を持った両目が向く。射殺されるようで震えが起きた。声が上擦る。
「誰よ、なんで立ち上がれるのよ……」
「天使に会ってきたよ。私に言ったの。あの子の目を覚ましてあげて欲しいって。わたしはさ、嫌だって言ったの」
「――っ、介入かっ! どいつだ! まだ中にいる感覚はある。今の今まで眠っていた癖に、誰が急に起き出し、私を裏切った!」
「自分の胸に聞いてみたら。でも、すごく悲しい目をしてた。だから交換条件を出したの。あなたの目を覚ましたら、ゴルくんを救ってあげて欲しいって」
「どこまで私をこけにして……、死んでも尚! こんな姿になっても尚! まだ邪魔をして、私を弄んで……、ただじゃおかない。裏切者共々、灰に変えてくれる」
「怒ってるのはわたしも同じ。ぼっこぼこにして、その腐った性根、叩き直してあげる」
ケルベロス、と鋭い声が飛ぶ。
「そんなカス放っておいて、早くこっちへ来なさい。目の前の要らないゴミを噛み殺せ。天使の入った器なんて、要らない。くたばれ」
命令に応じてすっとんでくる。噛みつこうとした一瞬、レトリの背中から天使の羽が覗き、握りしめた拳が唸りを上げた。
「ごめんね。操られてただけなのに」
顎下に入って、顔一つを砕き割り、そのまま上へぶっ飛ばす。天井に突き刺さって、めり込み、ゆらゆら揺れて、落ちてくる。既に息はない。
その一発で絶命しており、核にはならず、屍を晒す。
「死者の国の王に言って、元に戻して貰うといいよ。不滅の魂を持ってるもんね」
「チッ、使えない駄犬。裏切者をあぶり出すこともできないなんて。まあいいわ。私が直々にやってあげる」
黒いステッキがレトリに向く。魂焼き尽くす深淵の炎、と声が上がった瞬間、彼女も前へ。駆けた。
「お前なんか、もう全然怖くはないんだ!」
全てを灰と帰す黒炎を身一つで突っ切り、拳を振りかぶる。
驚愕の表情を浮かべるクリフォトの顔目掛け、それを放って、寸前でピタリと止めた。
生じた爆風に晒された長い黒髪が後ろへなびき、戦いの終結を示すかのように静かに降りた。
「ぼっこぼこにするって言ったのは、うそ。口から出まかせ。約束したからね。目を覚まさせてあげる。天使の愛で――、さあ、みんな起きて」
拳を開いて、クリフォトの胸に当て、彼女は授かった力を注ぎ込む。
すると次の瞬間、白炎上がって、クリフォトの身を焼く。口から絶叫迸る。
「あああああああああああああああああああ」
浄化の炎が邪を払う。まさにそんな光景であり、その身を溶かし尽くすと、核が残る。
拾い上げ、見つめた。
「本当は殴ってやりたかったけど。これでゴルくんが、救われるなら」
パキン、と胸の所で音がした。偽の核が壊れ落ちたのだ。
彼の方を向き、天使の羽根が一枚、その身に落ちていくのを確認すると、身から力が抜けて倒れ込む。
――約束だ。この少年を救おう。
その羽根には、そんな一文が刻まれており、光を放つ。
ラビリンスが揺れた。崩壊が始まり、その場から身動き取れず、白と黒の一騎打ちを固唾を呑んで見守っていた二人が、正気に返って倒れた二人を見に行く。
「ウルフ! ゴル息してるわよ! 生きてる!」
「よ、よかった! オレ、もうなんかぐちゃぐちゃで、うれしくて」
「いいから手伝う! さっさとここから出ないと。嬉しい気持ちはわかるけど」
「ぐすっ、オレが、オレがみんなを担いでく! ビーティも背中に乗れ」
「乗れって、いや無理でしょ。私は走って」
「いいから。ビーティの足じゃ間に合うかわからない。オレがやらないと。守りたいから、魂の解放者になった」
「――わかった」
狂う獣を見たくない。森を守る為に魂の解放者になった。その守りたいという気持ちを力に変え、ウルフは三人抱えて走り出す。
既に体力はかなり消耗した状態だが、絶対死なせるもんかという一念で腕に力を込め足を動かし続け、汗だくになりながらひた走り、ダンジョンまで置かれた長い長い道のりもあと少し。
「あと少し、もう少しだから頑張んなさい! ハイヨー! ハイヨーって違くない? いけウルフー!」
ぱしぱしと肩をはたかれつつ、ついに突破。
地面に降りると同時に倒れ込み、彼は仰向きになって、ぜぇぜぇと息を上げる。
上からは大きな光が降る。レベルアップの現象ではあるが、やり遂げたことを神が祝福してくれているようで、笑みも浮く。
「はぁ、はぁ――、間に合って、よかった。だめかとおもった」
「冷や冷やはさせられたけど、でもよくやったわ。今度ばかりは、私の所にも降ってくれてるか。レベルアップって、こんな気分なのね――」
「つめたくて、きもちいいな」
「そのまま寝たら死ぬわよ。いいか、寝てなさい。最後くらいは私がみんな運んであげる。一人いいとこなしだったわけだし。よい、せっ――、重!」
傍の廃家に次々運び込む。とはいえここは極寒の地。ただ待つだけで骨だ。
日が落ちる前に様子を見に来るとは聞いているが、分厚い瘴気は晴れる気配を見せず、今何時かも、いつになるかもわからない。
同じ頃、狼達のリーダー、キーンスが告げを聞く。
吠え始め、主人を呼びつけるや、ソリを引いて他の狼達と一斉に駆け出す。
「おぉ、なんという光景だ――――」
息を呑み、見上げる空の上では、薄明光線という自然現象が起き、ただ普通のものとは違って、大きな天使の輪が一緒に浮かび、周りには白い羽根が躍る。
その現象の目撃者は彼だけではなく数えきれないほどおり、ほとんどの者が、こう理解した。
悪魔の手から聖女が解放されたのだと。天使がそのことを伝え回っているのだと思う。
いったいそれを成したのは、誰か。
時を置かずに四人の名が広まり、信じられない速度で国中を駆けた。
出所は不明。氷の大地に生きる者等がしたことか。いいや、彼らとてまだ半信半疑。
ガームと共に戻ってきて、真相を知る。大きな騒ぎとなって、一晩中続くことになる。
それは他の町でも。それから二日目の昼。
新聞を持った男が、教会傍に立つ孤児院へ駆け込み扉を叩く。
「シスター! シスター!」
「いったいどうしたというのです。そんなに息を切らせてきて」
「これ、ここ! この名前、見て」
指で示す見出しには、悪魔に囚われていた聖女が解放されたことが大きく載り、路地裏のダイヤモンドを超える逸材だの書かれた横に、とても見覚えのある名が。
シスターはそれを見て、頭が理解するだけの間を置いて、卒倒する。
彼女の故郷もその晩、お祭り騒ぎとなり、偉業を称えて町人達は喜び合う。
遠い遠い所にある別の町では、不穏な影も落ちていたが。
高級ホテルの一室、一覧に乗る四人の名の先頭、ゴルの名を男が指で弾く。