影の巨人
飲み会で遅くなった帰り道、泳ぐような足取りで住宅街を歩く。幸い、家々の上品なガーデンライトと満月で足下は確かだ。左右から漏れる平穏な家庭の賑わいで、心細くなることもない。
のどかなベッドタウン。家族の待つ、買ったばかりの新居を目指しながら、良い街を選んだものだと自画自賛する。アルコールのせいか、辺りの光は一層眩しく、人々の暮らしの音もよく聞こえる。
上機嫌に歩いていた時、ふと前方に人影を見つけた。
足を引きずるようにして歩く、ひょろりと背が高い影。街灯の落とす光の輪をゆっくりと通り過ぎようとしている。
頭上から注ぐ暖色の光を、その人影はすべて吸い込んでいるように真っ黒だった。
平凡な住宅街の景色の中、一カ所だけ欠けたパズルのピースのように、そこだけが虚無の色だった。
眉をひそめる。目が疲れているのだろうか。
不意に電話が鳴った。足を止め、スマホを取り出す。
家族からだった。もうすぐ帰るから、と呂律の回らない舌で答える。遅くなるならもっと早く伝えよ、と釘を刺されて、ぺこぺこと電話越しに頭を下げる。
数分のやりとりを終え、前を見る。
人影との距離は先ほどまでよりも開いていた。向かう方角は同じらしく、後を追うように歩き出してから、首を傾げる。
あんなに背が高かっただろうか。
初めは近くのブロック塀と同じくらいだったような気がする。それが今は優にそれを追い越している。
記憶違いか、目の錯覚か。酔っているのだからそんなこともあるか、と自らを納得させて歩き続ける。
人影の歩みはひどく遅い。普通の歩みでも、こちらの方がずっと速い。彼我の距離を半分ほどまで縮めたところで、再び首を傾げる。
あんなに背が低かっただろうか。
今度こそ記憶違いではない。ブロック塀よりもずっと背が低い。小柄とさえ呼べるほどに縮んでいる。
思わず立ち止まり、注視する。
片足を引きずりながら歩くそれは、ゆっくりと進むにつれて大きくなっていく。否、正確に言えば周囲の物体と比較すれば背が高いのが分かる――視界の中に占めるそれの面積は常に一定だ。
遠近法の効果を打ち消すように、遠のくほどに大きくなる、その存在。近づけば――
少しだけ距離を縮めると、本来遠近法でより大きく見えるはずのそれは、やはり同じ見かけを保っていた。ただそばの塀と比べれば、さっきよりも実際のサイズは小さくなっているはずだった。
酩酊した頭も、それが異常なことだと気づき始める。
目を擦り、再び見つめる。それは変わらずのろのろと歩いている。
あり得ない。これまで知っていた世界のルールに従えば、そんなことはあり得ない。
摂理から外れた存在。それに関わってしまえば、きっと自分の世界そのものが崩れ去ってしまう。その警鐘は、本能が鳴らしたものだ。
自然と足が止まった。
住宅街の景色は、いつもと変わらず温かい。その中で、ただ足を引きずりながら歩くその人影だけが日常をひずませている。それが存在しているという事実だけで、町並みと漏れ聞こえてくる人々の声の凡庸さが、狂ったものの一環に堕してしまう。視線を逸らさず、それが消えてくれることを願う。
距離が離れるたび、それは大きくなる。ブロック塀を追い越した。すぐに隣家の一階の窓を越える。やがて庇に背が届き、二階の窓に届き、街灯を越し、地平線近くに浮かぶ満月にかかり――
遠のくたび、それは大きくなり続ける。ひょろりとした影はもはや巨人と呼ぶべき大きさになっていた。そのまま肥大化していけば、いずれ山々を踏み潰すほどになるだろう。
消えてくれ、と祈るように見つめても、その闇は薄れない。依然として黒々と、夜空を背景にしてもなお一層暗く沈んでいる。
得体の知れないそれに近づきたくない。
けれど、その行く手には、家族の待つ新居があるのだった。
闇の巨人は既に、広々とした道をその足で塞ぐほどに大きい。それが家々に触れれば、どうなるのだろうか。
あれが巨人でいる限り。
駆け出す。
巨体になっても、それは足を引きずっていて、歩みは遅々としていた。
次第に距離は縮まる。巨人は少しずつ小さくなる。満月を隠せなくなる。電柱よりも小さくなる。家の屋根を下回る。窓を、庇を越え、ブロック塀よりも低くなり――
手の届くほどの距離、小人になった影がよろめきながら歩いている。目を逸らしてその隣を全速力で駆け抜ける。
そのまま振り返ることなく数百メートル走り、息を整えながら振り返った。あの闇は見えなかった。追い抜いた瞬間、消えてしまったのかもしれなかった。