ロックダウン
「あの」
通勤途中、蒼白な顔の男に声をかけられた。
「ここは、逆啓大学で間違いありませんか」
「ええ、そうですよ」
「……なんでだ……」
ぶつぶつと呟き、爪を噛む男。
彼はついさっきまで正門前をうろうろしていたらしい。守衛が鋭い視線を向けている。
「何かお困りですか?」
「……ええと……超心理学部は、どこにありますか」
男は聞き覚えのない言葉を口にした。
「超心理学部、ですか。あいにく、逆啓大にはそういった学部は……」
「あった、はずです」
男に縋り付かれ、びくりとする。彼はぼろぼろと涙を零し始めた。
「あったはずなんです、稲沢教授に会いたいんです……!」
「……稲沢先生、ですか」
それは私のボスの名前だった。
男の異様な様子から、直観する。これは、先生の『案件』だ。
「超心理学部というのは聞き覚えがありませんが……先生のご紹介ならできますよ。私は稲沢研究室の研究員で」
訝しげな守衛を目で追いやって、男を敷地内へ促す。
広大な逆啓大学の中でも一番端の、ほとんど森と一体化したようなところに私の職場はあった。
『The Institute for Unnatural Phenomena Science』の看板を通り過ぎ、入り口のカードリーダに職員証を当てる。
エレベータに乗り込んでから、再び職員証をかざすと、エレベータが私たちを研究室へ運んでいった。
「おはようございます、先生。先生に会いたいという方が……」
声をかけながら扉を開けると、最奥のデスクで端然と古書をめくっていた初老の男が顔を上げた。落ち着いたニットの紳士然とした姿にはそぐわない、傭兵じみた古傷が左目を横切っている。
彼こそが部屋の主であり私の恩師、そしてたびたび私をトラブルに巻き込んできた張本人でもある稲沢教授だった。
「おや、アポはなかったと思いますが……」
彼はぱたりと古書を閉じる。つい先日の呪い歌事件で入手した曰く付きのものだ、と私は気づく。
「い、稲沢教授!」
先生を見るなり、男が飛び出す。
「教授、助けてください……! 今朝から世界が妙なんです、知り合いが誰もいなくて、街も変で……!」
「君は……」
先生は彼を見下ろし、眉を寄せた。
「どなたです?」
男の顔が絶望に染まる。
「教授も、私を覚えていないんですか……?」
「お知り合いじゃないんですか?」
「初対面ですね。でも、彼の方は私を知っているようだ」
先生は顎をさすり、ドアを一瞥した。
「応接室でお話を伺いましょう」
UP研究所は、その名の通り『不自然な現象』――つまり、呪いとか、幽霊とか、超能力とか、そういった自然科学の枠から踏み出した怪異現象の研究のために立ち上げられた組織だ。
その中でも稲沢先生は、フィールドワークを中心に様々な成果を上げてきた、研究所随一のやり手だった。無数の怪異に立ち向かい、超常現象の真相を解き明かし、その過程で私をこき使い。
もちろんそんなことをおおっぴらに発信すれば大学の正気が疑われるから、世間的には「胡散臭い疑似科学研究で企業から資金を調達している胡乱な研究所」、そして「外部資金で雇われた穀潰しの研究者たち」ということになっている。
とはいえ長年超常研究の最前線を張ってきた稲沢先生の名前は好事家の間では知れ渡っていて、怪現象に手を焼いた人間が彼を訪れてくることはままあった。
今回もそんなケースだろうか、と隣の部屋で話し込む声を漏れ聞きながら、私はいつも通り事務仕事をこなす。こんな胡散臭い組織でも、資金は適切に処理しなければならないのだ。
やがて二時間が過ぎ、随分長いな、と思ったところで、
応接室から、バン! と大きな音が聞こえた。
巨大な手のひらで机を思い切り叩いたような音。
「っ……先生?」
声をかけると、もう一度。
バン!
バンバンバンバンバン!
誰かが癇癪を起こしたかのように、何度も何度も鳴る音。
そして唐突に止んだ。
「……先生?」
声をかけ、応接室の扉を開けようとしたところで、ギイ、と軋む音とともに、ドアが向こうから開いた。
稲沢先生が出てくる。
「……小川くん、ちょっと手伝ってください」
彼は無表情で、懐から引っ張り出した大量のお札、得体の知れない無数の漢字が書き込まれたそれらを私に押しつけてきた。
これまでのフィールドワークで何度も目にしてきたものだ。先生にとっての切り札。
「今から、この部屋のすべての扉、窓、あらゆる開口部にこれを貼っていきます」
「は?」
返事も待たず、彼はずんずんと研究室の入り口に向かい、しっかりと施錠した。
彼のニットベストに血しぶきが飛んでいることに、その時私は気づいた。
「あの、それ」
「早く」
有無を言わせぬ口調。
彼のフィールドワークに付き合ってきた経験上、こういうときは従うのが吉だ。――呪いや怪異が迫っていて、一刻の猶予もない、そんな状況。
私は無言で、先生の指示通り部屋を目張りしていった。
カーテンを閉め切り、鼠一匹通れないほどに封鎖すると、電灯だけの室内は無機質な薄暗さに満ちた。
先生はふう、とため息をついて、それから応接室を指さす。
「次は、こちらの部屋です」
「はぁ……」
あの男は、さっきから物音一つ立てないな。
そう思いながら扉をくぐって、その理由を知る。
ソファを中心に、血が四方八方へ飛び散っていた。ちょうど人一人分の血液、フィールドワークで見慣れてしまったそれの中央に、革張りと一体化するまで叩き潰された肉があった。
肉。磨り潰されたばかりの、新鮮な肉。ついさっきまで生きていた肉。
「呪いでした」
先生は淡々と言って、この部屋も封鎖していく。私は鮮烈な死の匂いに鼻をつまみながらそれを手伝う。
一通り目張りを終えると、ようやく先生は一息ついたようだった。机の上で揺れていた茶を、血が入っていないことを確かめて、一口飲み、ため息をつく。
「これは……どういう呪いですか? このお札で身が守れるんです?」
私はいつものフィールドワークのように、きっと怪奇現象の正体を理解しているだろう先生へ尋ねる。
ソファの血に汚れていない部分を注意深く選んで腰を下ろした彼は、私を見上げて、少しの間沈黙した。話す順番を整理し終えると口を開く。
「まず、この彼ですが」
男の残骸を指さして、
「彼は、異世界人です」
「はい?」
突拍子のない言葉に首を傾げる。
「並行世界、と呼ぶ方がイメージとしては近いですね。この世界と似ていて、けれど決定的に辿ってきた歴史が違う、そんな世界からやってきた……彼の説明から、そう判断しました」
逆啓大学という場所があり、稲沢教授という人間がいる。そうした表層的な要素は共通しながらも、根本から異なる世界。
「例えば……彼のいた世界では、2019年のパンデミックは起きていなかったようです」
「え!?」
「他にも、ヨーロッパのとある国が存続していたり、日本の首都が福岡になっていたりと、何やら色々違うようでした。まあ、その詳細は重要ではありませんね」
並行世界論を専門とする研究者も、このUP研究所には何人かいたはずだ。彼らが聞けば垂涎モノの情報だっただろうと思いつつ、先生の話に耳を傾ける。
「大切なのは、彼が何故ここへやってきたかという点ですね。彼は……昨夜、『知ってはならない』というタブーを犯したそうです」
何を知ったのか、その詳細もまた重要ではない、と先生は言う。
「重大な呪いが降りかかると言われていたタブーを犯して、案の定呪われて、並行世界へ飛ばされてきた。そういうことのようです。そして呪いが彼に追いついて、こうなったと」
再び指さされた、男だったもの。革の上を流れた血液が、先生のズボンに染み込むのが見えた。
私は顔をしかめて周囲を見回す。外からの光を一切遮断して、LEDの光だけが煌々と照らす、静かな部屋。
「もしかすると、その呪いが今度は私たちを狙っている……ということでしょうか」
だからこうしてお札で部屋を守ろうとしているのだ。そう得心して口に出すと、先生はかぶりを振った。
「君はあのパンデミックを覚えているでしょう?」
「……? はい、もちろん」
膝の上で手を組んだ先生は、滔々と言葉を連ねる。
「私たちが概ね克服したと思い込んでいた弱毒ウイルスの変異型が猛威を振るって、地球屈指の大都市が消え去ったあの病……何故、あそこまで被害が拡大したのでしょうか」
講義のような問いかけに、一時期は連日報じられていた感染症情報を思い出して答える。
「グローバル化によって世界が小さくなって、国から国へ簡単にウイルスが運ばれるようになってしまったこと……それと、あまりに変異が大きく、免疫を持たない人間が大多数になっていたことも一因だ、と見た気がします」
「その通りです」
先生は満足げに頷く。血が香った。
「つまり、免疫のないものは容易く広まってしまいうる。そして感染が広がるだけでなく、病状自体も致命的になる」
「そうですね」
「その感染対策の一つが、ロックダウンでした」
続いた先生の言葉に、不穏なものを感じる。
「『知ってはならない』呪いはある種の伝染病です。免疫の概念もまたしかり」
とんとんと彼の指が机を叩く。
「呉での事件を覚えていますか? 戦前、植民地の呪いを輸入して研究しようという試みがありましたが、誰も知らない土地に持ち込まれた呪いは研究者が想定した以上の猛威を振るい……」
先生の目が本棚の古書の背を撫でる。
「……さて、先ほど彼を殺したのは、『こちらの世界の誰も知らない呪い』、です」
異世界から持ち込まれたウイルス。
誰一人免疫を持たないそれは、
「……瞬く間に広がる」
連日ニュースに映し出された感染者数の映像を思い出す。
野火のように燃え広がり、世界を包む呪い。
「それを止める方法は……」
先生が立ち上がり、部屋の隅のロッカーへ向かった。
「この部屋から出さないこと、です」
彼が取り出したのは――猟銃だった。
火藪芽一家惨殺事件で五人の命を奪った、呪われた銃。
身動きできなくなった私へ、先生は無表情に、ゆっくりと猟銃を構える。
「ここを、『開かずの間』にします。同僚は皆優秀ですから、ここが開かずの間になった、それだけで状況をある程度察してくれるでしょう」
札で封じられたすべての出入り口。それだけでは、開かずの間は完成しない。
「誰も足を踏み入れられないこと。踏み込んだ人間の命を必ず奪うこと……それも、件の呪いよりも先に。呪いが広められてしまうよりも前に。そんな呪いが必要です」
呪いの作り方については、稲沢教授はこの国では第一人者だ。
その彼が私に銃口を向けているということは、そういうことだ。
私を呪いにしようとしているのだ。
致死率が高すぎるウイルスは感染者を殺してしまうため広まらない。そんな呪いでこの部屋を満たせば、ロックダウンが完成する。
彼がそう言うのならば、きっと他の手立てはないのだ。
「すみません。怨嗟を残してもらうために、楽には死なせてあげられませんが」
淡々とした謝罪とともに、引き金が引かれた。
「まあ……慰めとは言えませんが。私も一緒に呪いになります」
意味ある言葉が聞き取れたのはそれが最後だった。




